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性風俗こそ最高の労働である。

専門職はもはやゴミである

「まわりが楽しく青春を謳歌する横で、いつも同じような服で黙々と勉強したり資格取ったりして、しれっと専門職に就いて、気がついたらいい服着ていい家住んで黙々と仕事してる。」

筆者がネットニュースで見かけた「コメント」だ。

本当にそうか?

「資格」とは具体的に何を指すのかが判然としないが、たとえば司法試験(予備試験)の受験のためには少なくとも予備校代で100万円かかる。公認会計士の予備校も80万円程度はかかる。

「予備校なんかに頼らず独学したら?」という人間はこの記事を見るに向いてない。「だったらお前が独学してみろよ」と言ってやりたい。

さて、このお金はどこから来るのだろうか。もちろん大学の奨学金に予備校代は含まれないし明らかに足りない。

「しれっと専門職に就いて、気がついたらいい服着ていい家住む」

ところが本当に専門職に就いたら、いい服着ていい家に住めるのだろうか?

弁護士の平均年収は約950万円、公認会計士の平均年収は750万円。大手の法律事務所ならばもっと年収は上がる。有名な4大法律事務所ならば平均年収2000万円も現実的であるが、そこに入るためにはまた「特別な体験」が必要であろう。帰国子女、一芸に秀でている、云々。どれもお金がかかることだ。

もちろん専門職以外にも高収入の企業はたくさんある。総合商社、外資系戦略コンサルティング会社、外資系金融機関。そこに入るためにもまた「特別な体験」が必要であろう。帰国子女、一芸に秀でている、云々。どれもお金がかかることだ。

理不尽な社会

「お金に働かせる」という言葉がある。

金融投資の世界での話である。自分の時間と能力を使わず、お金がお金を稼いでいるという状態のこと指す。年間利回りが10%の投資があるとする。1億円を投資すると5年後には1億6000万円になる。自分は何もしていないが、6000万円の利益を得た。複利でより一層儲かる。まさに私たちが日常的に言う「投資」というものであり、「お金に働かせた」結果である。

そして、投資で利益を得たいのなら、十分な資金が必要であるということだ。同じく利回りが10%でも、資金が100万円しかなければ5年経ってもたった160万円になるだけだ。つまるところ、金持ちはより金持ちになり、貧乏人は大して変わらないということだ。

ところで、労働とはなんだろう。

国語辞典(デジタル大辞泉)によれば労働とは「体を使って働くこと。特に、収入を得る目的で、体や知能を使って働くこと。」だという。

労働
体を使って働くこと。特に、収入を得る目的で、体や知能を使って働くこと。

デジタル大辞泉「労働」

令和の時代、単純に体を使って働くことはもはやなんらの価値も生み出さないだろう。土木作業員は月収20万円にも至らない。建設業の日雇はせいぜい日給8000円程度だろう。

知能を使って働くことはどうだろう。大卒が国民の6割を突破しようとしている中、大卒はもはや大した「知能」とはいないのではないか。実際、大卒の平均年収は360万円である。これでは高卒のフリーターと大して変わらない。時給1100円でフリーターをすれば、1日8時間・月22日労働でも250万円程度。といっても一般的にどんな職業でも残業は当たり前であり、1日8時間しか働かない職業はないだろうから、もし1日10時間働くとすればフリーターでも年収300万円は手に入る。

その差はたった60万円に過ぎない。大卒の意義が果たしてどこにあるのか疑わせる。

人々が皆大卒になってしまえば、大卒は意味をなくす。大卒ではない人間が多数いる社会だからこそ、大卒が価値を持つ。白人だけの世界では黒人差別は発生しない。白人ではない人間が一定数いるからこそ人種差別が起こる。日本で人種差別が(一般的には)起こらない所以である。日本人全員が東大生になってしまったら、東大は意味をなくす。ほとんどの人は東大生になれないからこそ、東大が価値を持つ。

東大生は確かに稼げる。東大卒30歳時点の平均年収は800万円にのぼる。

しかし、東大卒のその仕事は東大卒にしかできないのかと言われたら、そうでもないことが多いだろう。たとえば東大卒の商社マン。字面だけ見ると確かに優秀そうに見える。しかし、それ以外の者は彼と同じくらいの価値を生み出せないのか。同じ実務経験を持つ前提であれば、正直東大卒ではなくても同じほどの価値を生み出せる人物は一定数いるだろう。しかし現実、年収は圧倒的に劣ってしまう。Fランクの私大では大手商社の書類審査で落ちる。どう足掻いても大手商社には入れない。

商社マンの日常も「労働」である。しかし、それはもはや「体や知能を使って働くこと」と言えるのだろうか。東大というブランドにあやかって、大手商社というブランドにあやかって収入を得ているだけなのではないか。

今、働くための手段はもはや体でも知能でもない。「東大だから」働けた、「大手商社だから」働けた、それだけのことになってしまっていないのか。

東大生は優秀である。確かに優秀ではある。しかし、東大入試にたった0.001点差で落ちた人間は東大生ではなくなる。もちろん入学試験だから、最低点数でキッパリと切られるのはしょうがない。そこは認める。では、その人間は果たして優秀ではなくなってしまうのか。「前期入試」に0.001点差で東大に落ちた人間が1ヶ月後の「後期入試」で地方の国立大に行ってしまったら、その人間は永遠に「地方駅弁卒」という悪評を抱える。0.001点は少し極端だが、正直なところ東大入試に数点差で落ちた人間が、東大生ではなくなり、東大生と比べたら優秀ではなくなるというのはどうかと思うところがある。

労働が労働ではなくなっている

高収入を得るための手段がもはや体でも知能でもなくなっている。すなわち、個々の人間に内在的に備わっているモノを使った労働は昨今の社会では意味をなさなくなっている。

「東大生」というブランドは高度に外在的な代物である。普通、東大生という存在は優秀、勤勉、聡明などによって意義付られる。確かに「優秀」も「勤勉」も「聡明」も一見すると本来はその人物に内在する素質にも思える。しかし、東大生(というよりかはいわゆるトップ大学群)以外には「優秀」も「勤勉」も備わっていないのか。決してそうではないだろう。確かに弁護士は法律に詳しい。しかし弁護士以外は法律に詳しくないのか。Fランの(しかもFラン卒の)法学部教員でも、そこらへんの弁護士よりはるかに法律に精通している人間は結構いるだろう。そうしたら、弁護士が弁護士たり得る理由はもはやそれに内在している法律学の知識の豊富さとかによるものではなく、試験に突破して弁護士会に登録されたからだけになっているのではないか。

(もちろん国家試験の制度を否定している意図ではない。一定の職業に国家資格という独占性を付与して制限を設けることは全く別の目的にあることは重々承知している。)

働いて、満足した収入を得るための手段が内在する肉体でも知能でもない今、それは実は金融投資と同じく「お金に働かせる」と似た構造になってしまっている。

つまり、現代の労働というのは「自分という肉体に内在する何か」が働いているわけではなく「自分という存在に後天的に付着している外在的な何か」が働いているだけに過ぎない。それはまさに「外在的な何かに働かせている」こととなろう。自らに本来生得的には備わっていない、後天的外部的な価値が自分という肉体とは別のところで働いているというのが、現代の労働になっている。

「お金に働かせる」というのは「自分という肉体が働く」ことと対比して「自分ではない何かに働かせている」意味である。そういう意味で、労働というのは金融投資と同じく、実に外部的な行為になりつつある。

もちろん社会的な価値の側面が強い労働というのは古来から存在するし、それを無視しているわけではない。語学力を活かして通訳として働く、それはもちろん(母国語とは明らかに異なる)後天的外部的な価値を生かした労働であって、遥か昔から存在する職業ではある。しかし大変憎いことに、この外部的な価値を手に入れるためには、さらに遡って外部的な価値が必要になってしまっているのがまさに令和の時代ではないのか。

語学力を活かして通訳として働くことだけを見ても、今の時代、非常に難しい。学校の英語をいくら頑張っても通訳にはなれない。東大入試で英語を満点とっても、通訳になれるかと言われたら怪しい。なぜ。それはあなたより英語ができる人がいくらでもいるからだ。全員が東大生になったら東大は価値をなくすと先ほど述べたが、少なくとも現代、教科書の英語くらい誰でもできる。ちょっと上を見れば、誰でもそれっぽい英語を話せる。だから、あなたが教科書の英語をマスターしたところでただの「ゴミ」に過ぎない。実際問題、教科書の英語では流石に通訳には程遠い。ではもう少し上を目指して、大学で英語を専攻したとしよう。この時点で大変資金がかかることである。国立大学だとしても授業料だけで220万円。優秀な大学はだいたい東京にある。上京して一人暮らしするなら4年間でさらに最低でも400万円はかかるだろう。ボロアパートに住んで。これでようやく大卒の英語専攻になって、晴れて一人前の通訳になれるかと思いきや、次は帰国子女たちとのバトルだ。米国もそれもニューヨークで育って、ニューヨークの慶應義塾を卒業した帰国子女に日本の英文学科卒が勝てるとでも思うのか。全くもって勝てるわけがない。実際、大手企業の海外部門では帰国子女がほとんどを占めている。あなたがどう勉強を頑張っても、どんなに勤勉だろうが、どんなに聡明であろうが、帰国子女にならない限り、まともに通訳として食っていくことは不可能なのだ。

ではその帰国子女は自分で海外に行ったのか。当然そんなことはない。両親に着いていて行っただけのことである。外部的な価値としての「帰国子女」を手に入れるためには、さらに遡って外部的な価値が必要になってしまっている。「帰国子女」というのは何らその者に内在する何かではなくなっている。自ら望んで帰国子女になったわけでもなく、単に両親が海外に行ったから、何なら単に両親が海外で子作りをしただけ、それだけのことだ。究極的に肉体とは無縁の外在的価値である。

そんな外在的な価値にあやかって収入を得ている行為はもはや労働とは別の何らかの新種の行為であると言える。いってみればそれは一種の「投資」であり、ある種の「ギャンブル」でもある。ありもしない不確実な将来に対して金銭を費やし、期待を抱く。成功して多額の年収を得る時もあれば、全てが失敗に終わって至って平凡な人生を歩まざるを得なくなるものも数多。東大を目指して幼少期からSAPIXに入り、私立中高一貫に入り、鉄緑会に入り、あげく東大に落ちた。こんな事例は実に枚挙にいとまがない。

私たちは労働という営みの再定義に迫られている。

商社マンがある巨大プロジェクトを成功に導いた。今後の収益が期待され、株式の買い増しが進み、株価が上昇した。その時、持て囃されるのはその仕事を成し遂げたその商社マンではなく、あくまでもその商社という会社である。商社という、多くの従業員によって構成される究極的に外在的な虚構が、世間で持て囃される。その業務に実際に携わったその「個」としての商社マンのことは誰も知らないし、誰も気にしようともしない。

労働とは何だろう。一見自分が働いているように見えるが、それは究極的には自らではない外部に存在する自らを構成する外在的な虚構の見栄を張るために営む行為になっている。

性風俗こそ最高の労働である

翻って思うに、いまだに個々の人間に内在的に備わっている、本来的に労働と言える労働は何であると考えると真っ先に思いつくのが、皮肉にも売春ではないのか。

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