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私たちが「無関係でいたい」と思ったとき、すでに関係している パレスチナ

ガザ人道危機。26日ラファ、イスラエル軍の空爆によって45人のテントの避難民が生きながら焼かれた。

当然ながら、日本という平和な国(仮)で善良な一市民(仮)として生きる私たちは、何の罪も犯していない。人の命を奪うどころか、窃盗一つしないで生きている。

だから地球半周分離れた国で起こっている宗教紛争のことなんて、「自分には関係ない」あるいは「無関係でいたい」。
そんな私たちの切実な願いは、残念ながら実現しない。

「無関係でいたい」と思ったとき、すでに関係している

なぜならこの地球は、バリューチェーンでもインターネットでも様々な形で繋がっていて、私たちはその恩恵を受けているから。そして、知ってしまった以上何もしないのは、加担していることと同義だから。そこに私たちの意思は介在しない。

唯一の加担しない(あるいは責任から逃れる)手段は、「主体的に自身の態度や行動を変えること=流れに逆らうこと」しかない。
いい人でいたいと思ったら、それしかない。


私たちは動く歩道の上に立っている

はたまた、「中道など存在しない。」
特にパターナリズム(権威主義)があまりにも推進力を持っている日本社会で主体的な行動を起こさないでいることは、権力側に流されていくことと同義である。講義で聞いた、「動く歩道」の例が分かりやすいので共有したい。

足元が絶え間なくA方向に流れている場所で、せめて中立を保とうとするならば、B方向に歩かなければいけない。もっと先で人権や人道を守ろうとするならば、B方向にダッシュしなければいけない。

動く歩道

人口の大多数は、積極的に悪事をしたい人たちではなく、単に足を動かすのがだるい人たちだろう。そして、私の経験上そんな人たちから出てくる言葉が、「私は中道でいたい。」「偏るのは良くないと思う。」「それは自分には関係ないこと。」
しかし今説明したように、「何もしない」ならば中道でいることはできない。学校でのいじめと同じで、傍観は加担と同義だ。

「無言はYesを意味する」という言葉はは少々大雑把だが、結果論的にはそういうことだ。加えて言うと、「思うところはあるが、穏やかに生きていたくて黙っている」のであったとしても、「黙っている」限りはその目的は決して成功せず、人命や人権を不当に奪う構造に既に加担している。

今苦しんでいる人たちがいたとして、その問題に当事者意識が湧かないというのは仕方ないかもしれない。

ただ、「同じ社会に生きている限り、自分の意志とは関係なく既に構造に取り込まれている」という点はどんな人も自覚的でいるべきだ。


相互につながる私たち

前章での主張に関して、具体例を出しながらもう少し解像度を高めてみたい。

私たちが純粋に美味しさを求めてマックを食べるとき、そのポテトはアメリカから仕入れたジャガイモからできている。単に食事の対価として払ったまでのカネは、シオニスト資本家の懐を肥やし、爆弾となってガザの子どもたちの体を飛ばす。

私たちがSHEINで異常な廉価でショッピングを楽しむとき、それはウイグルの人々の低賃金労働の上に成り立っている。ポリエステルからできた粗悪な布や梱包のプラスチックはワンシーズンで捨てられ、どこか南半球の国の海岸を汚す。

グローバル化、デジタル化、ありとあらゆる境界が取り払われ、繋がっている現代。どんな消費行動であっても、長い長いロープが付いていて、地球上のどこかに、そして過去や未来に繋がっている。それによって「豊かな生活」という甘い蜜を私たちは享受しているはずだ。

全てのロープの先を辿る作業は、経済的にも労力的にも不可能だ。しかし、せめてロープの先で首を絞められてる人がいると明らかになっているならば、代替手段を探すくらいはするべきではないだろうか。都合のいいことに、世の中は選択肢であふれかえっているのだから。

私の文章は批判ばっかりで、そろそろ読んでくれている人の心労を気遣わないといけない頃になってきた。しかし、恐縮だが路線変更はできないのだ。これは他者の命と、私が人間でいられるかどうかがかかっているから。

「不純な動機」で当事者化も、まあまあアリ

昨年の冬、1年越しにJアラートが発出された。久しぶりだからそう感じたのかもしれないが、その回は今まで以上に仰々しくテレビが危険を呼び掛けていた。「死ぬかも」と強く思ったのは、東日本大震災の時と、このJアラートの2回だけだ。

この時私の頭の中には、恐怖感と同時に「なんで私パレスチナのデモ行かなかったんだ」という後悔が駆け巡った。

誰かが不当に命や人権を奪われていることを知っていながら無視したということは、もし私が理不尽に死ぬ側になって誰も助けてくれなくても、文句は言えないということだからだ。

これは正しくないかもしれないが、直観的にそう感じた。
私は時々、どこかの組織に拉致られて誰にも知られず一人殺されるシーンを頭に浮かべて、その絶望を想像してみることがあった。(なぜかは分からないが気づいたらやっていた。)
しかし、その絶望は妄想なんかではなく、現実で罪のない誰かが経験しているものであった。そんなの、許されないし、許せないだろう。

「明日は我が身だから平時から人助けはしておく」

利己的と言えば利己的だ。しかし、私はこれを機に急に「何かしなければ」という切実な焦りが出てきた。少し要点のずれた「当事者意識」。動機が何であれ、それがより大多数の態度や行動の変容に繋がるのであればアリなのではと思う。そもそも、「自分は加担したくない」という感情も突き詰めていけば利己的と見ることもできる。一言で語るのは無理だろう。

ちなみに、その後足を運んだ場で、自らの認識は少し他己的な方向に修正された。「パレスチナの声」の展覧会を訪れた時に、「間違っていると声をあげたのに社会が変わらなければ、それは声を無視していることになる。声を上げることは無意味でも、無力ではない。」というパレスチナ市民の声があった。
ホロコーストの歴史を習った際に見た、戦争末期に都市から一人ずつユダヤ人が連行されていった時期に、当時のユダヤ人が書き残した手記に似ていた。何のために私は平和教育を受け、資料を見せてもらったのだろうか。自己満足のため?インテリぶるため?違う。同じ過ちが繰り返されないよう、ストッパーになるためだろう。

「日本で何かしたところで、戦争が終わるわけではない」?

デモをしていると、通行人やら知人やらからこのようなことを言われるのは珍しくない。他にも経験した人は少なくないだろう。なんとも20代の選挙投票率30%の国らしい。
言葉を選ばずに言うが、人が命を奪われているのを知っていて何もしないでいられるというのは、人の心が壊れてないかと思う。

もう少し理性的に言うと、
「ここが安全な場所だからこそ、できることをする」のだ。

ガザの人々が、ウクライナの人々が、いままさに戦争に苦しめられている側が戦争を止める手立てはない。
例えばウイグルの強制労働。現状で迫害されているウイグルの人々が国家権力の共産党政府に歯向かえる訳がないから、CNNが報道し、世界中で市民のムーブメントが起き、そこに関与するグローバル企業や中国政府が行いを改めざるを得なくなった。安全な場所での発信や抗議が功を成した事例だ。

「現地でやれ(笑)」という声は掲示板のレスバトルのようなもので、どうしても人の上に立ちたい者によるクソダサ冷笑仕草だろう。だからこそ惜しみなく批判している訳だが、仮に現地に行ったとして、命が危険にさらされ、抗議が制限される人がもう一人増えるだけだろう。もし現地で写真を撮り、記事を書いたとして、果たして貴方はそれを見るのだろうか?
現に現地で活動しているジャーナリストや人道支援を行っている人々は山ほどいる。あとは、そういった取り組みが意味を成すよう自分のフィールドでどれだけ最大化し、それだけの人の心を動かせるかというフェーズである。
各個人が情報発信主体となった現在、場所によって保障されていたりいなかったりする「事実を発信できるパスポート」「抗議する権利」を最大限に使っていくのは、メディアも各個人も同じなのではと思う。

当然一人の行動で、100%の理想=停戦は実現しない。しかし、何かが0.01%でも変わるならば、やらざるを得ない。

私としては、「叶わないからやらない」は言い訳でしかない。面接で話せば大絶賛されそうな言葉なのに、社会的正義の話になると急に皆が顔を背け出すのはなかなか珍妙だとも思っている。
そもそも人間は合理的なだけの生き物ではないので、コスパを追い求めるだけの営みは本質的ではないと感じる。「リターンがないからやらない」「コスパが悪いからやらない」で割り切れるくらいに合理的であったなら、そもそも戦争や侵略なんて起こっていないし、差別偏見なんて今頃なくなっているのだから。

デモでも勉強会でもボイコットでもいい。
事実から恣意的に目を逸らさず、「知らなかった」で済まされないようとにかく世の中に可視化させる。
人間でいたいから。

綱渡りハッシュタグムーブメント

#Metoo #Kutoo などでも一定の成果を上げたハッシュタグムーブメント。
パレスチナに関しても、ラファ空爆以降数日の間に#All eyes on Rafah (ラファから目を逸らすな)が、驚くほどの規模でSNSの世界トレンドになった。インスタ上では、誰かが作った縦向きで見栄えの良い生成AI画像がシンボルになった。

論点はやはり、凄惨な事実をまざまざと捉えた写真や情報があるのに、なぜそれを差し置いてまでもこの画像なのか、というところだ。何の意味も魂も包含していないポップでのっぺりとしたその様にはザワザワした。
友人複数間でこのインスタのタグの話題になり、「なぜ投稿しようと思ったか」逆に「なぜ投稿しなかったか」ということに関して少し話をした。私も普段から両論併記にムカムカしているが、今回は学生たちが平和について議論してみた話として、一旦暖かい目で読んでほしい。

【なぜ投稿しようと思ったか(私含め)】
①映える画像を投稿するだけで満足するのは良くないが、「最初の一歩」になればそれをきっかけに他のアクションをするようになるかも。
②一刻も早く停戦しなければいけない状況下で、手段を選んでいる余裕はいから。大きなムーブメントの糸口は逃さないべき。
③同調圧力を逆手に取りたかった。「ことなかれ主義」の同調圧力が障壁だが、逆に「みんなポストしてる」の雰囲気を作ることは周囲の目を気にしている人ほど効く。

【なぜ投稿しなかったか】
①「無視をした」という恣意的な感覚はなく、その他の事柄と同じように単にスルーしただけ。敢えてやらなくていいと思った。
②普段インスタをあまり更新しないことや、自らのコミュニティに平和に関心がある人が少ないために、変に思われるだろうと思った。

簡易な便乗(ともすればファッション)について、無責任に「何もやらないより良いよね」とは言えない。資本主義とトレンドに型抜きされたその態度が、状況をあらぬ方向に悪化させる可能性も、別の問題を呼び寄せる可能性もあるからだ。
「グロテスクな画像で自分のSNSを汚したくない。」「不快でなく、マジョリティに受け入れられるような形でやるべき。」「ハッピーな社会貢献活動。」全て傲慢も大概にせえよという感じで吐き気がする。

ただやはり思うのは、大衆に正論パンチは効かないということだ。私たちは所詮不合理で適当で無責任な生き物の集合だから。
となると、利用できるものは利用でしながら、本質がズレないよう専門家が随所で出てくしかないとも感じる。理想主義者らしくない、珍しく現実的な私の所感だ。
正直私も自分の中で結論は出せていない。生成AIには環境破壊、著作権侵害など考慮すべき問題が挙げても挙げきれない。そしてその拡大の背後には経済という巨大なパトロンがいて、いくら批判しても止められないだろう。これに関しては、もっと考えを深めていきたい。


さいごに

今回記事を書いたきっかけは、高校時代の友人と再会したことだ。
私は就活市場に適応するため自分を変えるのに必死で、エリートの友人らの目を気にして、できるはずのことさえ怠っていた。
それに対して、風当たりの強い環境でも、ガザのため様々な活動を行いながらSNSで発信していた友人。自分の身を顧みさせられたと同時に、孤独にさせて抱え込ませていたことを申し訳なく感じた。

「自分事として考えられない」「自分の行動をわざわざ変えるのはしんどい」「ボイコットを強制してくるな」
読み手の心労に配慮がない文章ではあったが、この記事を通して最近自分の耳によく入ってきて、モヤついていた言葉たちをそこそこに解剖できたようで良かった。

自分が行動するだけじゃなくて、今回整理したことを、今度は人に話そう
友人が私にくれたきっかけを、私も誰かに繋げよう

Be a giver
Be a human


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