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揺れる「異文化共存」の象徴 モスク化された世界遺産アヤソフィア

4メートル以上はあるだろうか。歴史を感じる巨大なドアを通り、1500年前に敷かれたとされるゴツゴツとした石畳を進む。訪れた人たちはみな、建物の中心部を目指す。

トルコ・イスタンブール旧市街にそびえる、歴史的な建築物アヤソフィア

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ステンドグラスから、午後の日差しが差し込む。外のうだるような暑さから比べると、中はひんやりとしていた。分厚い岩でできた壁のおかげかもしれない。直径33メートルの巨大な中央ドームの下に入り、担いでいた三脚を置いた。視界に入ってきたのは床一面に敷き詰められた、真新しい礼拝用の青い絨毯だった。

歴史に翻弄されてきたアヤソフィア

博物館として年間350万人の見物客が訪れるトルコ屈指の観光名所・アヤソフィアをモスク化する、とエルドアン大統領が決定したのは7月10日。その2週間後には、86年ぶりとなるイスラム教の金曜礼拝が行われた。

この決定をめぐり、キリスト教文化圏からは批判が噴出した。

6世紀、東ローマ帝国によってコンスタンチノープル(現イスタンブール)に建造されたアヤソフィアはキリスト教の大聖堂だった。その後オスマン帝国による征服で、アヤソフィアはイスラム教のモスクに転用される。イスラム教は偶像崇拝を禁ずるため、キリストや聖母子像などのモザイク画は漆喰で塗りつぶされた。

時は経ち、1935年にトルコの初代大統領アタトュルクは政教分離を国是として改革を行い、アヤソフィアをモスクでも教会でもなく、宗教的に中立な博物館にするとの決定をした。このとき、漆喰は剥がされ、およそ1400年ぶりに東ローマ帝国時代のモザイク画が姿を現した。皮肉にも、漆喰によってモザイク画が風化から守られたとする説もある。それ以降、アヤソフィアはキリスト教とイスラム教の文化が共存する、世界でも極めて珍しい場所になっていた。

異文化共存の象徴が、なぜいまこのタイミングでモスクと変更されたのか、現場を取材した。

「神は偉大なり」モスク化後初の金曜礼拝

86年ぶりの金曜礼拝、当日。

私たちは、礼拝が始まる3時間前に現場に入れば良いだろうと見込んでいた。ところが、である。アヤソフィアからほど近いホテルから表通りに出たとたん、動くことが出来なくなってしまった。アヤソフィアに少しでも近づこうと集まったイスラム教徒たちが、道路を埋め尽くしていたのである。

非公式ではあるが、エルドアン大統領はこの日、35万人が集まったと発表している。

三密どころの話ではない。

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(アヤソフィア前には「社会的距離を保つように」との横断幕も・・・)

そのうえ、時には40度に近づく真夏のトルコだ。そこかしこに敷かれた一人用絨毯も、人々の流れを遅くしていた。礼拝をしようとする人が敷いたものだ。土足で踏んではいけないため、もみくちゃにされながら靴を脱ぐ。片手に機材、片手に靴。そのうえ重いリュック。飛び交う警察官の怒号。規制を突破しアヤソフィアに近づこうとする人々をかき分け、我々は記者証を見せて柵を越える。汗だくになりながら、400メートル先にいたトルコ人コーディネーターと合流するまで1時間以上かかった。

「アッラーフアクバル!アッラーフアクバル!」

神は偉大なり。炎天下の中、礼拝が始まった。前の晩から並んで前列に来た人や、子連れの姿も。広場には巨大なスクリーンとスピーカーが設置され、アヤソフィアの中で礼拝をしているエルドアン大統領や閣僚の姿が映し出される。

すると、スピーカーから流れるコーランを詠む声が変わった。

照りつける太陽の反射でスクリーンが良く見えないが、イマーム=イスラム教の宗教指導者ではないことは分かった。ただ、まるでイマームが詠むような、淀みのない詠唱だ。誰だろう?と思っていたら、トルコ人コーディネーターが一言。「これはエルドアン大統領だよ」。

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(アヤソフィアで閣僚らと祈りをささげるエルドアン大統領(中央)7月24日の金曜礼拝:トルコ大統領府提供>)

エルドアン大統領の意図は?

イスラム教・宗教指導者の養成学校出身で、イスラムの伝統を重視する与党・公正発展党(AKP)を立ち上げたエルドアン大統領。政教分離の国是を重視する軍や司法府の権限を弱める憲法改正を行い、これまでにも世俗派からは政治のイスラム化を懸念する声が上がっていた。世俗主義のもと禁止されていた、女性の公的機関でのヒジャブ(女性のイスラム教徒が身に着けるスカーフ)着用を認める政策も推し進めた。アヤソフィアのモスク化には、敬虔なイスラム教徒が多い保守層の支持を盤石にしたい、そんな狙いがあることは明らかだ。

ただ、今回の決定がキリスト教文化圏に対抗するイスラム圏の雄、という構図を演出するかというと、現実はもっと複雑だ。エルドアン大統領による「アヤソフィアのモスク化」決定の理由について、トルコの元外交官・オズルケル氏は「極めて内政的なもの」と説明する。

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(トルコの元外交官 オルチ・オズルケル氏)

「博物館の地位をモスクに変更する、と言うのは表面的な話。実際には、アヤソフィアはオスマン帝国がモスクとしてから、これまでずっとモスクとしての役割を果たしていた。決定は極めて内政的なもので、国際社会の批判はトルコの主権に関わる問題だ」
<なぜ今なのか?>
「低迷する国内経済が理由だと思う。トルコは今、大学を卒業しても4人に1人は無職の状態。政権への反発が強まっている中、アヤソフィアのモスク化は世俗主義を含めた多くの国民から賛同を得るための、政治的な決定だったといえる」

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(熱狂的にエルドアン大統領を支持するイズミール出身の若者)

実際、アヤソフィア周辺で話を聞くと、もっとも世俗的と言われる地中海沿岸の町・イズミール出身の若者も、モスク化について「とても喜ばしいことだし、国際社会の批判はお門違いだ」と息巻いた。もちろん、中には「大統領選挙に向けた票集めのように感じる」と批判する若者もいたが。

しかし、トルコの経済危機は今に始まったことではない。取材を進めると、アヤソフィアのモスク化がこのタイミングで行われた背景には、トルコが置かれた極めて不安定な地政学的立ち位置が関係していることが分かってきた。

不安定なトルコの地政学的立ち位置

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ボスポラス海峡を挟み西はヨーロッパ側、東はアジア側にわかれるトルコ。地中海と黒海を結ぶ海上交通の要衝でもあり、古来より多くの民族が行き来してきた。国内では、古くからクルド人の処遇をめぐる問題を抱えている。介入している隣国シリアの内戦では、アサド政権の後ろ盾のロシアと対立しながらも、ロシアの最新鋭防空ミサイルS400を購入してプーチン大統領とは絶妙な距離を保つ。一方で、ミサイル購入の結果NATO各国が導入する最新鋭ステルス戦闘機F35の共同開発から外され、アメリカによる経済制裁の危機に直面している。内戦に介入するリビアでは、暫定政権と結託して東地中海の天然ガス田採掘権を虎視眈々と狙っている。ここでも、リビア反体制側を援護するロシアと対立している。

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ざっと挙げただけで、トルコは長年燻る国内の民族問題を抱えたうえ、2つの内戦に介入している。疲弊する経済への負担は大きい。そこに、新型コロナウイルスの感染拡大が起きた。中東諸国の中では、トルコは迅速なPCR検査や国内のマスク増産など対策を講じ、結果的に死亡率を極めて低く抑えることが出来ているものの、5月時点の失業率はここ15年で最も悪い水準の14%に達していて、市民の反発は増している。

野党側もここぞとばかりに批判する。エルドアン大統領には、新型コロナによって悪化した経済への批判をかわす狙いがある、として、今回のアヤソフィアのモスク化について否定的な見解を示している。

アヤソフィアのモスク化について、内政の問題と言い切る元外交官・オズルケル氏に再び、聞いてみた。

<経済が低迷する中、海外の内戦介入による負担は少なくないはず。そうした外交姿勢に対する批判の矛先を変えたい狙いがエルドアン大統領にあるとすれば、アヤソフィアのモスク化は内政だけの問題とは言い切れないのでは?>
「国内経済への負担とトルコの外交戦略は確かに関連がある。今回のモスク化の決定で、エルドアン大統領には、自身がイスラム圏の大国であることをアピールしたかったはず。そして同時に、国民に対して対外的に強い姿勢を見せようとした可能性は大いにある」

衝撃の新規感染3000人

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歴史に翻弄されながら、キリスト教の文化とイスラム教の文化を包み込んできたアヤソフィア。新たに敷かれた青い絨毯は、エルドアン大統領好みの色だという。礼拝の時だけだというが、聖母子像のモザイク画には布がかけられていた。歴史的建築物がいま、政争の具にされそうなのかと思うと、なんともやりきれない気持ちになる。

須賀川さんnote追加

そんなことを考えながら原稿を書いていたら、トルコ人コーディネーターが笑いながら携帯の画像を見せてきた。

アヤソフィアの中で絨毯に寝そべり、まるでグラビアモデルのようなポーズを取りながら、満面の笑顔で自撮りする中年の男性。この写真からだけでは、男性がイスラム教徒かどうかは分からない。ただ、極めて宗教的な施設の中で、しかもモスク化された当日にこんな写真を撮ることが出来る、トルコという国の懐の深さを感じた。

取材をしていて、こんな言葉も投げかけられた。

「仮に今回の出来事が逆だったらどう?モスクとして建てられてその後教会に改装された建物が、改めて『教会と認定する』って宣言されただけで、こんなに問題になるかな?」

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後日、35万人が集まったとされる金曜礼拝で、少なくとも3000人の新型コロナ新規感染者が出たとの試算が出た。

1週間後の私たちのPCR検査結果は、陰性だった。


須賀川さん顔

須賀川 拓 中東支局長

報道局社会部で警視庁担当や原発担当、「Nスタ」デスクを経て2019年から現職。パレスチナ・ガザで寿司を握ったり、タンカー爆破事件の関連で訪れたアラブ首長国連邦で、意図せずマグロをさばく事になったり。。。 趣味は釣り、料理、海、山、カメラ、スキー、ダイビング、トライアスロン、ガジェット…etc