いつも見てるよ
どこかで鳥が鳴いている。
薄明るくてあたたかい場所。
その中で私はそっと目を覚ます。
あれは何の鳥だろう。
名前を知ってたはずなのに、
思い出すことができない。
目覚めた後も意識はなんだかぼんやりとしている。
ここはまだ夢の中なんだろうか？
それさえも分からない。
いったいどうしてしまったの？
考えてみるけれど、ぼんやりとしていてなんにも浮かんではこない。
悲しいな…。
悲しいな…。
手元の薄いノートの中に書き散らかしたばらばらの数字やいくつもの言葉たち。
いろいろなことを整頓してきちんと覚えておこうとしてここに書き込んではみたけれど見返すこともできなくて、書きこんできたことを振り返り思い出すこともない。
意味のないことの繰り返しを続けているだけ。
悲しいけれど仕方ない。
どうすることもできないのだもの。
あの子が泣いていた。
私のことを助けたいって。
ありがとう。
だけどだめだよ。
あなたまで溺れてしまったら私は一体どうなってしまうの？
あなたが元気でいてくれないと私、困ってしまう。
生きていくことができなくなってしまう。
あなただけが頼りなのよ。
だからどうかしっかり立って自分の足で歩けるように、それだけは諦めないでいて欲しい。
鳥たちの声は続いている。
一羽だけではなくて、二羽や三羽でもなくて、数え切れないほど沢山の鳥たちが群れを成し、囀り合っていることで遠くまでその声が響いて聴こえてきてるからどこまでも終わらない。
その鳥たちが鳴き声でどんなことを伝えあっているのか、知りたいけれどわからない。
鳥の心は人間とどれくらい違うのだろう？
その声を聴きながら私はも一度眠りについた。
鳥たちに勇気をもらって一人の世界に戻っていく。
一人きりのさみしい世界に。
よく眠っているなぁ。
一日の大半を眠って過ごすようになってしまった母に私はそっと毛布を掛ける。
柔らかい薄手のそれは軽くて洗濯もしやすい。
何枚かそろえているのだけれど、どれも色はピンク。
母がそれを望んでいるのが聞かなくてもわかるから。
ほかの色だと機嫌が悪い。
ふてくされた顔になってしまう。
思っていることが全部正直に表情やしぐさに表れているのに本人はとりつくろえているつもりでいる。
子供に戻ってしまうってこういうことなんだろうか。
そういう母と暮らしていると時々とても苦しくなってひとりの時に泣いてしまう。
他人のことならきっぱりと割り切ったり聞き流してしまったりすることができるのに、自分の母親のこととなると受け流すことができなくてとても苦しくてつらい。
母と暮らしていることでこんなに自分が苦しむなんて考えもしなかった。
母は壊れてしまったのではなく弱ってしまったのでもなくて、何か大切なものが外れてしまっただけなのだ。
大事なものが外れてしまって裸の心がむき出しの哀しい母をそっと優しく見えない毛布でくるんで運ぶ。
そのままの姿では他の人には見せられない。
つらいのだ。
恥ずかしいのではなくて心が痛くて悲しくなってしまう。
昔のように大人の母でいてほしい。
そういう気持ちが溢れだし悲しくなって泣いてしまう。
けれどもう元の通りの大人の母に戻ってくれることはない。
この道は引き返せない道なのだ。
母はそれを前向きにどうにかしようはいるけど、その姿すら痛々しくて近くで見ているのがつらい。
この頃は母の前でも時々つい泣いてしまう私を見て「泣かないで」と言いながら、母はガーゼのハンカチでそっと涙をぬぐってくれる。
心も体も小さくなって子供に戻ってしまった母はガーゼのハンカチみたいに優しくて柔らかい。
そして真っ直ぐで一生懸命。
けれどもう、普通に歩くこともできない。
よろよろと立ち上がり、ゆっくりゆっくり歩いている。
そして小さな優しい声で少女のようにそうっと話す。
そういう母を見ているとどうしてもつらくなり、涙が溢れてしまうのだ。
また夢の世界にやってきているようだ。
温かい日差しを感じる。
遠くで鳥が鳴いてる。
甘い甘い花の香り。
柔らかい風が吹いている。
ここはどこ？
遠くの方にうっすらと人影が見える。
誰だろう？
気づいたら眠り込んでしまっていた。
大きなあくびが出てしまう。
眠り続けている母の隣で少しだけうたた寝をしてしまった。
暖かい昼下がり。
母がお誕生日のお祝いにデイサービスセンターでもらってきた花束の中の百合の蕾が、目覚めたら開いていた。
甘くて優しい百合の香りが部屋中に満ちている。
花を生けたガラスの花瓶は生前父が大切にしていたもので、一昨日片づけ物をしていた時に戸棚の奥に見つけたものだ。
母がもらってきた花束に丁度いい大きさだったので丁寧に洗ってピカピカにして使ってみた。
陽の光を浴びて艶々と美しく輝いている。
たっぷりと水を注いでセロファンとリボンを外した何本もの花を水切りして丁寧にガラスの花瓶に綺麗に生けると、美しい花たちとガラスの花瓶の両方がお互いを引き立てあって内側から光を放っているように見えた。
ぼんやりと見とれていると時間を忘れてしまいそうになる。
体の力が抜けていく。
疲れていた。
身体も疲れていたけれど、心の方が疲れていた。
美しい百合と透明なガラスの花瓶は疲れた心を癒してくれる。
カラカラに乾いてしまった心の中に新鮮で冷たい水をこぷこぷとたっぷり注ぎ込んでくれて潤してくれる。
開いたばかりの百合の花は甘い香りを漂わせて疲れた心に勇気をくれた。
勇気。
勇気なのかもしれない。
今の私に必要なのは。
こうして母を見守り続けていくことから逃げてしまわないための。
負け続けて行く自分自身から逃げてしまわないための。
負け続けているのだ。
勝つことなんてもうない。
ただ負けていくだけなのだ。
母はもう元の母には戻らない。
母はもう昔のようには動けない。
過ぎていく時間と共に母から剥がれ落ちていってしまうものたちを諦めて、見送り続けるしかないことを受け入れていくほかはない。
それは私を絶望させて諦念させて今を彩る。
あの子がまた泣いている。
どうしてあげたらいいんだろうか？
かわいそうに、ごめんね。
なんとかしてあげたいけれど私ではどうしてあげることもできない。
ごめんね。
あなたをそんなに苦しめるつもりなんてなかった。
苦しめたくなんてなかった。
ごめんなさい。
それでもあなたは私のことを投げ出さないでいてくれる。
本当にありがとう。
この気持ちほんとだよ。
だからそんなに苦しまないで。
泣いてるうちに眠ってた。
慢性的に疲れてる。
仕方がないのだけれど。
昨夜父が夢に出てきた。
若い頃の明るくて元気な姿の父だった。
笑顔だった。
輝いていた。
目が覚めた時、私はなぜだか泣いていた。
涙があふれて止まらなかった。
夢の中で私は父から何か大切なことを聞いたような気がする。
夢の中の父は確かに何か大事なことを伝えてくれたはずなのに泣き止んだ時私は何も思い出すことができなかった。
そのことが今でもとても気になっている。
夢の中で父は私を優しく抱きしめてくれた。
温かい大きな手で私の頭をなでてくれた。
その夢の中で私は小さな子供に戻っていた。
夢のなかの幼い私は父に甘えて安心して泣いていた。
日頃のつらい気持ちを父はしっかりと受け止めてくれて励ましてくれた。
嬉しかった。
母と二人の生活は本当に心細い。
そうしてとても不安だ。
平気な顔はしているけれど本当は苦しい。
父の存在がこんなに大きなものだったということにあらためて気がついて驚いている。父が亡くなって母と二人の生活になってからもうかなりの時間が経っている。
母に介護が必要になってから父のことを思い出すことはほとんどないまま過ごしてきた。
余裕がなかった。
毎日の生活で目一杯だった。
ものすごく疲れてて目の前のこと以外考えている余裕はなかった。
そのことは私の心を疲れさせてもいたけれど、逆に救ってくれてもいた。
余計なことを考えないで済んでいるのは疲れ果てているお陰だとも言えた。
次の日、母をデイサービスに送り出してからもう一度布団の中に潜り込んでぐっすりと眠った。
その日デイサービスから戻ってきた母は、私の顔を見るなり「目の下の隈がなくなったから安心した」と言った。
毎日一度は鏡を見ていたはずなのにそんなものが自分の顔に貼り付いていたなんて全然気づけていなかった。
いつも元気な振りをして明るく笑っていたのに。
子供に戻ったように見えても母はやっぱり母親だった。
私は母に子どもの時と同じように今でも心配されていた。
疲れ果てた顔をしていたあの子が、やっと少し元気な顔になってくれて本当にほっとした。
不意に倒れてしまうんじゃないかと思ってものすごく心配していたの。
だけどもう大丈夫。
よかった。
しっかりとよく眠ってくれたのね。
ほっぺたに赤味がさして表情が優しくなっている。
たまにはちょっと怠けなさい。
それでないと続かないよ長い道のりなんだから。
「長い道のり」って重たい言葉だ。
本当に。
こんなこといつまで続いていくんだろう？
半分寝ぼけてぼんやりとした頭の中で考える。
長時間眠って体が軽くなっている。
耳鳴りも消えている。
息が深くなった。
眠るって、大切。
本当にそう思う。
母の言った「長い道のり」という言葉を深く考えすぎることが怖くて、夢に出てきた父のことを思い出して気をそらしている。
その時父が何を伝えようとしていたのかを思い出そうとしたけれど、なんにも浮かんでこなかった。
百合の花の香りがしている。
もう少ししたら花は散ってしまうだろう。
いくら丁寧に水切りを繰り返してきちんと水を変えたとしても切り花の寿命は長くはないと決まっている。
今まで何度も枯れた花に、散った花に、「ありがとうお疲れ様」って言いながら片づけてお別れをしてきた。
申し訳ないような気持ちを優しい言葉でごまかしながら。
それでもまたお店で買ってきたり誰かにプレゼントされたりして家にやってきた新しい花を花瓶に生けて飾っている。
花はその美しい姿と香りで私と母を癒してくれる。
今飾っている百合の花も命のあるだけきれいに咲いて私たちに元気をくれている。だからその花たちが少しでも長く健やかに咲き続けることができるように毎朝水を入れ替えて茎の先端を少しずつ切る。
透明なガラスの花瓶に花を生けると一目で茎の長さがわかる。
日に日に短くなっていく茎は花の終わりを予感させる。
どんなことにも終わりがある。
その現実を受け入れるのは少しだけ難しい。
痛みを伴うことだから。
それでもやはり逃げられないし避けて通れるものでもないのだ。
ゆうべ夢の中であの人に会った。
何年ぶりだろう。
随分と若い姿だった。
私は年老いた自分をあの人に見られてしまうのが恥ずかしくて、そっと隠れようとしたけれど隠れる場所がどこにもなくてどうすることもできなかった。
あの人は笑顔を浮かべてまっすぐ私の方に向って歩いてきた。
ドキドキしてしまった。
そうしたらとても不思議なことが起きた。
気づいたら私は夢の中のあの人と同じくらいの年頃の自分に戻っていた。
結婚する前の若くて何物でもないまっさらな自分に。
夢ってすごいと思った。
もう何年も普通に歩けていなかったのに、いつの間にか私は自転車に乗ってあの人を追いかけていた。
先を行くあの人に大きな声で聞いてみる。
「私たちどこに向かっているのーー？」
あの人はなんにも答えてくれない。
黙って先をいくだけだ。
息が切れるけどそんなこと平気だった。
こんなふうに思い切り自分で動ける日が来るなんて冗談でもなんでもなく、夢にも思っていなかったから。
思いきり動けるってなんて気持ちがいいんだろう？
あの人はどこに向かっているんだろう？
自転車を漕いで追いかけながら考える。
知らない道の若葉の中を私は汗をかきながらあの人の背中をを追いかけた。と、急に広い場所に出た。
ここはどこ？
あの人が自転車を止めたから私も急いでブレーキをかけた。
明るい。
気持ちのいい風が吹いているから汗はすぐにさらりと乾いて全く気にならなくなった。
丘の上だった。
美しい街並みがはる彼方の下の方にどこまでも広がっている。
小さな小さな車がきらきらと日光を反射させながら細い細い道を走っていく様子が見えた。
あの人が振り向いた。
そこで夢は終わった。
そして…
ぼんやりとした意識の中で私はあの子を探している。
ワタシノムスメハドコニイルノ？
ココハドコナノ？
トテモココロボソイ。
コワイヨ。
声が出ない。
何も見えない。
ただ意識だけははっきりとしていた。
どうしてなんだろう？
あの人が見ている。
姿は見えないのに存在を感じる。
あの人がいる。
そして見ている。
私は怖くなくなった。
一人ではないんだ。
あの人がいるんだ。
その事実は私に大きな勇気をくれた。
震えるような心細さはすぐに消えていった。
あの人だけではなくて沢山の懐かしい人たちが私を迎えに来てくれている。
みんなが私に伝えてくれる。
一人じゃないから大丈夫。
私たちがいるんだから。
みんなあなたを見てるから。
そうなんだ、ありがとう。
私はそちら側に行くのね。
そこは真っ暗な一人ぼっちの世界じゃなくて明るいきれいな場所なのね。
怖がらなくてもいいんだね。
『そうだよ』ってまわり中のみんなが静かに伝えてくれたから私は怖くなくなった。
一人じゃない。
みんながいる。
大丈夫。
私はもう一人じゃないんだ。
ありがとう。
一緒に行くね。
ありがとう。
母は向こう側に行ってしまった。
あっけなく私に何も言わないまま静かに息を引き取った。
母がいなくなってしまった後のガランとしている部屋の中には本物の空っぽの気配が漂っていて、叫び出したくなるような、このまま消えてしまいたくなるような、悲しみとは違う、苦しみとも違う、苦い思いが満ち満ちていた。
本当にひとりぼっちになっちゃった。
うつむいた私に
声をかけてくれる人はいない。
涙すらこぼれてなんてくれなかった。
ぼんやりとそのまま座っているうちに時は流れて夕焼けが真っ赤に空を染めていた。
お腹空いた…。
無言の時間が続いた後で我に返って顔を上げた。
「何もしなくてもすぐに食べられるものが何かないか？」と考えて、冷蔵庫の扉を開けて探してみた。
三段ある棚の真ん中に、母に食べさせてあげようと思って買っておいたプリンが一つだけあった。
私はそれをお皿に出して、大切にしているとっておきのスプーンで少しずつ丁寧に食べた。
プリンは私に優しかった。
甘くて柔らかくてとろりとしていた。
そしたら急に涙がこぼれた。
さっきまでただぼんやりとしてることしかできなかったのに…。
プリンの甘さと優しさが私を泣かせてしまうのだ。
「プリンの馬鹿…」
私は泣いた。
プリンには罪はない。
だけど私は泣いている。
涙があふれて止まらない。
母が生きていた時にも私は時々泣いていた。
疲れていた。
そしてそれだけではなくて母がいたのに孤独だった。
どんどん弱っていく母を抱え込むようにして何とか生きてはきたけれど、その間他の誰とも分かち合えないつらい気持ちを持て余してずっと苦しみ続けてた。
さみしくて不安だった。
今はほんとに母はいない。
空虚な気持ちを持て余したままぼんやりとしているしかなくて、途方に暮れてしまっている。
涙が止まってしまってもプリンの甘さは消えないでほのかにそっと残っている。
優しく甘い香りと共に。
母が向こう側に行ってしまってからもう何年経つだろう？
あれから私は結婚して二人の子供に恵まれた。
子供たちは元気で無邪気で毎日がバタバタと勢いよく過ぎていく。
一日が終わるとほっとして、次の日も、また次の日も、おんなじことの繰り返し。
それでも自分をしあわせだと思えているのは、毎日成長していく子供たちと一緒にいるからなのかもしれない。
小さな変化も喜びで、小さな笑い、涙でさえもきらきらとして見えた。
そういう小さな喜びが悲しみを隠してくれて痛みもそっと癒してくれる。
『お母さん』って見上げられるたびに、責任と喜びの両方の気持ちが湧き上がってきて、普通ではできないこともがんばれる、そんな気持ちになれるのだった。
いろんなことがあるけれど、いちいち細かく振り返ってなんていられない。今日の次には明日が来るし明日の次には明後日が来る。
しなくてはならないことを追いかけたり追いかけられたりしているうちに、時間はどんどん過ぎていく。
時の流れに浮かんだ船に私はやっと乗れたのだ。
それが仕事の人もいるのだろうし、ほかの何かの人もいて私の場合はこの形。
人それぞれなのだと思う。
同じになることなんてできない。
みんなそれぞれ別々のその人だけの道がある。
だからこそ、その人がその人として生きていることに意味があるような気がする。
たとえ形が違ってもみんなが幸せな気持ちでいてくれたらいいなと思う。
人の心も生活も見えないところでつながっている。
自分だけでもあの人だけでもない。
全部の人がみんなどこかでつながっていて助け合ったり温めあったりしてるから、みんなが幸せだったらきっとどうしようもない悲しいことはなくなっていくような気がする。
時の流れを行く船を揺らす波も風も全部誰かの痛みが作っているのだとしたら、たくさんの人達の中から悲しみや苦しさが消えていけば優しい心の人が増えて暮らしやすい世界がつくられて行くような気がする。
そういう優しい人たちの中で私は暮らしていきたいし、子供達にもそうして欲しい。
強い風や嵐に無理やり耐えたりしなくても幸せに生きていける世界で、
穏やかに暮らしたい。
弱くても少しみんなと違っていても誰も苦しまない世界。
それを実現するためにたくさんの人たちが今までずっと頑張ってきたのに、いつまでたってもそうならない。
神様はきっとあきれてる。
そんなことを時々、ぼんやりと考える。
ふと見ると、子供たちがベランダでシャボン玉遊びをしていた。
よく晴れた空にたくさんのシャボン玉が飛んでいく。
私はこの美しい光景を、いつまでもずっと覚えているだろう。
何年たっても忘れずにきっと覚えているだろう。
そんな風に思った。
長い休みの途中、子供達が主人に連れられて主人の実家に出かけた日、久しぶりに家に一人。
洗濯物と掃除と洗い物を片付けてしまったら次に何をしたらいいのかわからなくなってしまった。
なんだかとても疲れていたのでリビングのソファに腰を下ろして静かに目を閉じてみる。
不思議な形の幾何学模様がぐるぐると動きながら瞼の裏にあふれ出してきて
いつまでたっても止まらない。
蝉の声？
耳鳴りなのかもしれない。
ここ何日か慌ただしくてちゃんと眠れていなかった。
そして私はいつの間にか深い眠りに落ちていた。
不思議な、不思議な夢だった。
明るくて柔らかい空気がその場所には満ちていた。
ここはどこ？
よくわからないけれど、たくさんの人がいて話したり笑ったりしている。
甘い花の香りと遠くで聞こえる小鳥のさえずり。
なぜだかわからないけれど私は子供に戻っていて、肩にかかる長い髪を
真ん中で二つに分けて結んでいた。
知らない国の民族衣装のようなダブダブのワンピース。
ふかふかとしたブーツを履いて手には小さな花束を持っていた。
するとたくさんいた人達が右と左に大きく分かれて私の前にまっすぐな一本の道が現れた。
私はその道をまっすぐに進んでいった。
たどり着いた先にいたのは若くて元気な両親だった。
私はおずおずと二人に花束を手渡した。
「ありがとう」
二人は同時にそう言って花束を受け取った。
「今日はなんのお祭りなの？」
たくさんの人たちが一つの場所に集まっていることが不思議で子供の私がそう聞くと二人は笑顔でこう言った。
「今夜星祭りがあるの」
「星まつり？」
「たくさんの人たちが、星になって空の上に飛んでいくの。私たちも今夜、みんなと一緒に星になるのよ」
母は穏やかな顔をして静かな声でそう言った。
「星になってしまうの？」
私は急に悲しくなって泣きだしそうになった。
「泣かないで、大丈夫だから。消えていなくなってしまうわけじゃないのよ。ただ、お空の上にのぼるだけなの」
「でも、もうこうして夢の中でも会えなくなっちゃうよ」
「・・・」
日頃意識できる記憶の中には残っていなかったのだけれど眠っている間に私は時々ここにきて両親に会っていたみたいだった。
二人は悲しそうな顔をしてしばらくの間うつむいてその後でこう言った。
「もうこうしては会えなくなってしまうけど、私たち空からいつもあなたのことを見てるから。どんな時も昼も夜も必ずいつでもちゃんと見てるから、あなたは一人じゃないんだから心配しなくていいんだよ」
「でも、もう顔も見られない。会ってお話もできない」
「・・・」
二人は無言でうつむいて目を閉じた。
どんな人もこちら側に来た後に星になってしまうことを夢の中の子供の私は知っていた。
もう少し大きくなって大人になって自分だけの力でで生きていけるようになるまで待っていて欲しかった。
だけどもう決まってしまったことなんだね。
「どんな時もいつでも見てるよ」
「・・・」
私は泣き出した。
しばらくの間涙は止まらなくてなんにも言えなかったけど小さな声で最後に言えた。
「ありがとう。見ていてね」って。
その不思議な夢から覚めた後も私は夢の中の全部のことをありありと覚えていた。
疲れはかなり取れていたけど夢の記憶が強く残っていたせいで私はソファからなかなか立ち上がることができなくてぼんやりと過ごしてしまった。
今夜家族は戻ってこない。
夜の間も一人きりだ。
まだそんなに遅い時間じゃなかったけれど部屋の中はもう薄暗くなっていた。
しばらくしてやっとソファから立ち上がった私は窓に掛かった白いレースのカーテンを開けて透明な窓ガラス越しに夕暮れの空を見上げてみた。
星はまだ見えなかった。
・・・・・・・
ありがとうございます。 嬉しいです。 みなさまにもいいことがたくさんたくさんありますように。