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感染症対策と不登校支援とホームスクーリング制度~kokageの姿勢

 ”ホームスクーリング・センター木蔭”を運営しています。〔コロナウィルス対策と感染症対策〕と〔不登校支援とホームスクーリング制度〕周辺について、kokageの姿勢と、個人的な見解とを伝えるnoteです。
 私自身の頭の中、心の中、気持ちの整理と共に、kokageと私個人の立ち位置を知りたい人のヒントになればと思いながら綴りますね。どうぞよろしくおつきあいくださいませ。(追記・編集があります。最終更新1月27日)

はじめに・kokageのホームスクール研究

 我が家は、ホームページ木蔭で説明しているところでいうとアンスクーリング・スタイルで過ごしています。アンスクーリング・スタイルといいましても、それすらやはり家庭の数だけ違いがあります。それぞれに優先順位や重視することなど違ってくるからです。

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 主にインターネットを介在して、多くの「ホームスクール」の概念に触れ、それらをまとめてきたのが、ホームスクーリング・センター木蔭です。ホームスクールを総称として、ホームスクーリング、アンスクーリング、アンブレラスクーリングを基本の3つのスタイルを説明しています。

 ホームスクールの概念にも、多くの違いがありました。その前提としてあるのが不登校の概念との境界線です。

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 不登校支援の観点と、自由教育(オルタナティブ教育)の観点から、憲法にある普通教育の理解と法整備について理解を深めることから始め、日本の公教育の在り方について考え、問い続けるのが、kokageです。


「学校(一条校)に登校する・しない」を選ぶ

 県を超えた転居を経験していますが、例えば幼稚園選びひとつとっても住む土地土地によって違いがあります。あるところでは私立と公立から選ぶものでした。私立にはモンテッソーリやシュタイナー、そのほかのオルタナティブな保育理念のもとに運営された多くの園のなかから、親たちは我が子と共に通う学び舎を選んでいました。またある土地では、公立のみしかありませんでした。「園を選ぶ選択肢が無い」という概念すら無いほど、自治体にひとつの公立園に通うことが当たり前なのでした。
 そして日本の多くの学生は、「学校」や「進学」というものが一本道であるように感じています。幼稚園・保育園から小学校、中学校、高校、大学そして社会人といったレールです。
 けれども、私たちは知っています。持っています。

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 7歳になる年度から15歳になる年度の義務教育期間に「学校(一条校)」の在籍生徒となる手続きをすることは学校教育法で定められていますが、在籍校に「通う」「登校する」「授業に参加する」等々に強制はあってはならないことを知っています。


「学校に行かない」状況の背景を知る

 「学校に行かない」状態のこどもや家庭にあるさまざまな背景は、想像以上に多様です。紋切り型の面々がする予想は「怠け」とよばれるものが筆頭でした。しかし、近年では実に多くのストーリーがあることが知られつつあります。
 木蔭でまとめたのは、そのうちのわずかなものといえるかもしれませんが、多様な背景の共通項でもあると受け止めてもらえたらとも思っています。それが『教育のえらびかた・はじめかた』にある【小学校入学前に考えること・決めること】です。

 
 『《不登校》の3つの要素』の背景をつづったのが次のnoteです。

➀学校復帰/社会復帰
②休養・休息
③多様なまなび(オルタナティブ/多様な形態)

 これらの多種多様な背景について、果たして《理由》の是非は問われるべきでしょうか。その理由に正当性があるかどうかなどが問われる必要があるのでしょうか。そしてその正当性が確かなものだと、いったい誰が判断をくだすというのでしょうか。


「コロナウィルス感染症対策を求める」為という理由

 「総称としてのホームスクール」と書きましたが、日本のホームスクール家庭の歴史には、これまで「ホームスクーリングとアンスクーリング」の対立の構図が実際にありました。それはそれぞれのポリシーがあって、互いにポリシーに適さないと感じるゆえんです。
 例えば、ホームスクーリング・スタイルで過ごしている家庭から見れば、カリキュラムがなく、目標設定が無いように見えるアンスクーリング・スタイルは、無計画で、無責任であるように感じたようですし、かつアンスクーリング・スタイルのうち自然志向も多いことから近代化や科学技術を否定しているようにも感じたのかもしれません。一方、アンスクーリング・スタイルで過ごしている家庭から見ると、ホームスクーリング・スタイルは計画的であることからこどもを管理(コントロール)しているように感じた面もあったのです。

 しかし、こういった対立は、実際のところは互いに知れば知るほどに境界線は無くなり、「実は同じ」なのだと視界が違って見えるようになることがほとんどです。ただイメージだけで語っているうちは、互いにその本質を知らず、互いに学び合えたときに初めて「本質は同じなのだ」ということに目が向き、ただ純粋にあるのは「違い」なだけだと分かるのです。

 ホームスクーリング・スタイルで始まった家庭は、ある時点からアンスクーリング・スタイルに転向することもありますし、逆にアンスクーリング・スタイルで過ごしてきた家庭でも、やはりこどもの興味・関心が拡がっていくうちにその目標と目的の達成のためにホームスクーリング・スタイルへと移行していくことだってあります。行きつ戻りつすることだってあるでしょう。それこそ家庭の数だけ、選ぶ道、選ぶ時期は多様だということです。

 そして、分かることは、いずれにせよ、「選ぶ理由」に正当性を証明する必要はないということです。

 コロナウィルス対策が「必要である」とする根拠と、その根拠に従った要求に正当性があることを求めることは必要でしょうか。事実そこに置かれているのは、理由はどうあれ「学校に登校することが不安な親子がいる」ということだけです。そこに目を向け、寄り添うこと以外の何が必要なのでしょうか。そして、日本の現行の教育制度として、それは保障されているものです。しかしそれらは全国一律に同じ対応、同じ決断がされるものでもありません。個々のケース、個々人のストーリー、個別の背景に沿った、丁寧な配慮と思慮深さ、柔軟な対応が必要なはずです。人と人との対話で成り立っていく経緯にこそ、見出されるものであろうと思われます。

 理由別に、区分けされることが必定とは思えません。それは偏見と差別に通じることになりませんか。個人の権利を尊重することや、個の尊厳を守ることから離れていくことになりはしませんか。

 少なくとも私は、そんなことで対立や壁を作ることに意義を見出すことはできません。

 「コロナウィルス感染症対策のため」という理由の是非が問われる必要は無いはずです。それ以前に、さまざまな背景を追って、学校の校舎で授業を受けるという形態で学校教育を受けることが難しいこどもはたくさん存在してきました。そして国・文科省はその対策のための通知も、出していることは、これまでのkoakgeのnoteでも書いてきた通りです。
 「コロナウィルス感染症対策のため」に限定した学校外学校教育を受ける機会の確保の要望は、その理由の正当性を求めることから始まり、そして「それ以外」の選択を排除することに終わってしまいます。そのような区別をする必要がどこにあるでしょうか。

 教育を受ける自由が、権力や権威によって許可・承認される理由がどこにあるでしょうか。
 この国は、基本的人権として教育を受ける権利を保障しています。

 どんな理由であれ、どの背景を持ってしても、教育を受けることができる環境整備を培うのを始めることは、早くもなく、遅くもなく、とどまるべきことでもありません。昔も今も、未整備であることは事実です。そして今もこれからも必要なことです。大変、地道なことです。地方それぞれの事情を抱える事でしょう。ゆえに地方の特色を最大限に活かした教育機会が構築されていってしかるべきなのです。

コロナウィルス対策の是非より、より確かな感染症対策の確立を~個人の尊厳を守って~

 さて、個人的なことを言えば、私はコロナウィルス感染に対する不安や心配は持っていません。むしろ周囲の過剰なウィルス対策によって日常的な生活と健康に支障をきたしています。物理的苦痛しかり精神的苦痛しかり、です。生活空間はなにも家の中だけではありません。買い物する先、勤務先、公共交通手段、街ぜんぶのことですから。

 例えば商業施設等、店内でのマスク着用は表向き風評被害を防ぐためのものであろうと思いますが、店員にマスク着用を一律に要請するのはきわめて「簡単で単純な」話だからでしょう。
 そもそも「自分で考えて決定した行動に、自分で責任を引き受ける」土壌のない社会においては、会社の指示に従い、その責任は指示に従わなかった者が悪いという構図になるわけですから大変、わかりやすいことになります。ひとりひとりの意見や行動を尊重するより遥かにそうです。ひとりひとりの行動を尊重することを、客側に理解してもらう労力も排除できますから。なにより”風評被害を防ぐ”とは、つまりクレーム予防対策を意味しています。
 理解を示す人は、なにも言わず理解します。そして必要がある場合においては権利を主張するために提案と相談を持ち掛け、その兼ね合いで合意形成に努めるものです。しかし理解しない人は、苦情を言います。苦情ですから感情が「分かってもらえた」と納得して満足するまで止まりません。そこに対応するエネルギーは膨大で、多方面に被害を及ぼす可能性もあるものですから、どうしてもクレーム対策ならずクレーム予防対策に重きが置かれがちです。(適切な権利の主張であるクレームを、苦情だと受け止めて勘違いした対応をすると、それは苦情につながりますね。話が食い違って通じていないことがはっきりと伝わるからです。)

 それは「マスクがウィルスを防ぐ」を(是非云々ではなく)前提にしている人が、それを考えもせずに信じ込み、その結果「マスクをするべき。するのが当然」と思い込み、それ以外のことを受け容れることができずに混乱する感情を、思慮せず攻撃に転化させてしまうために起こります。混乱を落ち着かせ、懇切丁寧に、ひとりひとりに対応するだけの人的資源がどれだけ確保できるでしょうか。無理な話です。
 ですから、そもそも市民レベルでひとりひとりが「考える」ことや、「個人の決定を尊重する」といった姿勢を持っている土壌ができていればよいのですが、ご存知の通り、そういった民主主義社会はいまだ根付いていないのが現状だといえるでしょう。大人から若年齢までほとんどの人がです。

 表向きの理由を本当に信じてしまう人ほど厄介なこともありません。まさに「決まりなのだから。」「決まりを守らないのは無責任」という、本来の目的を失わせたすり替えが起こります。自分自身に「それをする理由」の軸が無いと、他の人に「それをする理由・それをしない理由」があるのだと想像できないのです。「自分だけが!」と考えず、「誰もが皆同じ」だと思える心が寛容さということなのではと思います。

 立場によって「言わなければならないこと」はよくあります。それをふまえたうえで、本当の部分を察して行動することができる人がどれだけいるのでしょう。”誰も責任を引き受ける”意味もわからないまま今に至っているのかもしれません。

 マスコミが煽り、人々が恐怖するコロナウィルス感染症を「ちゃんとやっていますよ」のパフォーマンスと、それがパフォーマンスなのだと分かっていてやっているかどうかは割と重要な気がしました。”無知は罪”だと言いますが、まさにその通りです。ありもしない嘘を信じこまされ、盲信した結果、なにをしているかも無自覚で、よいことをしているつもりで、実のところは人権侵害それも肉体的な健康も、精神的な事由も、生活することすらも脅かしているのです。


 コロナウィルス感染症の登場で、多くの人が「感染症対策」に関心を示したことは、非常に期待が持てました。なぜなら、それまであまりにも「風邪」や「感染症」という【個人の健康と社会構造】に関心が寄せられず、その配慮がおろそかになっている社会の在り方が当然となっていたからです。

 例えば、「風邪をひく」という事実が生じた時、それは発熱するだけでなく、”体調が悪いなと感じる”、”いつもと違って判断力が落ちたり、いつものようにはできないでいる”、”気分がよくない”といった《病気》の一歩手前のいわゆる【未病】の状態において、学校や会社の中では多くの場合が軽んじられてきました。微熱であれば「それくらい我慢」するようにと諭されたり、「そんなことぐらいで」と休むのは恥ずかしいとばかりに、根性で乗り切れと頑張ることを察して行動することが望ましいとされ、身体を大切にすることを「軟弱だ」とみなされたり、「さぼり」などと思われることも忌避するため総じて休養することが困難な社会でした。
 ですから「風邪気味ぐらいで」といつも通りに出勤・通学し、満員電車に揺られ、いつも通りに食事を取り、いつも通りに就業・登下校の時間まで、いつも通りに過ごし・・・そして周囲の人に感染していくのでした。
 周囲の人と同じように通勤・通学をしている人の中には、基礎疾患を持っていて、周囲の人より「風邪にかからないように気をつけて」過ごすことで通勤・通学ができている人もいます。なにかしらの”気をつけるべきこと”を、個々人で気をつけることができるから、人並みに通勤・通学を継続することができる人がいるのです。「人並み」でいることに配慮や注意、努力が必要な人は、実はすぐ隣にいるのでした。
 でも、通常はそのことには目を瞑っているかのような現状が確かにあったと思っています。

 世の中で「コロナウィルス感染症」が発生したのち、人々は、高齢者や基礎疾患を持つ人を認識しはじめ、彼らに感染させないような配慮を認知するようになりました。重症化を防ぐため、微熱が確認できたら公共の場に入らないことや出勤や登校を控えることも加わりました。
 「感染を防ぐ」目的で、少人数になるような配慮や咳エチケットの観点を持つようにもなりました。
 これらは「今までのフツウ」に困っていた人たちが「ラクになった」変化でもあります。

 けれども実際には、「対策をきちんとしていますよ」というパフォーマンスですから、感染症対策としては非常に無責任なことをしている様子が目立ちます。
 形骸化した体温検査。
 除菌であれば手洗い場で水洗いすれば十分なのに、いたるところで設置されたアルコール消毒液は「多くの人に行き渡るように」という名目でワンプッシュ使用を推奨しています。アルコール消毒は本来、手洗いする場が無い場合の代替方法です。トイレ内に設置する意味があるのでしょうか。またその使用方法の伝達という企業の社会的役割である市民教育の部分もおざなりで、わかりやすい説明文もなく、間違った使用方法も見られました。

 本当に「感染症対策」を誠実におこなうのであれば、企業としての役割はもっと大きいはずなのですが、やはり売り上げや評判が優先であり、従業員や客の健康は二の次、社会貢献は余裕のあるときということなのでしょうか。非常に残念に思いますね。

 いたるところで、本当に「感染症対策」というにはずさんすぎたり、矛盾すぎたりするものが、パフォーマンスであっても受け入れられている現状に、いったい何を求めているのかよくわからなくなります。


 指示を与え、ただその指示に従うようにするのは、本来の目的を言わずに、それらしい理由をつけて、なにを教えず、理解させようともさせず、「考えることなく、目的の行動に至れるように誘導する」からです。”こどもだまし”というわけです。

自分で考え、自分の行動を決める

 この基本的な”個人の尊厳を守る”といった前提を持たないいかなる指示・命令は、人権侵害に至るのではないでしょうか。「どうせわからないから」と、従順さの要求に応えればもらえる褒美がどれほどのものだと思えるでしょう。首輪が連なっていくだけでしょう。

⑴「ソーシャルディスタンシング(物理的に距離をとる=社会的距離)」の功罪

 この習慣により「助かった」「ラクになった」人はどれくらいいるでしょうか。私もその一人です。
 人には匂いがあります。身体に染み付いたタバコやお酒の臭い、服に染みついた洗剤や柔軟剤の臭い、髪についた合成シャンプーやリンス、整髪料、染髪やパーマ液など薬剤の臭い・・・。これらは人と間近ですれ違うと漂ってくるもので防ぐことが困難です。

 他者との物理的な距離は、心理的距離感とも通じています。親しい人は距離が近くなりがちですが、見知らぬ人とは自然と距離を取るはずです。ましてや警戒を持つ相手ならば、もっと距離を取りたくなるのは当然のことです。しかしこの距離が、例えばスーパーのレジ(特に混雑時)など”人が並ぶ場所”では有無を言わさず、近距離になることがしばしばあって、その精神的苦痛は人によりけりですが、耐えがたい時や場合もあるものです。
 人と目を合わせることに苦痛を覚える時や場合が誰しもあることを、知らない人はいないと思いたいです。

 しかしながら、「避ける」ようにして距離を取られることは、誰にとっても精神的苦痛が与えられてしまいます。あからさまに「避けている」とわかるような行動は慎しむべきだという礼儀・礼節が、過剰な「コロナウィルス感染症対策」によって容認される事態、このことに精神的苦痛を覚える人も少なくないはずです。「避ける」理由があったとしても、それを「非難する」態度で行うことが正当化されていることが、差別や偏見となって表れていることが問題なのです。

 想いがあって、その人の傍に居たいと思わずにいられない気持ちが、人間だれしも持つことがあるはずです。そんな人間らしい気持ちが、「決まり」によって遮られることに抑圧を覚えるものです。抑圧すること・されることを正当化していいことなんて、そうそうありはしません。もっともどちらを優先するか、重視するかは、実際のところ、個々人の価値観や世界観にもとづくものであろうことは事実ではありますが。「人間の温かさを感じるのはどちらなのか」と問われれば、どんな答えが導き出されるのでしょうか。

⑵「除菌」の功罪

 除菌は、いちばん易しい言葉で表現すると「手洗い・うがい」です。汚れを落とします。過剰に常在菌を死滅させず、適度に、不要な菌やウィルスを流します。それが目的です。目に見えないものですが、手洗い・うがいをおこなうことで「キレイになった」と気持ちもスッキリできるという面もあります。トイレのあとは手を洗うでしょう。多くの人の手が触れる物に触れたあとは手を洗うでしょう。しかし、その基準といいますか、「汚れ」に対する感性は人それぞれでした。どこまでを「汚れ」と認識するかは、幼いころからの生活習慣とも連動しているはずです。
 外から帰ってきたら手洗い・うがいをするとか、食事をする前には手を洗うとか、洗った手を清潔に保って目的の行動にはいるとか。度が過ぎれば潔癖症といわれるのかもしれませんが、それも主観のひとつですから、境界線は曖昧です。本当に潔癖症と言うには、依存的・強迫的なまでの行動だと自他ともに認めるといったラインが基準となるのではないでしょうか。

 抵抗力の低い赤ん坊、小さな子ども、病気を抱える人を家族に持つ人や病気療養中の人にとって、清潔を保つことは日常的に重要な課題です。ですから、これまでどちらかといえば清潔に「鈍感」な人たちが、この機会に手洗い・うがいを奨励するようになったことは少なからずありがたいと思えることでした。

 しかしながら、登場したのはアルコール消毒と、アルコールが不足したときには代替品による消毒でした。そして過剰な殺菌行為も出てきました。
 本来は医療現場で「水場にわざわざ寄ることができない状況」「清潔な状態を保つために必要な物理的距離の確保」といった目的のためにアルコール消毒液を使う除菌方法が、わざわざ一般大衆の間で採用されたことは「より安心感」「より清潔感」の演出のためでしかないように思えました。
 トイレの手洗い場に置かれるアルコール消毒液は、「そこまで必要ではない」判断力を失わせています。またアルコール消毒をする目的も失われ、正しい使用方法を知らないで使っている様子も目立ちました。除菌というより消毒の目的と動機が明確でないまま、「するもの」としてしているだけになっています。依存的といえるほどの過度な期待によって、不要なアルコール消毒、するべきところで使われないといったことが起きています。どれも「なんのために」そして「どのように」の仕組みを知らないままだからです。

 そのため、なにが起きたかといえば、率直に言えば環境汚染です。空気の汚染です。揮発成分であるアルコール消毒液は無臭でありながら、刺激臭をまき散らしています。頭痛を覚える人がいるでしょう。私もそのひとりです。しかしその頭痛の原因がアルコール消毒液の臭いだとは気づかない人の方がずっと大多数でしょう。化学物質過敏症について知っている人がどれくらいいるでしょうか。

 そして適切に除菌されず、ウィルスの感染拡大が起こったと言えると思っています。長時間どこでもかしこでも装着したままの手袋で感染予防をしているつもりが実は感染を拡げている様子を可視化した動画が広く知れ渡っていたはずです。手袋が道端に落ちていることも、「ウィルスが付着した物が落ちている。これを掃除しなければならず、それに従事する人を危険にさらしている」ことにも多くの人が気づいたはずです。これはマスクについても同様のことが言えます。

 いずれも適切であれば、今まで「個人的な問題」に帰結して、ひとり孤独に困難に耐えてきた人のひとりひとりがもっと暮らしやすくなる社会に向かっていく好機でした。

 しかし過剰であることが、不適切な使用を生み、これまで以上に困難が増えた人もいることも事実です。それは物理的な問題ではなく、前述したように精神的苦痛をも与えられています。そのことが無視されていいとは思えません。「それくらい我慢して当然」「みんなそうしているのだから」「ひとりだけ勝手なことは許されない」として、苦痛を与えられることが容認され、許されてよいものでしょうか。
 本当に「それほど」の事態なのかと疑って見ることも大切だと心得ます。その時は「数値」というデータが確かに参考にはなりますが、結局のところ解釈次第で真逆の受け止め方が生じます。それよりも大切なことは、自分の心に耳を傾けること、それがもっともシンプルで純粋なヒントのようにも思います。

 心は、なんと言っているだろう。叫んでいるだろう。泣いているだろう。

 現状のコロナウィルス感染症の適切な対策は、コロナウイルスが指定感染症2類に相当する強毒なウィルスであるという前提が必要ですが、今現在、その前提が「正しい」「間違っている」と確定しているとは言えません。だから多方面で「おかしい」と感じる人が多いのでしょう。

⑶適切な休養と休息

 形骸化した検温より、本人も周囲も安心して健康的に働くことができる環境を整えることは、あたりまえといえばあたりまえのはずなのに、「休む」ことははなはだ許されまじ甘えの行為だとみなされていることがしばしばです。
 37度以上を微熱とする基準は、無意味ですが、本人にとって「いつもと違うな」「しんどいな」と思う自分の判断で、休むかどうかを自分で決定できること、それがもちろん受け容れられることというのは、人間らしい暮らしとしては至極当然の話ではないでしょうか。

 今までがおかしい。

 その自覚をもとに、これを機会に、まっとうな人間らしい生き方が約束されたらいいのに、と、それはとても思います。


視座を変えれば、想いは同じだと分かる

 コロナウィルス感染症の真偽とは離れて、それ以前の根本的な課題は「感染症対策」です。軽度から重度まで、適切な対策方法の周知のほうがよほど大切ですし、その対策が必要な時に、適切に対応できる方策を整えることがもっと重要です。そう考えると、コロナウィルス感染症が仮に緊急事態宣言を伴うに値するという前提で考えた場合に、今現在とられているあらゆる場面での対策は、不十分であると誰もが確認していることでしょう。

 一方は、「コロナウィルス感染症はそれほどおそろしいものではない」と判断しているから、あらゆる対策が過剰になることで受ける肉体的・精神的苦痛を受け、困難に見舞われています。
 一方は、「コロナウィルス感染症は人類全体で立ち向かわなければならないおそろしいものだ」と判断しているから、あらゆる対策が不十分である肉体的・精神的苦痛に晒されています。

 私の個人的な見解では「コロナウィルス感染症は風邪やインフルエンザと同等あるいはそれより軽い」とみなしていますが、「国あるいは個々人の感染症対策の理解と対応は不十分である」と思っています。この2つの観点は別々でとらえるものです。

観点1 「コロナウィルス感染症」の対策を”不安のまま”にしておかない

 なにごともそうだと思うのですが、行動の動機に”不安”と”恐怖心”があると、選んだ行動の結果も不安な事態しか生まないものです。ただ、こういう観念は個々人の人生観・死生観・世界観にも大きく左右されると思っています。ですから「こう考えるべき」などという話はするつもりはありません。

 「正解」はありません。あるのは、その人にとっての”腑に落ちる”答え、”納得できる”答えというだけです。そのためには、ひとりひとりが自分の気持ちに向き合い、自分の心に耳を傾け、素直な感情を誰かに伝えることが必要で、それを受け容れることができた時に訪れるものだと思います。万人に通じるものにはならないでしょうが、しかし、だれかしら共感しあう人は必ずいるでしょう。けれど、共感しあう同士が集まり、共感しない集まりと対立する必要も無いということに気づかなければならない。それは強く思いますし、願いでもあります。

 なぜなら、共感しないからこそ、互いに学び合えることがそこに存在しているからです。互いに未知であることこそが、まなびあいの宝庫です。

 そのことにより、互いに配慮する点に気づき、互いに思いやり、互いに適切な距離を保ち、互いに有効な情報を交換することが可能になることでしょう。知らないことにこそ、自分のためになるヒントが隠されているものです。

 「違う」ことを怖れない
 「変わる」ことを怖れない
 「間違う」ことを怖れない

 まさに、そんな生き方が映し出されることになるでしょう。


観点2 「感染症対策」を問う

 咳エチケットへの正しい理解が必要だととても思います。あまり「正しい」という言い回しは好きではありませんが、ここではこれ以上の言葉が思いつきません。

なぜ
どうして
なんのために
どのように

 これらを自分で知り、確かめ、実行すること。これもまたひとりひとりの生き方・在り方であり、矜持といえるでしょう。人間の本性が明らかになるときってどういう時なのでしょうね。今はかなり”その時”なのではと感じずにはいられません。自分が本当に思うこと、感じること、考えていることを口に出さないでいることが、こんなにも苦痛であったでしょうか。そして、人類はまさに、共感されることの絶大のよろこびと、共感されないことで覚える絶望的な孤独をも体験している真っ最中です。そう思えてしかたありません。その次の行動をどうとるのか。ひとりひとりに委ねられています。その集合体が、未来の行く先を決定する要になるほどの重要な転換期かもしれないと薄々感じている人も多くいるような気がします。

 本当に、世界を巻き込んだ大きな事態なのですね…。

 でも。あまりに観る世界が広がりすぎると、目の前や足元を見失ってしまいかねません。だから私は、空を見上げ、太陽に照らされる時間を大切に想っています。手が触れるまでの範囲にあるものを見直したいと思います。それが実は、世界のすべてだからです。


みらいの学校環境・労働環境

 kokageはホームスクールについて、そして公教育について、また学ぶ環境について考えます。ですから学校環境についても関心を強く持っています。労働環境はその延長線上にありますから、学校環境を考えることは労働環境を考えることにもつながります。

 「学校に行かない」理由のひとつに物理的な学校環境があります。お伝えしたいところでは化学物質過敏症や香害により、学校の校舎で学ぶことが困難なこども・人たちでしょうか。もっと身近な言葉で言えば、アレルギーを持つこども・人たちです。
 たとえばどんな点を想像することができるでしょうか。

建材(床・壁・机・椅子・カーテン・黒板(電子黒板))
換気(汚染環境 / 汚染濃度) 
給食(食材・食器 / 農法・洗浄方法)
電灯(LED)
生活時間(時間割・授業時間
衛生(着替え / 給食エプロン等衣類や履物の扱い / トイレの衛生環境 / 衛生習慣 / 共有する教材・教具の扱い)(カーテン・訪問者用スリッパ・来客室のソファカバー)
休息・休養(健康意識  / 予防意識 / 自己調整力 / 避難空間)

 ぱっと思い浮かべる範囲ですが、これだけでもなにかしらのアレルギーを持つこども・人にとって注意が必要なものだったりします。少なくとも我が家はそうでした。集団行動で一糸乱れず誰もが同じ行動を求められるにはとても困難が待ち受けていたのです。誰の目にも見えているのに、特定の人の目にしか認識されない部分です。
 これらは物理的距離でもあり、心理的距離に対しても必要な課題です。そして「特別な」人に対する「限定された」配慮ではありません。「誰にとっても必要な」配慮です。すべての人の身体的心理的健康を保つための環境整備です。
 学校校舎は、そして学校生活は、ひいては労働環境や勤務体制は、人を個人としてみなさない”集団”扱いで粗雑に対処されてきた結果が詰まっています。ひとまとまりにすることで、「ひとまず」の箱はできたのでしょう。そうすることで「ひとまず」のカタチは完成したのでしょう。そして「ひとまず」発展はしてきたのでしょう。けれど、それは「とっかかり」だったのではなかったでしょうか。もっと【人間ひとりひとりが健康的に生きることができる健全な社会環境】に目を向けてもよかったのではないでしょうか。

 環境問題が、一部の特別に関心の高い人たちのものになっていた長い歴史の原因もここにあるような気がします。余談かもしれませんが、これまで婦人会や地域の人々が地道に何十年にもわたる活動を継続してきたであろう環境問題への数多くの取り組みは、ただの市民活動として過小評価されていると感じます。今になって政府がSDGsなどと言って声高になっていますが、それを企業が率先して取り上げることで企業成果とし、あたかも「関心の低い家庭の意識向上のために働きかける」かのような雰囲気の醸成は、(そういう側面も確かにあるのでしょうが、)なんとも困惑を覚えます。
 市民の活動が、まるで無かったことのように、ここまで軽んじられていいのかと憤りを覚えたことは否めません。一部の活動家たちのミッションは、流行で勢いづけられ、いずれ流行で済まされて終わるでのはないかという残念感もあります。経済活動の興りの期待しかないのかと思いたくありませんが、先人たちへに敬意を払う想いが見えない行動や言動には、そういった気持ちがよぎります。歴史ともいえる長い年月に積み重ねられてきた確かなものをないものとして扱い、「自分たちが新たに創生している」と堂々とする姿に違和感を覚えるものです。


社会に問いたい

⑴少人数制学級に賛成です

 しかしそれでも選択的であるほうが望ましいことだと個人的には思うところです。少人数で行われる活動と、大人数で行われる活動、そしてone on oneで行われる活動だってあっていいはずです。
 

⑵登校しなくても学校教育の学習課程を受けることができる学習の環境整備に賛成です

 さまざまな形態の選択肢が、柔軟に選択され、対応される環境整備は、何十年にもわたる不登校の歴史のうえでも求められてきたはずです。それが実現しなかった歴史でもあります。
 その事実に目が向けられました。その必要性と重要性にも多くの人の関心が集まりました。実現に向けての誠実な動きを期待したいです。
 政府の偏った期待に応える形ではなく、独立した「教育庁」の在り方として、日本国民に限らず、世界のこども・人たちの学びに共通する普遍的で本質的な《教育の機会の提供》として、です。

 「登校しない」理由に正当性が求められる必要はありません。それは基本的な人間の権利だと考えられます。

 ホームスクーリング制度について、日本国内には「無い」ものとして諸外国のそれを称賛する向きもありますが、日本にはすでに容認されている事実があります。ただ個々のケースによって、そして社会構造で被る不利益の可能性が否めないため、限定的と思える「保証」を求める声が出てくるのです。根本的な課題はどこにありますか。
 それは「学校」ではありません。社会です。社会システムにあります。

 履歴書は必要ですか
 学校教育の学習課程に限定した学習履歴は必要ですか
 学歴が必要ですか
 従順さが必要ですか
 年功序列(先輩・後輩)は服従関係ですか
 現状維持が至上命令ですか


 挑戦することは必要ありませんか
 「わからない」ことは不要ですか
 「知らない」ことはあってはいけませんか
 「できない」「やらない」「できる」「しない」の自己決定は無駄ですか
 「変化」は不要ですか


⑶”多様な学びのある多様性を受け容れた社会構造”と”学校教育が多様化する社会構造”は、別々に考えることです

 それぞれの事情を背景に、さまざまな期待と要求が学校や教育制度に寄せられています。それは今に始まったことではありませんでした。

 フリースクールが台頭した時代には、やはりオルタナティブ教育が注目され、普通教育の概念が知られていきました。ホームスクールの言葉が知られたときも同様です。しかしながら、オルタナティブ教育は、学校教育に回収される方向で、学校教育の現状維持が図られることは強固なものとなっています。新しいようでいて、実は根本的には変わりません。それが学校教育の多様化という側面です。
 一方で、オルタナティブ教育もまたノウハウ的なメソッドとしてとらえられる傾向があります。その本質を知ろうとせず、表面だけを掬い上げて「やっているつもり」になる可能性が含まれています。もちろん真似てみることを入り口として、試行錯誤で、自分なりの哲学を見出していくということもあるでしょう。
 きっと人の数だけ、物語は多種多様に存在するのです。ほんの少し、そのことに気づいてくれたらいいだけのことかもしれません。
 答えはひとつだけではない、ということを。


”不安”は否定されずに、寄り添われることを望みます

 「コロナ不安」という言葉ができました。いじわるな言い方をすれば「コロナ怖い怖い病」とか「コロナ脳」とかです。私自身は前述したようにコロナウィルス感染に対しては、早いうちから「他のどの感染症の対策と変わらない」「いつも通り」という結論をもって家族で安心することを共有していました。その立場から見れば、確かに「ばかばかしい」と感じることは無いとは言えません。でもそれは”感情”にすぎません。

 ”気持ち”は違います。コロナ不安が必要以上に否定されることはあってはならないと思っています。人の感情や気持ちを否定することは、他人に委ねられる権利でしょうか。そんなはずはないからです。

 そして””の持ちようで、感情をいたずらに爆発させることもおこなわれるし、気持ちを汲んで態度を改めるということもあります。

 感情と気持ちと心を治めるのは、ただひとり、その持ち主だけです。

 それはまるで風と帆と船を操る人のようかもしれません。見据える先を自覚しているでしょうか。海の向こうのまだ見ぬ目的地は、明確に、そこに在ると信じることができているでしょうか。


 どの不安も否定されるためにあるのではなく、寄り添われて当然のことです。
 私の場合で言えば、過剰なコロナ対策で被った事態によって引き起こされることへの”不安”はあります。健康上の問題、それにかかる勤務・労働への問題は現在進行形で起こっています。そのことについて「コロナウィルス感染予防対策として当然のことなのだから、黙って受け容れろ」と言われたくはありませんし、「そんなこともわからないのか」と力で抑圧されるなんていう人権侵害をやすやすと受け容れるつもりも毛頭ありません。

 本質的には立場など関係ないのですから。


 もっとも重要なことは、互いの尊厳を守ることができる関係や環境について心をくだくことであり、その実質的な行動を、責任ある政府や機関、企業もそれを優先することです。

 人が人らしく生きるための社会を創る前に、なにが「正しい」「間違い」かなど競うことに意味があるでしょうか。そうは思いません。
 誰にそれらが「正しい」とか「間違いである」かとジャッジする権利と力があるというのでしょうか。権力者ですか。権威者ですか。そんな一握りの人々に委ねて、それで幸せをつかむことができますか。だって「自分のこと」ですよ。

 もっと自分を大切にしていいよ。

 いいですよね。

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アンスクーリング12年目のホームスクール家庭から見える「ホームスクールとはなにか」を探りながら、教育について、学習環境について書いたnoteをまとめていきます。

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