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難解だけどわかりたい量子論と唯識論

魔法とは、いまだ解明されていない科学である。
――この言葉はワクワクするから好きだ。量子論の本や番組を見ていると、いよいよ魔法と科学が一致してきたんじゃないかと思えてくる。

それと、仏教で言ってることと量子論は、共通点が多いと思う。唯識論――難解だけれども、これが言っている「自分は存在しない」という説も、唯識の本を読んでみたら「本当だ!」と納得してしまった。

そして自分の存在のあやふやさは、量子論にも見られる。私たちの体は何十兆という細胞の集まりで、突き詰めればそれは分子や原子の集まり。さらに電子や陽子、中性子というものに分けられるのだが――その小さすぎるものが肉眼で見えた場合、私たちの体は、固体というよりは雲のような存在なのだという。

もうそれだけで世界の見え方が変わってきそうでワクワクする。

  *

唯識論には、1人1宇宙という話が出てくる。実際最近の科学では、宇宙は1つでそこにすべてが存在する「ユニバース」ではなく、無数に宇宙がある「マルチバース」であるという。

それと、すべては認識のみで実体はない、というのが唯識論なのだが、量子論でも、観察者が見たときだけ波動が粒子になる――つまりモヤモヤしたものが、見たときだけ物質化する、みたいな説が出てくる。

どれもおよそ信じられない話ではあるのだが、これらを知ったとき、私はふと、昔のことを思い出した。

――小学生の頃、帰り道を歩きながら、この世界のありようについて友人たちと話したことがある。

今見えている色は、本当にこういう色なのだろうか。目が悪いとかいうことじゃなくて。この色に見えているのは、実は自分だけなんじゃないだろうか――とか。

世界は本当にあるのだろうか。もしかしたら今自分が見ている部分の景色しかないのではないか。その外側――例えばここじゃない場所、東京とかアメリカなんてのは本当は存在しないのでは。テレビで見ている東京は、テレビが見せているだけなんじゃないか――とか。

新幹線に乗って移動する場合は、それに合わせて急いで景色が作られているのではないか。それより速く視線をバッと先へ向けたら、真っ暗な世界が広がっているのではないか――とか。

子供ならではの自由で突飛な発想と言えるが、今振り返ると、あながちいい加減な思いつきではないというか、むしろ宇宙の秘密に迫った会話をしていたと思う。

  *

ブッダは死に至る腹痛を、玄奘は砂漠の過酷さを、瞑想や唯識論でもって克服したと聞いたことがある。

唯識論にしろ量子論にしろ、持病などで痛みの多い人生を歩んでいる私としては、これらの理論を日常に落とし込み、使いこなして、苦痛からの解放を自由にできるようになりたい。――私がハマっている理由はそれだ。

だから、難解だけど、わかりたい。ブッダになるくらい難しいことだけど。

しかし何がびっくりって。中学高校の頃、あれほど数学やら物理やらを避けていたこの私が、いまや量子論の本を好き好んで読んでいるとは。

そういえば教科書は嫌いだったけど、好きな雑誌は『Newton』だった。物理と思うと読めない本も、宇宙の秘密、この世の真理を知ることができると思うと、夢中で読める。やはり認識がものを言うのか。

今は唯識論の本と、量子論の本、両方を読んでいる。ワクワクするが、やはり難解なので、脳が疲れて一気読みできないのが難点である。



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