第1章 自己への吟味 アントナン・アルトーの幽閉

「裁き」の源泉

呪術から宗教から王から国家へと、「鏡像フィードバックシステム」による、オブジェクトへのメタレヴェルな憑依、つまり人格化された中心-超自我への負い目.負債から、善悪システムによる「裁き」が生じる。
「鏡像フィードバックシステム」は相手に意識があるのであれば、という無限の相互抑圧的な、自然状態=万人の万人に対する闘争、から呪術.宗教.王.国家を作り出した。国家が生まれ、それはある国=主権に対して、対外的に、敵を作り出すことによって、他の国家が螺旋状に広がっていく。
精神と物質の二分法(デカルト)という近代の始まりと共に、呪術.宗教的な交換様式A(アニミズム.生贄)から人間中心の交換様式B.Cへと裁きの源泉を変遷させた。「鏡像フィードバックシステム」の自然からの切断。そして、交換様式Cにおける「産業資本」による「自然の拷問-唯物論」、つまり絶えざる自然の飛躍によって、交換様式A.B.Cから「浮遊」すると同時に「包摂」する、因果的フィードバック-アーキテクチャー-環境管理型権力による新しい「裁きの源泉」が生じていることは落合陽一が言っていることだ。

人類史は魂という超越論的な中心を絶えず、求め続けてきたのである。
そして、「人口の遷移」と「鏡像フィードバックシステム」と「自然.および計算機自然」の相互関係も最近は気になっている。

大体産業革命以後ぐらいから人口が急激に増えていることが分かる。だが、次世紀へ向けてサピエンスは減少へ向かっていくことは知られている。
フーコーにおける後期の仕事「性の歴史」シリーズなども示唆的なように思われる。

常備軍から計算機自然へ ポスト.シンギュラリティへの危惧

とうに潰れていた喉
叫んだ音は既に列を成さないで
安楽椅子の上
腐りきった三日月が笑っている
もう
すぐそこまで
すぐそこまで
すぐそこまで
すぐそこまで
すぐそこまで
すぐそこまで
すぐそこまで
すぐそこまで
なにかが来ている

「熱異常」.いよわ

ここで一つ、「陰謀論的妄想」を述べてみるのなら、まず、産業革命以降の大量生産.大量消費.大量廃棄社会では「テクノロジーの出生率」が飛躍的に増えていることが分かる。そして、それは特定の人物-資本家の私的所有によって成り立っていることも分かる。ところで、国家とは暴力の独占が本質であることはマックス.ウェーバーが指摘している。今世紀における人口の飛躍-大衆化とテクノロジーの飛躍-産業化は同時並行であり、そしてその有り余ったエネルギーは時に共産主義革命やナチスドイツのような事象を生んできた。サイバースペースとは、開発当時の人はまさにアメリカ大陸さながら「フロンティア」であり、ジョンペリー.パーロウは「サイバースペース独立宣言」でサイバースペースの国家からの独立を求めている。加速主義を日本で紹介している木澤佐登志の最初の本は「ダークウェブ・アンダーグラウンド 社会秩序を逸脱するネット暗部の住人たち」であり、それは加速主義が国家の廃絶を求めるという特質からインターネットの検閲が及ばない「深部」へ向かうことは必然でもあった。テクノロジーと大衆化.および民主化が進んだ今世紀ではもはや力関係のヘゲモニーは国家単位では考えられない。今世紀がテロの世紀であることは周知の通りだ。もちろん暴力は国家が独占しており、核兵器のボタンは国が握っている。しかし、山上徹也の事件を思い出して欲しい。「テクノロジーの民主化-オープンソースの倫理」は暴力の管理がいかに難しくなっていくのかを物語っている。常備軍から計算機自然へ。
そして、それはもはや物理的な次元に限った話ではない。国に追放されるよりスマートフォンが没収されることの方が今世紀において意味を持つ、と堀江貴文は言っていた。つまり企業の方が権力を持っているのである。
「規律権力」も「管理社会」も逃れた、ある特異点。
シンギュラリティはどこから始まるのか?
あらゆる抑圧的ヒエラルキーに逃走線を引くリゾーム状の世界。それはポスト.シンギュラリティにおいて登場する新世界への一つの危機的妄想である。カントは常備軍の廃止を永遠平和に求めた。ルソーは文明社会のないところこそが善悪の彼岸である、と言った。
問題はどこにあるのか、本当のところはわからない。我々は霧の中を歩んでいくしかないのだ。

神の裁きと訣別するために

twitter.Instagram.およびnoteなどSNS上では、アテンション.エコノミー.評価経済が跋扈している。それらはキリスト教における「告白」とそれへの応答という「司牧権力」による「主体化」の延長線上にあり、それは近代の学校.病院.軍隊.工場による「パノプティコン」による「規律権力」が作用する「場」として新しい公共圏=インターネットが登場し、それ-司牧権力-規律権力、が敷衍されているに過ぎない。この場合、中心は自然-呪術、預言者-神、主権者-王、などと変化し、それが近代になって生まれた企業-プラットフォームへと変化している。
私、我々を、「告白」へと向かわせているものは何か。こんなどうでもいいことを書いて/書かされているが、こんなことしてたらニーチェに怒られそうだ。

中心とは糞に過ぎない(アルトー.デュシャン)

神とは存在なのだろうか。神が存在するとすれば神は糞である。神が存在でないとすれば神は存在しない。ところで神は存在しないのである、けれども神はあらゆる形をまとって前進する空虚のようだ その最も完璧な表象とは毛虱の大群の行進である。

「神の裁きと訣別するために」A.アルトー

自殺したyoutuberである「うごくちゃん」がこう言っていたのを思い出す。

「死んでないだけ」

うごくちゃん、およびハイデガー、サルトルが発見したものとは中心を絶えず”ずらし”、裂け目-穴という根源性-不安による「道」の喪失によって、隣人としての死へと絶えず飛躍する「寸前」で、対象-オブジェクトの「現象学的還元」とその「ゼロ記号」の絶えざる生成として、なぜか生きてしまっている自分、を発見してしまったのである。

神とは道だった。

これからも人間は糞を巡って、争い、裏切り、騙し合い、殺し、そして、愛しあうのだろう。

最後に

壊れたカメラでさっき撮った写真
明日は晴れたらいいなぁ。

テキストを書くこと、SNSにネタツイすること、つまり、誰かへと内面-真理を告白すること。アテンション.エコノミーやいいね社会に抗う唯一の方法は、「何もしない(ジョニー.オデル)」ことなのか?。他者への隷属を強いられ、絶えず中心化される「畜群」の「外部」はもはや殺人しかないのかもしれない。ニーチェ以後の哲学者、および時代感を、私は現在2024年初期の現在、何か中心の不在からポツポツと世界が不安定になっていっているように思っている。この記事はそのような危機感の元に書かれている。そんな時代への回答の一つとして東浩紀「観光客の哲学」は大変重要になるテキストだと思っている。自分で何かを考えるくらいなら、この仕事を咀嚼し、布教することが人類の為になるのかもしれない。

詰まることろ、テキストにできることはまだあるのか?を問うているのかもしれない。
ここで前回の記事の問いに戻ろう。

「ソクラテスはなぜ書かなかったのか?」

ソクラテスは公人であることを否定したが、正義を追求する、という背理を生きたが故に、アテナにおいて殺されるはめになった、と柄谷行人の「哲学の起源」では述べられている。それは、カントは国家は私的であり、世界市民的であることが普遍的である、と述べたことと並行している、という。分かりやすく言うと、田舎の学校で、クラスのヒエラルキー構造を無視した委員長が、マルクスとかレーニンとか引用してグローバルに普遍的な「正義」を振り翳せば、浮くのは当たり前だ。
話を戻すと、ソクラテス以前から以後への断絶には「倫理」の有無がある、と言われる。柄谷によれば、ソクラテスは公私を超えたところに「徳」があると考え、それはアテネのデモクラシーではなく、イオニアの非階級的なイソノミアにあったと。

絶えず、自己吟味を自己において行い、他者にもそれをおこなったためにソクラテスは殺されたのだった。中心を絶えず、ずらし、くっついては離れてを繰り返すこと。それは公的であることではなく孤独なことであり、道なき道を歩むことでもある。

世界にはきみ以外には誰も歩むことのできない唯一の道がある。ひたすら進め。

フリードリッヒ.ニーチェ

そして、それはソクラテスが「今」を生きた人であったことを意味している。ソクラテスは公的.中心への隷属を避けつつ、「正義」を求める、という背理を生きた人だった。それは不可能な領域への希求であり、ソクラテスは正義や徳とは神の領域であり、それが「無知の知」という思考法を生み出し、そしてそれが「ダイモン(神の声)」を生み出したのだろう。
ダイモンとは意識.自覚に中心化されない、無意識の「声」によるもので、そこには内省-思考とはまた違った「飛躍」があったのだろう。
ゆっくり考えること、熟考し、内省し、深く深部へ潜り、体系だてて、演繹.帰納を繰り返す。それはテキスト的なものであろう。
ソクラテスは考え、内省し、深く深部へ潜る一方、飛躍を、今を、直感を、最終的にはダイモンという形で行う「間」を生きた人であった。
故に書かない。

我々もまた、偶有性-神と飛躍された今-美を、生命を、全うせねばならない。

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