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記憶と妄想と性愛と

昨日、会社の同僚と話していて、「怠惰について書いてあったnoteが面白かった」と言われたのだが、その場では「え、そんなこと書いたっけ?」とまったく思い出せなかった。

けれど、おかしなものでその同僚と別れて帰宅する途中、ひとりで歩いていると何のきっかけもなくふと、「あ、そうか、ジョルジョ・アガンベンの本でそういう話を読んで書いた気がする」と思って、家に着いて調べてみると、確かにあった。

これ。

あんなにさっぱり記憶になかったものが、一度、思い出しはじめると、アガンベンの『スタンツェ』を読んで書いたものだと思い出したし、中世における「怠惰」という概念がいまとまったく異なるものだったことも思い出した。

ジョルジョ・アガンベンの『スタンツェ』を読んでいて、中世における「怠惰」が、いまの、働くのをサボるとか、やるべきことをやらずにいるとかいう意味とはまったく異なっていたことを知って、なるほど、と感じた。

と書いている。
まったく記憶というものは不思議なものだ。
一度、思い出すきっかけさえ見つかれば、芋づる式にいろんな記憶が蘇ってくるものだ。

中世における怠惰と性愛

どう違うか、再度紹介しておくと、こういうことらしい。

心理学の用語を使うなら、怠惰な者の後退りとは、欲望の喪失を暴露しているのではなく、達成できないにもかかわらず、むしろその欲望の対象になろうとしているということなのである。対象を欲する意志の倒錯こそが、彼のものである。が、対象へと導く道は、彼のもとにはない。自己の欲望への道を、彼は欲すると同時に遮断しているのである。

欲しないことではなく、欲しても無駄だとわかってなお欲すること。
それが中世ヨーロッパにおける「怠惰」の概念だというのだから、まるでいまの意味とは逆だと言っていい。
そのことを同僚はきっと「おもしろい」と感じてくれたのだろう。

ついでに書くと、そのアガンベンの『スタンツェ』では、中世の性愛概念も紹介されているが、それがまた興味深い。

アガンベンは次のように書いている。

中世における愛の発見は、これまで頻繁に論じられてきたが、それは必ずしも的を射ていたとは言えない。愛の発見とはまさしく、愛の非現実性、すなわちその妄想的な性格の発見だったのである。

中世の愛の妄想的な性格

これだけでは抽象的すぎて、よくわからないだろう。
そこで具体的な例を1つあげるなら、中世の代表的な騎士道物語といわれる『薔薇物語』が妄想的性質をよくあらわしている。
というのも『薔薇物語』の騎士が命をかけて戦いの末、手に入れようとする愛の対象は、生身の女性ではなく、彫像の女性だからだ。
妄想極まれり、だ。

不在のイマージュをのせる像

しかし、この妄想的な愛は中世において極限まで推し進められたものだとしても、それはすでに古典世界にも芽生えていたものだとアガンベンは指摘する。

中世の性愛概念の新しさは、この発見にあるのであって、よく言われるように古典世界が性愛の精神に欠けていたからというわけではない。中世は、古典世界がプラトンの『ピレボス』でかろうじて予感していたにすぎない欲望とその幻影の結合を、その極限の帰結にまで推し進めたのである。

ギリシャ神話におけるピュグマリオンなどもそうだろう。
キプロスの王ピュグマリオンを自分で掘った彫像の女性を愛してしまう。
それは鏡に映った自分に恋してしまうナルキッソスも同様だ。
ようはギリシャ神話の時代から妄想的恋愛の萌芽はみられるわけだ。

彼らはみな内面のイマージュに恋をする。その具体的な欲望が内面のイマージュを映した像へと向かうわけだ。

だから、それは1つ前の「肖像に話しかけて」で書いた、不在の者のイマージュをのせるメディアとしての像という話にも関係してくるだろう。不在となった死者の代理を像に任せる。死者のイマージュを、像というメディアにのせるのだ。

さらには、アンリ・ベルクソンが『物質と記憶』で指摘したイマージュと知覚、記憶、そして運動との関係とも無縁でないように思う。

イマージュと運動と

ベルクソンはイマージュと運動の関係について、こう書いている。

潜勢的イマージュが自分を現実化していく進展とは、このイマージュが身体から有用な行動を獲得していく一連の段階にほかならない。いわゆる感覚中枢の興奮は、その最終段階だ。それは運動的反作用の前奏であり、空間内でなされる行為の端緒である。言い換えれば、潜在的なイマージュは展開して潜在的感覚になり、さらに潜在的感覚は現実の運動へと転換する。そして、この運動は自ら現実化していきながら、ふつうはそれを引き延ばしていくと自分になるところの感覚と、感覚と一緒に具体化しようとしていた潜在的イマージュの双方をもまた現実化するのである。

身体から有用な行動を獲得することと、イマージュが現実化していくことは連動している。膨大な記憶のうち焦点があたるのは、いま行なっている/行おうとしている運動に関連するもののみだ。焦点が当たった記憶はイマージュとして現前化する。
そうであるがゆえに内面のイマージュが現実化していく際、欲望が動くのではないだろうか。

さらには、このことは冒頭に書いた「怠惰について書いたnote」を僕が思い出せなかったことと思い出せたことのあいだにあった差異も説明してくれるように思う。

思い出せなかったのは同僚と仕事の話をしていた直後だったからで、「怠惰のnote」はそこでの運動には何も関係してこない。
しかし帰宅途中にひとりで歩いていたとき、僕は今日は何かnoteに書くことはないかな?と考えていたときだった。その思考行動は過去のnoteを呼び起こすのにぴったりな条件であるように思う。
「身体から有用な行動を獲得していく」なかでイマージュが発動し、それが記憶を呼び起こすのに作用する。

イマージュののった依代を愛する

アガンベンの記述に戻ろう。

ところで、愛もまた、必然的にひとつの反映=思索である。しかしそれは、詩人たちが繰り返すように「眼が最初に愛を育む」からでも、またカヴァルカンティがそのカンツォーネで書いているように、愛は「志向され、見られた姿でやってくる」(つまり、先に説明したようなプロセスにしたがって、外的感覚と内的感覚を通して入ってきて、想像の房と記憶の房のなかで表象像と「志向」になる形相からやってくる)からでもない。そうではなく、中世の心理学によれば、愛とは本質的に妄想的な過程であり、人間の内奥に映し出された似像をめぐるたえまない激情へと、想像力と記憶を巻きこむのだと考えられるからなのである。

像とは古代において、死者の不在の代理であったように、不在の者についての内面的なイマージュを外在化しようとしたら、それにはメディアとしての物理的な依代が必要になる。
不在の者のイメージを愛そうと思えば、むしろ、依代としての像を愛するというのはむしろ自然なのかもしれない。
また、不在なものを愛するというのは、達成できないものを欲するということが怠惰であった中世の精神にそもそも合っているようにも思う。

だが、ここまでたどり着くと、それはいまの愛のカタチと何が違うのだろうか?とも思えてくる。
変わったのは、イマージュがのるメディアが人工的な像から、恋愛対象の相手の生身の身体の身体に変わっただけではないか、と。
どのみち、僕らはイマージュに恋をしているのではないだろうか。

偶像を愛して

はたまた、現代においても2次元に恋をしたり、メディアの向こうの存在に恋するのも中世の妄想的な愛とそう遠くないものではないだろうか。

ナルキッソスの物語もピュグマリオンの物語も、ともにいわば愛のアレゴリーであり、本質的に鏡像への強迫的な憧憬にとらわれるという愛のプロセスの妄想的な性格を、ある心理理論の図式にしたがって、典型的なかたちで示してくれているのである。その心理理論の図式によれば、本来の意味で恋に落ちることとは、何であれ常に「影を通して」あるいは「形象を通して」「愛すること」なのであり、いかに深いエロス的志向でも、常に「イマージュ」へと偶像崇拝的に向けられているのである。

偶像を愛するのは、僕らもそれほど変わりはないのかもしれない。

先に不在があり、そして、代理としてのイマージュののったメディアがある。
そこで記憶がイマージュを呼び起こし、イマージュがさらに運動を引き起こす。

妄想と性愛、イマージュと記憶と運動、そうしたテーマについて考えることはあらためて面白いと感じる。

そして、最後にもう1つ思い出したこと。
このマガジンが「言葉とイメージの狭間で」と題しているのも、まさにこのアガンベンの本のサブタイトルからとったのだった。


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