『坂道と転び方』 《書き下ろし》「呪われた私と、私が呪った理学療法士」 (0/4章) /小説 【#創作大賞2024】 《完結》
《書き下ろし》「呪われた私と、私が呪った理学療法士」
朝焼けが終わったというのに遮光カーテンで締め切られた、私の部屋は暗いままだ。
カーテンの外には急勾配の坂道があり、中腹に私の家があるものだから油断すると朝日が部屋に差し込んでしまう。車椅子で下るには勾配が急すぎて難しく、今の私が歩いて下るなんてもってのほかだ。
家の前にあるただの坂道は、私にとっては忌々しい、暗がりへと閉じ込める呪いの坂道である。
部屋の明かりはパソコンのディスプレイだけで、映し出されるフィルム状の動画を、切り取っては貼り付けて、言葉を添えて動画を作る。
昔、私が働いていて、もう二度と訪れることはない美容室のPR動画であった。
「いつでも戻ってきていいよ。障害なんかに負けないでね」
店長からの依頼の最後に、私を励ます言葉が添えられていた。
ありがたいと思った。ただ私の胸裏へと深く打ち込まれた赤茶けた錆色の釘から痛みが広がり、動画のチェックを終えると耐えられなくなって座ったまま胸を抱いた。
無造作に投げ出された左足を見る。足首から先は尖って固まり、動くことも動かされることもやめている。
尖足という状態らしい。そして腓骨神経麻痺という事故の後遺症で、私の足首から先は私がどんなに望んでも金輪際動くことはないという。
「まずは正しく立ち上がりましょう。そして正常に近い歩き方で、元の生活に戻れるように頑張りましょう」
入院中、私を担当する理学療法士から伝えられた言葉だ。入院しているときは良かった。肌色のどこか無骨な装具をつけて歩いているうちは、足を踏み出すたびに、私はもとの自分らしい生き方を取り戻せると信じていた。
そういえば彼は理学療法士になったと祖母は言っていたな。画面を閉じてディスプレイの明かりを落とす。部屋は色々暗くなり、いつもなら響く祖母の声はもう聞こえない。
昨夜、私に夜食をつくるため冷蔵庫を開いた後で、盛大に転倒した。
腰を強く打ち立ち上がれない祖母。両親のいない私にとって唯一の肉親である彼女は痛みに顔を歪めながら、それでも私に必死に笑みを向けていた。
「大丈夫だから。ごめんね。本当にごめん」
なぜ私が謝られる必要があるのだろうか。取り乱し自分の無力感に打ちひしがれながら、祖母の言葉でいよいよトドメを刺されたのだ。
正常からの逸脱は私は私に呪いをかけた。正しく正常でなければ普通に生きることはできないという。呪いを。
歩けているうちなら良かった。歩こうとする意思があるうちならば、呪いの言葉は私に希望を与えていたのだから。しかしその正しい歩行から転倒し、立ち上がる意志すら挫かれた後では、正常の生活は送ることは許されないと考えるようになった。
だからこそ正しいや、正常と言った言葉が、私にとっては呪いの言葉である。
障がい者や、介助者といった言葉と同じで、呪われた坂道と一緒に私を暗い場所に閉じ込めていた。
普通からかけ離れた、無惨な私の歩き方・・・理学療法士は歩容といった私の立ち振る舞いでは、正常から逸脱した場所から外に出ることはできない。
熱心に、私のリハビリを担当してくれた療法士にも、申しわけない。
私は私自身のせいでダメになってしまったから。綺麗な歩き方をすることも、立ち上がり、求めることもできなくなってしまった。
せっかく作ってもらった装具も足には入らない。私を支えてくれた医療従事者すべてに頭を下げても、きっと許してくれないのだろうな。と考え首を横に振り、どうしようもないと考えを追い出し、思考を止める。
彼なら私をこんな暗い部屋から助け出してくれるのだろうか。私といっしょに幼い頃から育ってきた藤森 誠也なら、理学療法士になってしまった彼は、昔と変わらずに私へ接してくれるだろうか。
こんな私になってしまったとしても、彼は私に触れてくれるだろうか。
部屋に仰向けとなり天井を仰いだ。左足をかかげて眺める。私の体重を満足に支えられず棒のように硬くなった足は、枯れ木程度の太さしかない。
足を引きずり、とても人に見せられない歩き方をしている。また出会えたとしても、決して今の誠也には見せたくはない。
もう十年近く会っていないな。と時の流れは決して思い出を消してくれないことに、それどころか時が経つたびに残酷にも色を鮮やかにすることを知った。
好きだったんだけどな。
最後に誠也と話した夕暮れの美術室は、思い出よりもずっと色濃く脳裏に焼き付いている。
私は誠也の描く絵が好きだった。どこにでもありふれていた作品。だけど私が喜ぶから、ずっと私のために描き続けられた作品は、私にとって重大な意味を持っていた。
彼と私の心を繋いでいた。特別なきっかけがなくとも、ありふれた日々で私は彼に惹かれていったのだ。
言えなかったな。素直じゃなかったんだ。私は額に手を当てる。
彼も私のことを好きだと思っていた。だからこそ私が高校三年の時、クラスメートから私が告白された時に、彼に聞いた。
引き止められたかったのに、彼は私の望む言葉を言ってくれなかった。
今では気持ちもわかる。必要な言葉が思い浮かばなかったんだろう。私といっしょで幼さから脱しきれない関係性が、変わることを恐れたのだ。
そして私はまだ恐れている。前よりもずっと彼と再び出会うことを恐れている。
「岬。おばあちゃんもリハビリを頑張るから、岬もリハビリを頑張ってみて。誠也ちゃんに頼んでおいたから。立派な理学療法士だよ。おばあちゃんの遺言だと思ってね」
病院へと運ばれる直前、唐突に祖母が口に出した言葉に、私は固まる。足首の硬さが全身へと広がった。
私が言い返す間もなく、祖母は救急車で運ばれていった。なんともしたたかな老人である。
でも、もし祖母が死んでしまったら? 命には別状がない怪我だと聞いたけど、もし・・・命が失われてしまったら?
わずかばかりの動画編集によるギャランティと、祖母の年金でいつかは破綻する生活に身を置く私はどこに行くのだろうか。
きっと死んでしまうのだろう。
こんな正常からは逸脱した部屋の中で、ひとりで死んでしまうのだ。
もう立ち上がれずに、半分死んでいるような生活ではあるのだけど
もし誠也が現れたら?彼も同じことを言うのだろうか?
いや、決して言わない。言わないのだろうけど、彼はここにいてはいけない。
私のような暗い部屋で生きていてはいけない。
そういえば彼も今は無職だと祖母は話していた。
臨床でまた考えすぎてしまったのだろう。世間一般の普通な人ならば気がつかずに通り過ぎてしまう小石に、つまずいて動けなくなってしまったのだろう。
他愛もない日常でも、優しい誠也は自分のせいだと自惚れた勘違いをしてしまうかもしれない。
そんな状態で私と出会ってしまうと今度は私にとらわれる。呪われてしまう。
だからこそ嫌われなければならない。誠也の記憶にまだ存在する私とは、かけ離れた姿を見せて、嫌われなければならない。
ありのままの私を見せようと思った。着飾ることなく、くしゃくしゃのTシャツとボサボサの頭で、メイクもしない疲れ切った私で出会おう。
きっと嫌ってくれるから。ダメになった私を見て、誠也は普通の日常に戻ってくれるから。
本当にダメになってしまったな。と乾いた唇が噛む。
私なんかより、手足が不自由で生きるか死ぬかの瀬戸際で戦う、私と同じ望まなくとも世間から障がい者という名で呼ばれるようになった人が、頑張って強く生きていることは知っている。
強い人たちと比べたら、私は左の足首から先が動かなくなっただけだ。
それだけなのに、私は立ち上がることができない。愚かで情けなく、普通ではない。
誠也は私の思いを知って、慰めてくれるだろうか。かわいそうだと私に言うだろうか。
左足を無機質な杖のように使って歩く私を見て、理学療法士が望むだろう正常な歩行から逸脱した私を見て、きっと優しい言葉をかけてくれるのだろう。
優しい言葉で私を包んでくれるから、私の正しくはない歩き方は絶対に見せることはできない。見せたくはない。
祖母から彼の母へと連絡がいっているだろうから、程なくして彼は現れるのだろう。
私を閉じ込める忌々しい呪いの坂道を駆け上がって会いに来てくれる。
ただそれが最後だ。最後であることを私は望む。・・・だけど。
期待に鼓動を速める胸をぎゅっと抑える。息が苦しくなった。
私が思考と気持ちの間で揺れ動く私へ、トドメを刺す前に、玄関の開かれる音がした。
「岬! 大丈夫か!」
誠也だ。誠也の声がする。男にしては高く透き通る声色。記憶のままにある声色と変わりがない。誠也の息が乱れている。きっと私を部屋に閉じ込める急な坂道を駆け登ってきてくれたのだろう。
嬉しかった。
鼓動が抑え込んだ私の気持ちへとヒビをいれる。声が出ない。呼吸が荒い。
「岬!」
もう一度、私を呼ぶ声がした。すがりつき、何もかもをぶちまけたくなる。心が乱れて言葉がうまく出ない。必死に身を起こしてパソコンのディスプレイに光を灯す。
大きく息を吸った。できるだけ平静に、心の奥底を悟られないように息を吐く。
「聞こえているよ。入ってくれ。私の部屋がどこにあるかはわかるでしょう?」
細くなった声はうまく彼に届いているだろうか。泣き出そうと熱くなる目尻を抑える。彼に頼ってはいけない。
でも・・・誠也の声をもっと聞きたい。
ただ・・・嫌われなければならない。ありのままの私を見て、ちゃんと誠也は私を嫌ってくれる。
わざと見えるように固くなった足先を出す。
部屋の扉が開かれた。誠也が立っている。私の記憶にいる誠也の姿のままで立ち尽くしていた。
「まったく身支度する時間すらくれないなんて。君はせっかちだね」
誠也は呆然と私を見つめていた。それもそうだろう。きっと彼の記憶の中にいる私とは違う。すっかりと身も心も、ダメになっているのだから。
「礼子さん。倒れたって聞いたよ。岬を頼むって。一緒に病院に行こう」
十年ほどの時間が溶けていく。昔のままで彼は私に語りかける。理学療法士として多くの障害を持つ人を助けた彼は私の前にいる。
彼は、私を助けてはくれなかった。当然だ。私が望まなかったから。ずっと黙っていたから。お世話になった彼の母にも伝えないように祖母に頼んでいたから。
声をかけることはなかった。彼の中では、普通のままの私でいたかったから。
しかし、期待の鼓動でヒビ割れた心から、痺れを伴う赤黒く緩い液体が私を支配している。
指先が痺れた。どうしようもなく・・・ぶちまけたい。心のままに言葉を吐きたい。
なぜ彼が職を辞めたかは知らないけれど、少なくとも彼は今、私の前で私だけを見ているから。
「今、病院に行ったってどうする? お婆ちゃんは入院した。腰椎の圧迫骨折だってさ。君の方が詳しいんだろう。理学療法士の先生なんだから。たとえ病院を辞めて無職だったとしてもね」
誠也の顔を見たい。また泣いてしまうのだろうか。でもそれは幼い頃の話だ。
パソコンのディスプレイからは顔を上げられずに、私は素直になれない言葉だけで返す。
「なんで知っているの?」
「聞かなくてもいいのに。お婆ちゃんが話してくれるから、君のことはなんでも知っている・・・つもりかな。それにね。私はもう家から出れない。こうなっちゃったから」
左足を彼に見せた。傷跡は見せたくはないから、固く尖った足先だけを見せる。理学療法士の彼ならきっと思い至るだろう。玄関先に置かれた車椅子も、埃を被った肌色の、プラスチック短下肢装具も見たはずだから。
「話は弥生から聞いているよ。事故にあって入院していたんだろう? 歩けるようになったとも聞いた」
弥生ちゃん。知り合いだったのか。と視界と心が闇の帳を降ろす。入院中、私へ熱心に世話を焼いてくれた母校の後輩だ。正常で明るい場所にいる彼女は、私とは違う。
「いい子だよね。熱心に私へ世話を焼いてくれた。君はああいう子と結婚するべきだな。きっと幸せな普通の家庭が築けるよ」
かろうじて声が出た。なおさら彼を拒絶しなければいけない。嫌われないといけない。
そうでないと私はきっと泣き出してしまう。泣き出して彼にすがって、私が私の障害で彼を呪ってしまうのだ。
誠也は表情を固めたまま私に近づき、左足へと手を伸ばす。嫌だ。触れられたくない。
触れられたらきっと彼も言うのだろう。私に取って呪いの言葉を。
理学療法士になった優しい彼だから、言ってしまう。
「理学療法士になった君なんかに触られたくない! こんなに硬くなって、もう装具も入らない。歩くことはできない」
言葉が漏れ出ている。彼に、しっかりと仕舞い込んでいた私の心が口から、激しい音になって漏れ出て、言葉になる。
「でも車椅子があるだろう。歩き方にもよるけど歩く方法はまだある。礼子さんから僕は岬のリハビリを頼まれたから」
「勝手なことだな。私は君のリハビリなんかを受けるつもりはない。お婆ちゃんの方が必要としているだろう」
「だとしても会いに行かなきゃ。きっと心配している。ほら。立って。僕が手伝うから」
誠也は私を立たせようと手を差し伸べた。まるで病院の理学療法士みたいな口振りで。
嫌だった。誠也は誠也であってほしい。理学療法士として私に触れてほしくはない。
あぁ。私は誠也がまだ好きなのだ。十年経って再び出会って思いは強くなる。
ただ、だからこそ許せはしない。私に触れて立たせようとしたから。
私は伸ばされる救いの手を強く引く、バランスを崩した彼を押し倒す。
気がついた時には私は誠也の胸ぐらを掴んだまま押し倒し馬乗りになっていた。
ガタリと私が転倒した時と同じ音がして、誠也は目を白黒されながら私を見上げている。
大好きな誠也だからこそ許せない。私に、ダメになってしまった私へ触れてほしくない。
理学療法士のままで、誠也にこんな私に触れてほしくなかった。
言葉が心から溢れて、伝えたかった押し留められていた言葉は長い年月で鋭さを増している。
「もう私はダメなんだよ。何もできない。家の前にある坂道を下ることもできない。満足に歩くこともできない。どこにも行くことができないんだ。足を引きずって歩く私を見て、理学療法士になった君は言うんだろう? もう少し患側に重心を乗せて、体幹に力を入れて姿勢が崩れないように。好きな靴を履けなくても、私には似合わない装具をつけて、正しく・・・普通の人みたいな、正常な歩容で歩けと強いるんだろう! 生憎だが私はもう歩けない、こんな暗い場所で引きこもって、普通にだって暮らしてはいない」
喉から血が出て張り裂けそうになる。言葉を言い終わる頃にはすっかり泣き声になっていた。
まるで心がふたつあるようだっだ。小桜 岬という私。そして些細な障害ですっかりとダメになってしまった、弱い私のふたりがいる。ふたりの私が抱く心は混濁し、彼だけに思いをぶつける。
誠也の目尻が和らいでいく。視線はもう私の動かなくなった足先ではなく、私の瞳の奥を覗いていた。言いたいことがたくさんあるのだろうけど、私はかまわずに続ける。
「君たちの言う正常で正しい動作は私にとっては呪いの言葉でしかないんだ! 正常から逸脱した私はもう普通じゃない。それに・・・歩かないでいるうちにこんなに足は固まってしまった。私はもうダメなんだ」
すっかりと泣き声になっている。言葉はか細く消え入りそうだ。
「ダメじゃないよ。他の人と同じように生活ができなくなっても、周りには岬よりずっと、重い障害を持っても頑張っている人たちがいる。助けを必要とする人を手助けするのが僕の仕事だ」
仕事。理学療法士としての矜持だろうか。いや、誠也が誠也自身で悩んでいるのは伝わる。でも言ってほしくなかった。
私を、私だけを見てほしい。障害なんかではなく、私をずっと見ていてほしい。
誠也の首へと体重を預ける。彼は抵抗せずに私を、彼を押し潰してしまいそうなほどの、重みを受け止めてくれている。
あぁ。こんなにも私は誠也が好きで、この正常から逸脱した日々から助け出してほしかったんだ。涙が頬を伝うのを感じた。とてもじゃないが止められることはできなかった。
頬を伝った涙が誠也の頬へと落ちる。誠也は涙に触れることなく、息を吸い込み目を伏せた。
私の言葉が止まらない。自分でも何を言っているかはわからない。心からの想いだけが言葉という形を作る。
「そりゃ半身が不随になってしまったり、両足が動かなくなってしまった人、寝たきりにならざるを得ない人。この世を見渡せば私より不幸な人はたくさんいる。私なんかよりずっと強く生きている。私は左足が、それも足首が動かないだけだ。比較したら軽い障害だ」
誠也が首を横に振る。目の前にいるのは理学療法士としての彼ではなく、すっかりと藤森誠也だと確信できた。冷え切っているはずの手足が、彼から伝わる緩さで震えた。
「障害を持ちながら頑張っている人がいる。想像を絶する苦労をしても、たくましく生きている強い人たちがいる。多くの人がそうだ。ただ私にはもう無理だ。重い障害を持った人に比べたら軽い障害でも・・・立ち上がれない。頑張ることなんてできない。足首がうまく動かないだけで、うまく生きていけない私がいる。おばあちゃんが倒れた時、私は何もできなかった。抱えることも、支えることもできなかった」
祖母が倒れた昨夜、私は祖母を案じながら自分自身に腹を立てていた。何もできなくなったと知らしめられた。死んでしまいたいほどに。こんなに頑張っている人ばかりの世の中で、生きているのが申しわけなくなって、死にたかった。消え去りたかったのだ。
「必死に助けを呼んで、救急隊に任せて・・・お婆ちゃんは謝っていたの。何もできない私の方が悪いのに、全部を諦めてしまった私の方が悪いのに。謝っていたんだ」
手足から力が抜けた。ずいぶんと弱っているらしい。自分の激情にすら身を任せることすらできない。倒れ込み、誠也の頬が私に触れる。口元が動くのがわかった。
きっとこれで私を嫌いになってくれる。彼の記憶の中にいる私とは、変わり果ててしまった姿と言葉で、拒絶してくれる。
「ごめん。僕は馬鹿だ。ずっと昔から変わらない」
馬鹿は私だよ。心の奥底に隠れたもうひとりの私が、あれほどに出てきてほしくなかったのに、顔を出す。
「もう十年以上も経ってしまったよ。何度も助けてほしかったのに、君は私を助けてくれなかった。装具も入らなくなった。知ってるよ。悪いのは装具じゃない、私なんだ」
「何も知らなかった。いや聞かなかった僕の言い訳だ」
「私が言わなかったからだよ。君にとって理不尽なセリフだとは知っている。でも許せない。自分勝手でも許せないんだ。君が私から離れてしまったから」
彼はきっと過去を思い出している。素直になれない弱いままの私と彼を思い出している。言葉の温度で、確証がなくても確信ができた。
「ごめん」
ひどく誠也を傷つけたはずなのに、私はどこか救われていた。誠也に包み込まれている。
互いの異なる体温が、等しく感じてしまうくらいに。
「もう謝らなくていい。ごめん。なんて言わないで」
私のせいなのに、傷ついたから傷つけなければならなかった。誠也にも私の傷を知ってほしかった。できれば同じ傷を負ってほしい。
「最後に三つだけ謝らせてくれ。一つは岬の足に触れようとしたこと。触診しないと障害の程度はわからないから。でも岬に了承を取らずに勝手に触れようとしたことは本当に悪かった。二つ目は僕の考えを押しつけて勝手に立たせようとしたこと。全然岬のことを考えていなかった」
本当に真面目で素直だ。だからこそ彼は傷ついているのだろう。臨床で傷ついたからこそ、今の私と一緒で立ち上がれない。
彼も傷を負っている。でも私が彼につけた傷ではなかった。
でも今の彼は傷を負った。まぎれもなく私がつけた傷を。
やっぱり彼は彼のままだ。隣へ寄り添って、伝わる鼓動が私はまだ生きていると教えてくれる。生きられると伝えてくれている。
もしかしたら、彼は彼のままで理学療法士になってしまったのかもしれない。
一緒に立ち上がりたいと思った。ただ歩く姿だけは見せてはやれない。それだけは無理だ。
誠也の隣で昔みたいに歩きたいと思ってしまったから、まだ見せることはできない。
「三つ目は?」
「学生時代、岬が告白されたと伝えてくれた時、僕は引き止めたかった。どこかに遠くに行ってしまうような気がして寂しかった。素直になれなくて・・・ごめん」
「一つ目と二つ目に関しては許すよ。でも三つ目は絶対に許さない」
許さない限りはずっと一緒にいられる気がした。そんなことをきっと誠也は受け止めてくれるのだろう。受け止めてくれるから、今の彼では嫌だった。
「お婆ちゃんの遺言だとしても、私は君のリハビリは受けない」
きっと誠也の言葉から、彼が人生のどこかで私とは違う転倒をして、立ち上がれないのは言葉からわかった。私の心がふたつに別れてしまったみたいに、彼もまた藤森誠也自身と理学療法士としての間で揺れ動いているのだろう。
だからこそ私は理学療法士としての彼からはリハビリを受けないことを決めた。
私の知る藤森誠也に戻るまでは、彼のリハビリを絶対に受けない。ただ今は隣にいるだけでいい。
「遺言って・・・大丈夫。圧迫骨折はよほどのことじゃない限り、患者の命を奪わない」
「わからないよ。でも・・・どんなに私が誠也を拒絶しても絶対に諦めないで。私が君のリハビリを受けたくなるように声をかけ続けて。ひとりにしないで」
また一緒に立ち上がれるまで、胸を貼って一緒に隣り合い、ずっと歩いていくために、彼を少しくらいは呪ってやろう。私の願いを込めた傷跡と呪いをかけてやろう。
それくらいの些細な呪いで許してあげよう。
身を上げて大きく息を吸い込む。もう十分に泣いた。泣き言を放った。
そして彼は受け止めてくれた。愚直とも思えるほどの真面目さと、幼い頃から変わらない瞳で、私をまた見てくれた。
ダメになってしまった今の私を見つめ続けている。
わかった。と彼は強くうなずく。私は泣き声の痺れを残したままの唇で、心を言葉にする。
「よろしい、今日から君は私の理学療法士だ。私の・・・理学療法士だ」
※この物語はフィクションです。実在の人物や団体などとは関係ありません。登場する内容は一人のセラピストの意見ですのでご容赦ください。
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