月のゆくへはわからない ー田中千鳥の世界

月のゆくへはわからない ー田中千鳥の世界

最近の記事

朝の月

まだよのあけぬ 白月よ お星のおともを一人つれ お月様はどこにいく 朝日をおがんでかへりがけ ちらりと空を見上げたら お月様は しらぬまに お星と いつしよにき江てゐた つきのゆくへは わからない   数え年 八歳(大正十三年八月一日 朝) 千鳥詩愛好家の中でも抜群にファンの多い一編です。わずか七歳半の少女に「つきのゆくへは わからない」と言われてしまったら、どんな言葉を返せせばよいのでしょうか‥‥。余韻の深さ、余白の広さ、絶唱です。 この詩を書いた七日後に、千鳥は最後の

    • きんぎょ

      うきぐさの中で きんぎょのダンス しぽをひろげて ひらひらおどる きんぎょのダンス うきぐさがゆれる  数え年 八歳(大正十三年六月) 愛らしい一編。 第69回江戸川乱歩賞を受賞した米子市出身の三上幸四郎さんのミステリーにも登場します。 小説では、原文「しぽ」は、現代的に「しっぽ」と分かりやすく改められ、後段でも母娘探偵の謎解きの重要なヒントとなって再登場します。 引用、借用、翻案、アレンジ、スピンアウト、二次創作、‥‥、インスパイア、トリビュート、オマージュ、‥‥、どん

      • 青空を でんしんばしらの はりがねが すつときつてゐる 空をきつたはりがねに 雀がとまってうれしそうに ちゆんちゆんと ないてゐる  数え年 八歳(大正十三年七月) この詩を読んだ鳥取環境大学の先生は、かつて こんな感想を寄せてくれました。 「空をきるはりがね、その感覚のするどさ、研ぎ澄まされた切っ先に注目するあたりのチドリのまなざしは並みではありませんね。自分の気持ちや感情表現は一切ないのに、書き手の姿勢・意識・感動が読み手にまっすぐに伝わってくる。舌を巻きます。その才

        • おゆあがり(湯上り)

          雨の夕べの おゆあがり やすみばの いすに こしをかけ もみぢのわかば ながめる  数え年 八歳(大正十三年六月) 自然と地続きな日々の暮らし‥。この風景は、いつの頃からなくなってしまったのだろうか‥‥懐かしい。 それにしても無駄な形容・ぜい肉は一切なし、的確に言葉を重ねて情景を浮かび上がらせる「表現の巧み」は並じゃない。 【千鳥の詩文のすべては HP「田中千鳥の世界」で公開、読むことが出来ます。】  

          雨の日

          雨のふる日に とんできた かわいいかわいい子雀は おにはで 江さを さがしてる ぬれた雀に 江さやれば 雀は ぱつと かげもなくとぶ 数え年 八歳(大正十三年六月) 最後の一行が‥抜群 です。 【千鳥の詩文のすべては HP「田中千鳥の世界」で公開、読むことが出来ます。】  

          かわいいこひ(鯉)

          雨のふる日に とつてきたこひを たべるのが かわいさうで かわいさうで たまらない 数え年 八歳(大正十三年五月) 小さな命をみつめる小さな目、生きることの切なさ・哀しさが響きます。【千鳥の詩文のすべては HP「田中千鳥の世界」で公開、読むことが出来ます。】  

          ぬれた子雀

          やなぎの青ばが ぬれてゐる きれいな はかげに 子雀が たのしさうに あそんでる  数え年 八歳(大正十三年五月) チドリは小動物に惹かれていたようです。 この詩を書いた一月ほどあとに「かちみ(浜村の勝見地区)の、ふじたん」から「小雀」をもらい、「小雀日記」を綴っています。 六月十五日 わたしのかわいい子雀は いつでもちゆんちゆん なきまする 江さをやると口をあけながら あわてゝばかり かわいゝな。 雀は私のたからです 雀は私のおともだち 雀は私の、めざましどけい。 かわい

          しぜんのおんがく

          風のつよい夕方に 母ちやんと山へ お花とりにいつた 山のおんがくは おそろしかつた 数え年 八歳(大正十三年五月) チドリにしてはめずらしく、「しぜんのんがく」「山のおんがく」という表現は《抽象度》が高い言葉です。スケールの大きさを感じます。即物的な具体を超えていくチドリの成長を感じさせる一編です。 二行目の「母ちやん」拗音、三行目の「いつた」最終行の「おそろしかつた」などの促音が、大文字表記になっていることにお気づきでしょうか。 これらは、現代の印刷・出版の世界では「捨て

          雨の日

          のも 山も きり雨につゝまれ 山のねの なの花畠 雨にぬれ かへるは ころころ ないてゐる  数え年 八歳(大正十三年四月) チドリの自由詩の中でも、とりわけ愛らしい詩だといえます。身近な自然と向き合い、周りの景色を素直に描写しただけなのに、どこまでも優しく、ここち良い言葉のリズムに包まれて、読み手を風景の中に誘い、しっとり湿った空気の匂いまでが伝わり、自ずとカエルの鳴き声が聞こえてくる―そう思わせる一編です。【千鳥の詩文のすべては HP「田中千鳥の世界」で公開、読むことが

          小さなロングラン

          小さな時代:大正時代に、鳥取の浜辺の村で、小さな少女が小さな命を生きました。七歳半で亡くなった少女:田中千鳥が書いた幾つかの小さな詩と文。娘の死を悼んだ母:田中古代子は、没後すぐに小さな本『千鳥遺稿』を作りそっと世に差し出しました。 わずかばかり三百部ほどの本は、大正から昭和・平成と読み継がれ、何度も復刻されながら百年の時空を超えて令和の今に至ります。あいだに千鳥にちなんだ映画『千鳥百年』が作られ、絵本『千鳥のうた』も生まれました。 来年2024年は、田中千鳥没後百年を迎

          おちつばき

          お寺でひろつた おちつばき あんまりきれいで 母ちやんのおみやに つないでかへつた  数え年 八歳(大正十三年四月) 2023年12月1日から「ちえの森ちづ図書館(鳥取県八頭郡智頭町)」を皮切りに絵本『千鳥のうた』イラスト原画展が始まります。以降2024年7月まで、鳥取県下7カ所を横断して開催されます。その案内チラシにも描かれた「ツバキの花」を読んだ詩です。 地元の現代詩人・漆原正雄さんは、「自然との境界線を引かない無垢のまなざし」と千鳥の詩の魅力を語っています。千鳥の詩の

          Who am I ? my name is chidori

          2023年の12月から2024年の7月にかけて、鳥取県下6カ所で絵本『千鳥のうた』のオリジナルイラスト原画展を開きます。今回はその「案内チラシ」のお披露目です。デザインして戴いたのは、イラストレーターのアジコさん。絵本の原画も彼女の作品です。 地元でもまだまだ知られていない千鳥、キャッチフレーズは「Who am I ? my name is chidori チドリさんと遊ぼ」 鳥取の皆さん、ぜひお運びください。県外の皆さんは、県下のご友人・知人へのアナウンス よろしくお願いし

          夕べ

          おてらまゐりの かへりみち 春のたんぼは くれかゝる とほくで ひゞく 牛のこゑ  数え年 八歳(大正十三年三月) 「ゐ」(wi)「ゑ」(we) などの歴史的仮名遣いがみられます。「かへりみち」「とほく」の表記もあります。今では少なくなりましたが‥‥「ゝ」「ゞ」といった踊り字と呼ばれる繰り返し符号も使われています。百年前の日本人は、もしかしたら、今より豊かで、微妙な音の違いを聞き分ける繊細な耳を持っていたのかもしれませんね。【千鳥の詩文のすべては HP「田中千鳥の世界」で公

          雨と木のは

          こぼれるやうな 雨がふる 木のは と雨が なんだかはなしを するやうだ 山もたんぼも雨ばかり びっしょりぬれて うれしさう  数え年 八歳(大正十三年三月) 千鳥は雨が好きだったようです。母・古代子は『千鳥遺稿』の「編纂後記」にこう書き遺しています。 「雨の降る日が大好きで、雨の日にはころつと人間が變つて仕舞つた。居るか居ないかわからない程、ヂッとしづかにしてゐて、口も利かずに一人で何かしてゐた。彼女はかりそめにも嘘や出鱈目を云わなかつた。彼女の言葉はそのまゝ信じてよかつた

          朝のけしき

          たのしい にち江うの 朝のこと 小川のきしで かほあらひ 水にうつった いろいろの 春のけしきが きれいに見江た  数え年 八歳(大正十三年三月) 「小川のほとりで 顔を洗い、水に映った景色に見入る」ほんの百年前まで日本の田舎で当たり前にみられた風景・暮らしぶりが失なわれ、こんなに遠く昔に感じるようになった今、私たちは本当に豊かになったのでしょうか。 千鳥の詩文を読むと、柄にもなく、そんな感傷が浮かんできます。【千鳥の詩文のすべては HP「田中千鳥の世界」で公開、読むことが出

          春 雪

          雪つもり 雪の中 人とほり 木の江だは まつ白く 雀は チユンチユン うたうたひ 数え年 八歳(大正十三年三月) 月や星や小動物や花などをうたった千鳥でしたが、この詩では唯一「人」が 登場します。ただその姿は「雪の中」を通り過ぎていくだけです。どこか おぼろで 儚げで 寂しげです。 幼い千鳥は、おそらく近親の家族や学校の友だち以外の「人」には未だ出会わなかったことでしょう。なのに「人」への この観察力・感受力! 評論集『千鳥 月光に顕つ少女』を著した上村武男さんは、近著の写