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カメラと想いをぶつけあう瞬間

バチバチっと軽快な音を立てて、手持ち花火が夏の夜に咲いた。

写真は、実家で今年2度目の花火を楽しんだ時の1枚。火花が炸裂する瞬間の面白さに気付いてしまい、無心でシャッターを切った。

花火の燃える音に合わせて、ツチャチャチャチャチャ…と連写音が響く。何枚か撮るごとにカメラの小さなモニターを確認し「そう来たか」とひとりで納得。色味やシャッター速度を微調整して繰り返しファインダーを覗いた。

連写していることもあって、800枚近いシャッターを切った夜。中にはピントが飛んだものあれば、白飛び・黒つぶれの失敗作もたくさんある。納得がいくまでシャッターを切ったはずなのに、好きなショットの中からベストショットを選ぶことは意外に難しく、ピントの正確さや好みの色調だけでは測れないものがあると思い悩んだ。

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人の視力はシャッタースピードに換算すると1/30ほどだという話がある(運動識別の限界値)。つまり、これよりも早いものは私たちは「動き」として認識するため、シャッタースピードが1/30よりも早い設定で撮られた写真に関しては視界の中に入っている景色であっても私たちは脳で処理しきれていない部分があると言えるだろう。

たとえばシャッタースピード1/200で炎や水しぶきを撮ると、よくわかると思う。私とカメラは同じ被写体を見つめていながら、各々が異なる景色を認識しているということになるのだ。さらに早いシャッタースピード1/800で野球を撮ると、バットにぶつかった瞬間の球が「C」の形に湾曲しているということも、スポーツを撮るようになって初めて知ったことだった。

撮影を繰り返しているうちに気が付いたことだが、私としてはカメラを「道具」であると同時に「相棒」として私のそばに置いておきたい。記録を残すための道具としてというより、作品作りの相棒としてシャッターを切っているからこそ生まれた想いかもしれない。ただ 厄介なことに、商用写真を撮るには少々不向きな感情だろう。私の写真への思い入れは少々強すぎる、いや、面倒くさすぎる面があるように自負している。


カメラと私が創り出す「写真」。

カメラとは果たして、道具だろうか相棒だろうか。

一眼レフカメラを手にして7年。これまで極力無心でただひたすらにシャッターを切ってきたが、遅くも早くも、このようにしてふと立ち止まる瞬間があってもいい。

冷房のきいた部屋で冷たいアイスコーヒーを飲みながら、私がファインダーを向け カメラが切り取った写真を眺める今日だった。

カメラの充電ランプはオレンジ色から緑色へ。
さて、明日はなにを撮ろう。

2020/8/28 こさい たろ

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**花火写真関連の過去note


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