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なぜそれほど苦しい思いをして山を走るのか?

こんにちは@tateshina_lifeです。

今日は大人になって落ち着くのではなく、大人になったからこそ極限状態に身を置くことを習慣づけることの大切さについて書いてみます。

先日、僕は軽井沢トレイルランニングレースというトレイルランの大会に参加してきました。スタートとゴールこそ軽井沢プリンス・ショッピングプラザという華やかな場所ですが、実際には45kmのコースのほとんどが山道(トレイル)で累積で登る標高は2,800mというなかなか過酷なものです。

自分は2019年にロードバイクのヒルクライムレースに向けたトレーニングを目的として定期的にランニングすることを再開しました。当初は皇居などのロードを走っていたのですが、周回コースで景色が変わらないことや、平坦基調なので身体への刺激が一定なこともあって飽きてしまいました。

そこで簡単な装備で高尾山に行ってみたところ感覚は一変しました。山道は石あり岩あり木の根っこありと地表は変化に富んでいて道幅も狭く、時に注意して先を見ていないとルートから外れてしまい、一気に人気のない不気味な場所に出てしまうこともありました(遭難の入り口です)。

トレイルは至るところに張り巡らされていて毎回違うコースを辿ることもできますし、例え同じコースであったとしても前述したような変化があり、かつ季節が変わることで雰囲気もガラッと変わるため楽しめました。

しばらくしてラン仲間の勧めもあり2021年に大会に初めて出ることになりました。それが菅平でした。走り終わった後はこみ上げるものがありました。

今回の軽井沢。僕にとっては最高距離、かつ最高累積標高でした。走る前は期待と不安といえば聞こえが良いですが、実際には不安がほとんどでした。

最後まで走りきれるかどうか。心肺能力はバイクトレーニングで鍛えているので自信がありましたが、脚(の筋肉)が最後まで持つのか、補給の量とタイミングが適切にできるのか、痙攣や捻挫などの故障の影響や転倒、滑落によりレースを最後まで継続できないのではないか、などいくら準備したところでやってみないと分かりません。

実際、25kmをこえてからの6km以上延々と続く林道の登りで心が折れそうになりました。次の40km地点にあるエイド(補給地点)で制限時間に引っかかってバスに乗る姿を”ポジティブに”想像したりしました。

ktf(北信濃トレイルフリークス)が設定した今回のコースは最後までアップダウンが続き、ゴールの600m手前までインターバル走が続きます。ゴール直前の下りもガレていてちょっと油断すると疲れた足首は捻られて捻挫しそうになります。

それでも走るのです。なぜ?と言われても自分でもよく分かりませんが、9時間弱の間、自分の身体と心と会話をし続けた結果としか言えません。

40kmエイドの手前、1kmくらいでしょうか中程度の長い下りがありました。僕は今年3つ目のトレイルランレースで下り方を思い出していたのでかなり飛ばすことができました。左右にうねる木の根っこだらけの道を高速で「落ちていく」のです。良いペースで飛ばして、前の速い人に追いつきました。この人はルート取りが上手く、ずっと後を着いていきました。気づけば後ろに5, 6人が着いてきて集団になっていました。

皆で下っている間、得も言われぬ快感がありました。足の置きどころを間違えれば転倒して少なくないダメージを受ける可能性が高い場所でしたが、そんな不安は感じません。ただただ流れていく濃い森の景色や気配を感じながら落ちていくのです。言葉にならない感覚です

こういう強烈な感覚がレースに1つは必ずあります。
この感覚を得るために山を走っているのかもしれません。

大人になると知恵がつき、ある程度のお金も使えるようになるので、無難で何事もないような環境に身を置きがちになります。それはそれで良いのですが、普段、いや人生において今まで感じらなかった強烈な体験からどんどん遠ざかっているのではないでしょうか

子どもの頃、全てが強烈に感じられたあの時の感覚。そういうものを味わうことに生きるということの本質があるのではないか、と僕は思います。

大人になりきれない子どもたちは山を走る。
いつまでも、いつまでも。

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