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理解と無理解の間を埋めるもの

随分とお久しぶりになってしまいました、タスクです。

今回は、3月1日に行われた厚生労働省主催の「依存症への理解を深める普及啓発イベント」について書きたいと思います。

アルコールや薬物の依存症関係者が一堂に集い、トークセッション形式で自身の経験談や感じたこと、考えていることなどが展開されるものです。

https://www.izonsho.mhlw.go.jp/index.html

トークゲストに「ぜひ話を聞いてみたい!」と思っていた方々が揃っていらっしゃったので、現地参戦をとても楽しみにしていましたが、今回はコロナウイルスの影響で動画のライブ配信のみとなってしまいました。とはいえ、画面越しでも皆さんの言葉や歌はしっかり心に伝わってきました。

、、感想はこのくらいにして、本題に入ろうと思います。笑

考えていきたいこと

今回のイベントのテーマは「依存症への理解を広め、深めること」そしてこのnoteのテーマは「どうすれば理解は広まるのか」
タイトルにも付けましたが、理解と無理解の間の溝、ギャップを埋めていくにはどのような仕掛けが必要なのかを、イベントで聴いたことを踏まえて考えてみたいと思います。

さて、以前に依存症の啓発講座を受けた時のnote「百聞は一見に如かずを痛感した日」では、ざっくりこんなことを書きました。

・依存症を理解することは当事者や関係者にとっても、そうでない人にとっても、双方にメリットがある。
→当事者はより生きやすく、そうでない人は1つのライフハックとして。 なぜなら、依存症は誰でもなり得るものだから。
・しかし、「依存症を理解することの意義」がまだ広く理解されていない。

これらのことから、理解を広める方法を考える前に、そもそもなぜ理解が広まらない現状があるのかについて考える必要があるといえます。
依存症への理解はなぜ広がらず、誤解や偏見が根深いのでしょうか。

知っているけど知らないこと

薬物は危険なもの、或いは、依存対象に関わらず、依存症になると不都合なことも多くて大変だぞ、ということはよく知られていると思います。
では、「依存症は回復できる病気である」ということはどうでしょう。自分や身近な人が依存症なんじゃないか…という時の相談先は? 

統計データを出せるわけではありませんが、後者はまだまだ世に知られていないことではないでしょうか。
それはなぜか。たぶん、知る機会がないだけだと思います。
このように、多くの人の依存症に関する知識は歪なものであると考えられます。つまり「危険だ」という情報とそれに付随した「ヤバい」印象だけが先行して独り歩きし、対処法や実情という大事な方が世に広がっていないということ。「知ってるけど知らない」状態が一般化されてしまっているのだということです。
こうなると、中途半端に知っているので、イメージや思い込み、断片的な情報からの誤った判断で偏見が生まれるし、中途半端にしか知らないので、真相を掴み切れない、得体のしれないものに対する不安、恐怖ゆえにやっぱり偏見が生まれる(しかも怖さが伴うので簡単に伝播する)ことになります。

他にもたくさんの要素が関係しているとは思いますが、このような仕組みがあることが理解が深まらず誤解や偏見が根深い原因の一つだと考えます。

依存症でもそれ以外の何でも、正しい知識を適切に持っていれば、不当な批判、バッシングはしようがないわけです。やはり正しく知っているかそうでないかの境界が重要であると言えます。知は武器。

知識のニュー・スタンダードをつくる

先ほども「知る機会がないだけ」と書きましたが、多くの人は自分の知識が歪んでいることすら自覚していないし、積極的に知識を得ようと行動することもありません。それを悪いことだと言いたいのではなくて、むしろ当然のことでしょう。特に興味もなければ、目下の自分との関係性が薄い依存症のことよりも他に知るべきことがたくさんあるんだと思います。

そんな中で、依存症に関する情報を得る場面はほとんど二つに絞られると言えます。
①小、中、高校の保健の授業
②ネットニュースやテレビ
ここで手に入れる情報の質が「知ってるけど知らない人」のままなのか、「正しく知っている人」の仲間入りをするのかを決める大きな要素となります。ほとんどここにかかっていると思います。
①教育の質を高めて小中高で基礎的な正しい知識を入れ、②メディアでそれ以降に情報をアップデートする機会を設ける。
どんなに時間がかかっても、このサイクルをきちんと回すことが目指すべきビジョンであると考えます。
依存症は誰でもなる可能性があるということと、回復できる病気である、ということは、依存症というものがあること、そうなると何が起こるのか、ということとセットで知られなければいけません。しかも、専門性の高い知識としてではなく、さらりと知られている一般化された知識として。歪んだ知識を修正してニュー・スタンダードをつくるということです。

これ以上の話は、教育やメディアに対する提言となってしまい、主語が大きすぎてぼくが扱える範囲を超えてしまいますし、すでに依存症の専門家や関係者の方々がいろんな場面できちんとした提言をしていますので控えますが、こうやって文章を書く者の一人として、応援していますということは書いておきます。

まとめ

・依存症は誰でもなる可能性があるので、誰もが正しい知識を持つ意義がある。
・依存症は回復できる病気である。
・理解と無理解のギャップを埋めるには、教育とメディアの質を高めることが重要。

加えて、僭越ながらこのnoteも知識のアップデートに貢献できていたらうれしいです。
意識を高くして自覚するまでもなく、誰もが上に書いたようなことを知っている世の中になるといいなと思います。
ぼくも、依存症に限らず色んなことを知り、受け入れる態度を忘れずに、やさしい人間でありたいです。

#エッセイ #コラム #社会問題 #生きる #学び #大人の学び #依存症

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