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ファンタジー作品における多様性、および政治的妥当性(ポリティカル・コレクトネス)の考察


第一章 映像化の宿命

『指輪物語』のスピンオフ作品が炎上?

 遡ること半年前。『指輪物語』の新しいドラマシリーズ『力の指輪』がAmazon Primeで配信を開始し、大きな話題を呼びました。『指輪物語』は近代文学におけるファンタジーの原点とも言える作品で、J.R.R.トールキンによって書かれた言わずと知れた超人気小説。今でも多くのファンを擁する、壮大かつ長大な物語です。これを映画化した『ロード・オブ・ザ・リング』は、世界的な大ヒットを記録しました。
 しかしそのスピンオフ作品とも言える『力の指輪』は、エルフやドワーフのキャスティングに黒人が起用され、一部のファンの間で物議を呼びました。もちろん創作物なので、賛否両論あるのは当然のことですが、これに関する私の所感と、ファンタジー作品における多様性、および政治的妥当性(ポリティカル・コレクトネス)について、論理的かつ慎重に整理して考えていきたいと思います。

『力の指輪』に登場するエルフ、アロンディル

否定的な意見の傾向

 エルフやドワーフなどのキャスティングに黒人が起用されていることについて、否定的な意見を分析してみると、主に以下の3つのパターンが見受けられました。

1.原作改変に対する批判

 J.R.Rトールキンが書いた原作『指輪物語』のエルフには、白人しか居ないという主張。また、黒人がエルフを演じると、ファンタジーの世界ではお馴染みのダークエルフのように見える、という意見もありました。しかし『指輪物語』のダークエルフ “Elves of the Darkness(暗闇のエルフ)” または “Dark Elves(闇エルフ)” の外観は、現在一般的に広く知られているダークエルフとは少し違うという説もあり、これには議論の余地があります。また、エルフが必ずしも白人であったかどうかについても、原作最終巻の巻末に掲載されている追補編(日本語版では未掲載?)の "They were tall, fair of skin and grey-eyed(彼らは背が高く、肌は "fair" で、灰色の目をしていた)" という原文およびその訳について諸説あり、これを明確に証明する根拠は今のところ見当たりません。"fair elves skin tolkien" で検索すると、英語圏のファンの間で議論されている内容を、翻訳して読むことが出来ます(詳細は以下、森瀬 繚さまのツィートのツリーを参照して下さい)

2.歴史に鑑みた反証

 『指輪物語』の舞台である中つ国は、中世ヨーロッパがモデルになっているという前提で、その時代その場所にはあまり黒人が居なかったという、歴史に鑑みた主張です。中世は現代ほど人の行き来がなく、ましてや多様性に対する理解など全く浸透していませんでした。にも関わらず、あたかもそれらの問題が最初から存在していないかのように、淡々と物語が進行していくことに違和感を覚えた人も多いようです。実際、多様性を尊重するという概念は、20世紀後半になってから浸透し始めました。また『指輪物語』の世界が特段、多様性への理解が浸透している設定なのかというと、そんな事はありません。むしろ種族間は保守的かつ排他的で、多様性とは程遠い設定が多く見られます。それでも尚、種族間の壁を乗り越え、協力して巨悪に立ち向かう姿にこそ、『指輪物語』の魅力があるとも言えるでしょう。エルフとドワーフが反目し合う描写が示す通り、『指輪物語』は人種間の軋轢を亜人種に置き換えて、人間の根深い確執を表現しています。一方でJ.R.R.トールキンは、『指輪物語』の舞台である中つ国を地球だと主張していましたが、それが中世ヨーロッパかどうか、今となっては誰にも分かりません(諸説あります)。そもそも中つ国は架空の世界。この偉大なファンタジー作品を、人間の歴史と直接的に結び付けて考えること自体、少し無理があるのかもしれません。

3.多様性に対するアレルギー

 近年、ポリティカル・コレクトネスをはじめ、創作物に特定の思想を押し付けようとする風潮が主に欧米諸国で蔓延しており、これに対するアレルギー反応として、黒人を積極的に起用しようとするキャスティングに反発する声が一定数あるようです。これらの声の中には、明確な悪意を持ったものも見られますが、必ずしもそうとは限りません。近年この問題は、多くの創作者に深刻な悩みを突き付けている側面もあり、私自身これらの話題に大変困惑しています。フェミニズムやLGBTなども同様で、ハリウッドからディズニー、そしてゲームに至るまで、近年の創作物の変化を象徴する現象として、重大な関心事になっています。これを具体的に要約すると、すなわち「1つの創作物の中に、女性・男性・黒人・白人・アジア人・加えてLGBTの人物を、それぞれ一定以上の割合で登場させなければならない」というもの。そういった圧力に対する拒否反応が、『力の指輪』のエルフやドワーフに、黒人が起用されたことに対する批判にも繋がっているようです。

『力の指輪』に登場するドワーフ、プリンセス・ディサ

映像化するという事は

 私自身は、白人がエルフを演じなければならないとは全く考えていません。創作は本来自由なもので、創作者がどのように表現したとしても、それは自由であるべきです。だから否定的な意見に対する、私の率直な感想を述べるなら、「そう感じる人も居るんだな」といった感じです。映画化やドラマ化、あるいはアニメ化でもよく見られることですが、自分が思い描いていたイメージと異なることは、本当によくあること。原作者は一人で何もかも出来る訳ではありません。映像化するという事は、その作品が原作者の手から一度離れるという事でもあります。もちろん原作を最大限リスペクトして欲しいという気持ちは分かります。しかし映像化された作品は、原作者が本来考えていたものと少し違う形になったとしても、それは特別なことでも何でもなく、むしろよくある普通のことでしょう。

アーシュラ・K・ル=グウィン原作の映画『ゲド戦記』

 ところで「そう感じる人も居るんだな、程度の感想なら、なんでこんな記事を書いてるんだ?」となる訳ですが、実はこれには深い理由があります。映像化は読者のみならず、原作者の思い描いていたイメージとも異なる形になることは、先ほど述べた通りです。そしてその違和感に対して、多くの人から様々な意見が出ることも、決して特別なことではありません。世界的に有名な人気作品なら、それは尚の事。にも関わらず『力の指輪』では、イメージの齟齬を表明した人に対するカウンターとして、「差別主義者」のレッテルを貼る行為が散見されたことに、私は心底驚かされました。つまり、意見を述べること自体を強く批判する言論が、非常に多く見受けられたのです。そこには、彼等が声高に叫んでいる「多様性」とは、まったく真逆の思想が隠れ潜んでいるような気がしてなりません。ここからは、私が感じたその違和感の正体を、慎重かつ論理的に紐解いていきたいと思います。

第二章 想像の多様性

登場人物の姿は読者の数だけ存在する

 小説の登場人物は、漫画やアニメと異なり、読者が頭の中で想像するのが普通です。小説の登場人物に対して、読者がどのような姿を想像したとしても、それは自由だし、自由であるべきでしょう。挿絵がある小説であったとしても、版元が変わったり、改版されて挿絵が差し替わることはよくあります。つまり同じ作品に登場する同じ人物であったとしても、読者の数だけ異なる姿のイメージが存在するのが普通であり、それが当たり前なのです。

感想を述べるのは個人の自由

 アニメのキャラクターに当てられた声優が、自分の思い描いていた声と違うというのはよくある事で、その時に「自分が思っていたイメージと違う」と述べること自体は個人の自由です。例えば私は最近、アニメ『バスタード』の主人公、ダークシュナイダーの声を聞いて違和感を覚えました。声優の谷山紀章さんは好きですが、ダークシュナイダーの声としては少し高くて軽いかな、と私は感じたのです。さて、この私の感想は差別的でしょうか? いいえ、決してそんな事ありませんよね。
 今回『力の指輪』のキャスティングが、想像していた姿と違っていたというのは、これと非常によく似た現象と言えるでしょう。もちろん中には、明確な悪意をもって批判している人も見受けられます。しかし多くの善良な人には、差別的な意図などあろうはずもなく、声を吹き込んで下さっている声優さん、または演技して下さっている俳優さんをリスペクトする気持ちがあったとしても、「想像していた声と違っていた」「想像していた姿と違っていた」という感想を発言すること自体、何ら問題ないはずです。

否定的な感想を口にすると「差別主義者」?

 それなのに今回、黒人のキャスティングに違和感を覚えた人々がそれを発言した途端、なぜか「差別主義者」のレッテルを貼られてしまうという現象が同時多発的に起こりました。『力の指輪』のキャスティングに肯定的な人々の多くは、「差別的な攻撃をした」とか「人種差別に反対する」といった言葉を並べ、今回のキャスティングに異を唱えた人を「差別主義者」だと断言したのです。今回このnoteの記事を書くキッカケになったのは、この現象に違和感を覚えたからに他なりません。まずは、ここまでの情報を簡単に整理してみましょう。

1.登場人物の姿形は読者の数だけ存在する
2.どんな姿を想像したとしてもそれは読者の自由
3.小説は挿絵が差し替わる事もよくある
4.アニメ化で想像していた声と違う事はよくある
5.「想像していた声と違う」と発言するのは自由
6.映像化で想像していた姿と違う事はよくある
7.黒人のキャスティングに対して「想像していた姿と違う」と発言するのは差別?

 賢明な方は既にお気付きの事と思います。そうです、感想を述べること自体は自由のはずです。今回の騒動で私が着目したのは、まさにここ。創作物に登場する人物を、どのような姿に想像したとしても自由であるならば、それが黒人か白人かは些末な問題に過ぎません。また、小説原作の作品がアニメ化された時、「想像と違っていた」と発言すること自体が差別だと問題視されることなど、まずありません。
 それなのに、エルフやドワーフに黒人が起用されたことに対して「想像と違っていた」と発言した瞬間、それが異様に問題視されてしまった。そこには迷惑な正義を振りかざす、捻じ曲がった正義感とも言うべき、気味の悪い何かが潜んでいるような気がしてなりません。

真の「多様性」とは?

 人によって違う。それこそが、まさに「多様性」です。映像をつくる監督も一人の人間で、あなたとは違う想像をします。(もっと言うと、原作者とも違う想像をします)監督の想像とあなたの想像が、偶然にも似ていた場合に限り、たまたまあなたのイメージ通りのキャスティングが組まれるだけのこと。監督の想像とあなたの想像が食い違った場合、起用されたキャスティングがあなたのイメージと異なるのは当たり前のことです。それはアニメ化されたキャラクターの声が、想像と違っていた時と同じような、ありふれた現象の1つに過ぎません。それなのに、黒人のキャスティングに違和感を覚えた人がそれを口にした途端、「差別主義者」のレッテルを貼られてしまう。これは本来、我々人類が目指すべき多様性とは、まったく真逆の発想ではないでしょうか。

 特定の感想を口にすること自体を強く糾弾する。すなわち、特定の意見に対して「差別主義者」のレッテルを貼ろうとする行為は、既にその時点で、人間を思考という名の属性で分類し、分断しようとする差別的な行為だと私は思います。しかし、「差別主義者」のレッテルを貼りたがる人達は、共通してその事に全く気が付いていない。相手を理解しようとする努力を怠り、己の中にある盲目的で迷惑な正義を、疑うことなく信じ込んでいるのです。これでは考え方の異なる両者が、お互いを理解し合う多様性を、真に実現することなどまず不可能でしょう。

 自分と考え方の合わない人に「差別主義者」の烙印をおすのは簡単です。しかし、その行為はあまりにも短絡的で、「本当に他人と分かり合うつもりがあるのかな?」と私は感じてしまいました。自分と考え方の合わない人と相対した時にこそ、人は本性を現すもの。本気で多様性を尊重するのなら、相手を排斥したり変えようとするのではなく、まずは「そういう人も居るんだな」と認めて受け止めること。それが何よりも大切ではないでしょうか。

第三章 創作とは自由なもの

創作は楽しむ人の為にある

 残念なことに、中には明確な悪意をもって、差別的な意図で『力の指輪』のキャスティングを批判する人も一定数居るようです。しかし他人を変えることは出来ません。重要なのは、こうした人達を今すぐに変えようと思わないことです。今はとにかく、目の前にある創作物を楽しみましょう。人は楽しそうな輪の中に、自然と集まってくるものです。彼等も最終的には、共に手を取り合う仲間であるという意識を捨ててしまったら、それは彼等と同じ土俵に立っているのと同じこと。戦う必要はありません。誇りを持って下さい。あなたが本当に多様性を尊重したいと思っているのなら、人と争う必要など無いことを、直ぐに理解できるはずです。

 原作や歴史に忠実でないと「文化盗用」だという意見もあるようですが、気にすることはありません。どうしても気になるという人は、日本の大人気コンテンツ『Fete』に登場するアーサー王(と、その他のキャラクター達)を御覧ください。

『Fete Zero』に登場するアーサー王

 あゝ、なんということでしょう! 原作や歴史を完全に無視した設定にも関わらず、多くのファンに受け入れられているではありませんか! これを「文化盗用」だと騒ぐ人を、少なくとも私の周りでは見たことがありません。結局のところ創作は、著作権など最低限のルールを守っている限り、原作者の意図や史実に関係なく「楽しんだ者勝ち」的な要素を多分に含んでいるのです。それを外から批判するのは野暮というもの。批判したり、批判を更に批判で返すマウントの取り合いは、正直言って不毛で見苦しいだけだと私は思います。

私が追究するファンタジーの普遍性と多様性

 私はファンタジー小説を書くに当たって、常に意識していることがあります。それは時代に左右されない、長く読み継がれていく普遍的な物語を追究すること。しかし一方で、万人に受け入れられる創作物など、この世に存在しないこともよく理解しています。どんなに権威ある創作物であったとしても、皆が皆、好意的に捉えることなど有り得ません。創作物とは本来そういったもの。私はそれを理解した上で尚、普遍的なファンタジー小説を書きたいと考えています。

 私の元にも日々、私の作品に対する様々な感想が届いていますが、肯定的な感想だけでなく、否定的な感想を頂くこともよくあります。もちろん否定的な感想は、決して気持ちのいいものではありませんが、でも同じ作品でも人によって違う感想を抱くのは当然で、それらの批判を自由に述べることが出来るのは、今の世の中が健全な証拠であるとも言えるでしょう。
 これは『力の指輪』のキャスティングについても同様で、肯定的に捉える人が居れば、否定的に捉える人も居て当たり前。しかし何故か、黒人の起用に否定的な声を上げるのは絶対に許さないとする人達が、どうやら一定数居るようです。しかも彼等は自分の正義を疑っていない。それは人の想像力を固定化し、思考を停止させようとする、危険な思想に他なりません。画一的な考え方しか受け入れようとしないそれは、「多様性」とは真逆の発想です。
 人は無限の想像力を持っていて、物語はまさに、人の想像力の結晶といえるでしょう。人の想像を制限することは誰にも出来ません。私は他人の想像を規制しようとする考え方に同意できません。私は物語が好きだからこそ、創作物の未来を憂いているのです。

創作はもっと自由なもの

 エルフに黒人を起用すること自体は、何も問題ないと思います。創作者は自分のインスピレーションに則って、どんなキャスティングをしても良いし、どんな物語を書いても良い。それに対して視聴者は、どんな感想を抱いても良いし、その感想を表明しても良い。悪戯に人を侮辱した内容でない限り、創作とは本来、そういった互いの自由な想像力の上に成り立っているものです。1つの創作物を、必ず肯定的に捉えなければならない事など有り得ません。「好き」と思うことも自由だし、「嫌い」と思ってそれを表明することも自由です。意見が合わない人と討論しても良いし、腹を立てても良い。人の数だけ想像力があり、人の数だけ異なる感想がある。それが、創作の世界です。

今後ダークエルフは難しくなる?

 さて、今後のファンタジー作品において、エルフのキャスティングに黒人が起用されるのがスタンダードになっていくのだとすれば、私は今後、自分が書くファンタジー小説に、ダークエルフを登場させることが難しくなるな、と感じました。そしてそのことを去年の9月ツィートしたところ、フォロワーさんから「エルフのキャスティングに黒人が起用される事と、ダークエルフは関係ないはずで、なぜ今後、ダークエルフを登場させることが難しくなるのか分からない」とメッセージを頂きました。そのフォロワーさんは読者側の立場から、私のツィートに疑問を感じたのでしょう。
 私は彼のメッセージを読んで、なるほど、と思いました。私はあくまで、物語を書く側の立場で考えていたので、その事をフォロワーさんにお伝えしました。以下、その返信の内容です。

「率直なご意見をお聞かせいただき、ありがとうございます。たいへん参考になりました。 あなたがこの件を、「ダークエルフは関係ない」と感じるのは、とても自然なことだと思います。 しかし創作者としては、これをダークエルフと無関係だと考えるのは、難しいなと感じました。 例えば『力の指輪』に登場するアロンディルのように、今後ファンタジーの世界観において「黒人のエルフも居るのが普通」になったとしたら、これからは「黒い肌のエルフ」という記号を持ったダークエルフは、登場させ難くなるでしょう。しかし私は、エルフのキャスティングに黒人を起用することに反対している訳ではありません。 ただ今回の件を受けて、単純に創作者の立場としては、やはりダークエルフは出し難くなったなと感じているだけです。 ご存知の通り、ダークエルフはネガティブなイメージとセットな部分も多大にあるかもしれません。私も『ダークエルフ物語』に登場するダークエルフ、ドリッズトが大好きですが、彼も「ダークエルフなのに正義の心を持っている」という、特殊な存在でした。 とは言え、最終的には「自分の好きな作品を書くだけ」に落ち着くことになるでしょう。 率直なご意見を聞かせて下さって、本当にありがとうございました」

 色が黒いとか白いとかは関係ありません。私は純粋に、この時代まで脈々と語り継がれてきたファンタジーの世界観が大好きなだけであって、そこにはキャラクターの属性が悪だとか、善だとかも、全く意味を成さないのです。
 たとえばドラゴン。神のようなゴールドドラゴンも大好きですが、悪に加担するブラックドラゴンも、私は本当に魅力的で格好良いと思っています。黒いから、悪だから、ネガティブなイメージがあるから、というのは、些末な問題に過ぎません。視野を広げて下さい。傲慢にならないで下さい。差別という小さな枠の中に物事を当てはめようとしないで下さい。そして自分の考えが、もしかしたら間違っているかもしれないという余地を、心のどこかに残して下さい。固定観念から解放され、真にフラットな視点に立った時、創作の世界はこんなにも自由に広がっているのです。

『北斗の拳』に登場するラオウ

 そうですね、私のダークエルフへの愛を分かりやすく表現するなら、『北斗の拳』のラオウを想像してみて下さい。彼は弱者を力で虐げようとする敵役ですが、今なお多くの読者に愛され続けている人気キャラクターでもあります。私はそれと同じように、敵役でネガティブなイメージを持ったダークエルフが大好きです。しかし今後、「エルフの中に黒人も居る」のがスタンダードになっていくのだとしたら、私は自分の作品の中に(似た記号を持った)ダークエルフという種族を、登場させることが難しくなっていくでしょう。それは時代の流れとして、受け入れざるをえないのかな、と今は考えていますが、純粋にファンタジーのファンとして、少し残念な気持ちもあります。ファンタジーの世界における普遍性とは、決して動かない価値観ではなく、意外と柔軟に変化していくものなのかもしれません。それでも私は、ファンタジーの世界における物語の普遍性を、常に追究していきたいと考えています。

私の世界を創造するのは私です。外からクレームを付けてくる他の誰かが、私の世界の創造主になることはありません。

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