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整骨院最後の日【エッセイ】

 7年前の今日、僕は約10年勤めた整骨院を辞めました。当日の朝まで今日が最後だとは露とも思わず、最後は突然やってきました。その前にこの日に至るまでの経緯を少し触れておきます。語り出すと人生すべてになりそうだし、至る所で「引きこもり」や「うつ病」ネタは書いてきているので、ここでは「整骨院」に絞って書いていきたいと思います。
 2006年の9月20日とかでしたか、それまで新聞配達の朝刊や夕刊だけしていた僕は、その疲れを取るために通っていた整骨院のマッサージの仕事に興味を持ち、タウンワークで新たに見つけた整骨院の面接に行きました。その日は雲一つない快晴の日で、それまでの人生を大きく変えていく、そんな幸先のいい一日だったと今でもその快晴の空は覚えています。それまで新聞配達や塗装業しかやったことなく、ひきこもり期間もあったりした僕は世間的にはかなり就活やアルバイトには不利な人間でして、現に新聞配達も2004年の12月にいろいろ回って5軒目でやっと採用されたり、そういやコンビニは2回くらい落とされたりと、なかなかハードな現実を引きこもり後にいろいろ味わってきていました。まあでも根は真面目だったので新聞配達も最後の何か月は気が緩んだか知れないですがちょっと体調不良とかで休んだ日もありましたが、約2年半は遅刻も欠勤もなく毎朝2時に起きて朝刊、そして夕刊を午後3時から配達するというサイクルで生活しておりました。引きこもり後の人見知りな状況ではそのような人と接しない仕事はかなりやりやすくて「天職」なんじゃないかっていうくらいその当時の僕には思えたりしていましたが、ある日夕刊配っていて女子中学生とすれ違った時彼女たちが後ろの方で「いくら仕事しているといっても新聞配達じゃなあ」と言っているのが聴こえて、僕は引きこもりあがりでまだまだ世間知らずなところもあり、でも将来的には結婚もしたいとか「人並み」の幸せも望んでいたので、この妙齢というかこれからの女の子のスタンダードかどうかわかりませんが、そういう意見はかなり堪えて、「このままやったら結婚とか出来へんやん」と思って、そこからいろいろ仕事を新しく始める算段をしていました。そうしてまあ整骨院の面接にまでたどり着いて、今振り返るとやっぱりこの整骨院に入ったことが一番人生では大きかったのかな、と思ったりします。まあ結果を先に行ってしまいましたが、そこの院長が当時で50代前半くらいで、スポーツで身体を鍛えていてかなり若々しく見えて、結構男前なのに結婚はしていないとか後にちょっと癖が強い人とはわかりましたが、でもいい人で、僕が引きこもっていたこととかも受け入れてくれて「高校は進学校に行っていたのなら、柔道整復師という国家資格を取得しに専門学校行ったら道は開けると思うよ」と言ってくれてこんな連戦連敗な就活アルバイト戦績の僕でも雇ってくれたので、本当に今でも人生で一番の恩人だとは思っています。
 で、そこから働き出して今までの新聞配達だけでは出会えなかったそれまでの世界とはさらにランクの上がった人たちと働き出して、都会的に(?)洗練された空間で何とかおぼこい僕はついていったりしておりました。マッサージ自体は結構すぐに慣れて力も元々あったし、センスもいいらしく「兄ちゃん上手いな」とかおばあちゃんとか、多かったですが言われたりして慣れては行きました。ただ今も残ってはいますが、元来人見知りで、尚且つ引きこもり、新聞配達しかほとんどやったことなかったので社会性、コミュニケーションという段階で全く自信はなくて、いつも何を話せばいいか、とか仕事の段取りとか分からないことが多く、苦手意識はずっとありました。そこら辺はずっと院長に怒られたりしていましたね。まあでも通ってくる患者さんたちおばあちゃんとかとはすぐに仲良くなって、おばあちゃん子で育った僕は一気にいっぱいおばあちゃんが出来たみたいで居心地はかなり良かったです。
 それから柔道整復師の国家資格を取るための専門学校の夜間部に入学し30歳くらいでしたか、そこでいろいろな年代の同級生と切磋琢磨して勉強して資格も取って、かなり充実した学生生活を過ごしておりました。学園祭ではステージに立ってレミオロメンの「粉雪」の弾き語りをしたり、今までの自分の殻を破ろうといろいろチャレンジしていたまさに「青春」でしたね。楽しかったです。国家試験前は地獄でしたが笑。しかしながらこれはまた後日エッセイとかで書くつもりですが、2009年12月に母親が交通事故に遭い瀕死の重体とかになって、その時は本当にもう母の死を覚悟したりしましたが、運ばれた救急医療センターとそのつながりの大阪大学医学部付属病院の日本一の脳外科の先生に手術してもらえるという幸運により、奇跡的に後遺症もなく母は助かりました。そこでの看護師、医師の仕事ぶりを目の当たりにした僕は当時医学に関して専門学校で結構習っていてわかったりしたので、「こういうふうに医学の知識を生かせる医者になりたい」と思いそこから密かに医学部目指しての受験勉強などを始めたりして、柔道整復師の国家試験合格後には整骨院で働きながら受験勉強に勤しむ生活が始まりました。
 でも学生時代はまだアルバイトで済んでいた整骨院の仕事も国家資格を取っておきながらまだ心は「受験勉強したい」学生気分だったりしたので、そこはその当時まだ厳しい院長には行ってなくてある日「お前、最近全く仕事に集中してないやん、そんなことでいいと思っているのか」とかなり怒られて、僕もこの院長が何故か変に僕に気を許しているのか他の従業員には気を遣うくせに僕には遠慮なく怒りまくるっていうのがそろそろ嫌になって一回2011年に「もう辞めます」ってなったのですが、あくる日にはやっぱり「他の世間」を知らなさすぎるし、まだ医学部合格するまでの学力が一年くらいじゃ全く身に付いていなかったので他でやっていく自信はなく、「すいません、昨日言ったことは取り消します」とまた今まで通りのアルバイトに戻ったのでした。
 それからやはり医学部は何回受けても受からず2016年には地元を離れて地方の島根大学医学部なども新幹線とか乗り継いで出雲市にまで4泊5日とかで受けにいったりしてもやはり落ち続けて「このまま俺はどうしたいんや、でも諦めきれない」というわがままというか意地というかそんながんじがらめにはなっていました。で、翌年2017年はセンター試験は過去最高の成績(それでも医学部合格判定はDに限りなく近いE判定」81%くらい取れて「今年こそ」とかなっていたのですが、母が今度は乳がんとかで手術しなくてはいけなくなって、こんな時に島根まで受験には行けない、とかいろいろ考えて二次試験は結局受けなかったですね。ひょっとしたらあの年度に二次試験上手く行って医学部に受かっていた可能性もまだ今までよりはあったかも。ちょっといろいろ判断に迷うところではありましたが、ひょっとしたら今振り返ると「お前は医者ではなくて」違う道の方が合っているみたいなバックの運命でも働いたのかなとか思ったりします。で、2017年の今日7月19日を迎えます。その前年に今まで一緒に働いて仲の良かった同僚が辞めて、新しく柔道整復師の資格を持った僕より一回りも下の男性が入ってきたのですが、どうも相性が悪くて、僕よりかなり年下なのですが、柔道整復という仕事にかなり誇りを持って取り込んでいてもう結婚もしていて将来は開業するつもりの僕とはやる気のベクトルが真逆の人間で、今から思えば仕事に僕より真摯に向き合っている好青年だとも思えますが、当時の「医学部受験」及び「大学受験」しか頭になかった僕とは水と油、合わなかったですね。人生でも3本の指に入るくらい相性は悪かったと思います。で、その同僚の僕に対する当たりもだんだん目に余るものが見え始め、居心地は前の仲の良かった同僚がいた時に比べて格段に悪くなっていきました。
 そして2017年の7月19日。まあでもその日を迎えるまでに何とかその相性の悪い同僚とは適度な距離を保ってストレスは軽減させる作法は身に付けつつあり、まだ受験とかやりながらここでアルバイトできると踏んでいたのですが、その同僚がもうすぐここを辞めて「そろそろ開業に向けて動き出す時」とか何とか院長には言っていたらしく、そんな流れの中その日の仕事終わりの終礼中にいつものように僕が今日の反省を院長の前で言った後、院長が「A君がもうすぐここを辞める。そうしたら俺の次はお前になる。ナンバーツーがお前ではここはすぐに潰れてしまう。そのことをよく考えて今まで以上にお前が死ぬ気で変わる覚悟を示してくれないと、もうあかんで」と。僕としてはまあ気持ちは受験に向いていましたが、マッサージも受けはいいし、僕の長年のファンも結構いて、かなりこの整骨院に貢献してきたと思っていたところのまさかの思っていた以上の低評価を下されて、しかも僕はその2か月前にその相性の悪い同僚が心底嫌になって「A君とは働きたくないのでここを辞めさせてください」と院長にも必死で訴えたりしていましたが、何故かその時は院長は「頼むからやめんといてくれ」という感じでしたので仕方なく残っていたのですが、この7月19日の院長の発言が対に長年の僕の無抵抗に終わりを告げさせ初めて苦手で怖い院長に「じゃあなぜあの時に辞めさせてくれなかったのですか。明日からはもうここには来ません」と心臓が口から出るのではないかっていくくらい、僕としては人生で一番勇気を出して院長に歯向かった瞬間でした。当然のように院長は烈火のごとく激怒し、「じゃあもう来るな」と言い、10年も働いた整骨院をちょうどこの記事を書いている7月19日のこの時間午後8時台に辞めたのでした。
 それから仕事がなくなったからすぐに他の仕事を探さねばならず、でも今まで整骨院に「引きこもって」いた感じでよたよた歩きの僕でしたが、幸運にもすぐに経験のある新聞配達の仕事が見つかり、新聞配達しながら受験をする日々、まだまだ受からなかったので介護などを経て3年前に当初の予定とは異なる工学部に入学することが出来ました。
 今整骨院の日々を振り返ると、やっぱり社会人としての素養が、覚悟が著しく欠けていたように思います。僕としてはひきこもりからの脱出だけを考えて新聞配達、整骨院と辿ってきてますが、結局は世間をほとんど知らず、情けないことに自分の人生をどう前向きに生きて行くかという大人のビジョンも大学に入って学歴コンプレックスがなくなったつい最近まで、考えることが出来ていないという、かなり欠落した人間ではありました。整骨院入った当時で27歳、いい大人でしたが、中身は全くの子どもで、引きこもりで完全に中身がさなぎとなり、24歳からまた一から自分を経験し直すという誰にも理解されない精神遍路を辿るしかなかった、でも世間的には年齢がラベルで、でもその内と外のずれはたぶんついこの間までドスンとしっかりそこにありました。そういうことは結構院長は理解してくれた上で雇ってくれたとは思いますが、僕自身整骨院の仕事を生涯の仕事にする気持ちがなかったとも言えるので、そこらへんの齟齬は最後まで埋まることはなかったかと思います。ちょっと合わないのに無理してそこに居続けてしまい過ぎたのがお互いにとっての不幸で、遅すぎたくらいでしたが、最後はやっぱり我慢の限界がお互いに来たのでしょう、一時は家族のような雰囲気もあった居心地の良かった整骨院最後の日はこのように唐突に人生に訪れるのだな、と狭い視野の少ない経験ながら思ったりします。
 正直に言ってまだ完全に振り返って総括できる程ではないと思います。なぜなら僕はまだこの年齢45歳になるまで正社員として社会とまともにかかわった、責任ある立場に就いたことがないので、大人の意見を持つことがまだまだ出来ていない状態ではあります。でもこの半年の大学の休学期間で自分の置かれた立場、自分に与えられた機会、自分のキャパシティーなどリアルにいろいろと頭をぶつけながら分かったりしてきたので、自分の残りの人生の方向性がやっと見えてきている段階です。そういう意味では大学に入る前よりは精神的には大人になってきているし、7年前に整骨院を喧嘩別れして一瞬路頭に迷ったあの夜の不安定感からは大きく進歩しているとは思います。その瞬間は永遠にも思えるくらい絶望的だったり、自己評価が著しく低いとかだったりしましたが、それでも目の前のことを一生懸命にひとつひとつ積み重ねていくことでいろいろと余計な「皮」がめくれて正しく世界と時間軸、空間軸が自分と一致して大地に、今現在に立つことが出来るのだなとこれまでの人生経験、僕なりの経験から言えるとは思います。
 最後に。正直言ってあれ以来院長には一回も会っていません。最後は喧嘩別れしてしまいましたが、やっぱり10年以上も間近で接してきて多少なりとも情は、というかかなりあったりした部分もあったので、いつか、謝りに行って、お礼とか言いたい気持ちもあります。でももう院長もいい年齢なので、やっぱりその機会は訪れないままに、遠くから「ごめんなさい、ありがとうございました」って思うしかないのかな、とか思ったりします。あれから7年ですか。もう少し大人になったら、考えも行動も変わるかもしれないので、その時まで目の前のことから逃げずに向き合って乗り越えて、また最後に会えたらいいですね。その時までお元気で。勝手なことばかり言ってますが笑、感謝の気持ちはやっぱりずっと持っています──。

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