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教えることを楽しむ

気づかいだとか、配慮だとかということを、共生という観点から書くことが最近多くなっているが、その流れで今日は「教える」ことについて書いてみたい。

共生体としての組織を持続可能にする

何らかのスキルトランスファーを前提に、教える、教えあうことをするのは、共生体としての組織が持続可能であるためには不可欠なことだ。
いずれの組織も時間とともに新陳代謝があるわけで、そこでスキルトランスファーが行われなければ技術やノウハウの継承がされずに組織の力は減退する。

むろん、トランスファーでなく、新たなスキルの獲得がそれを代替できるのであれば良いが、その場合でもそこに学びの機会は必要となる。学ぶための機会として教育が提供されるなどという形で。

共生という視野があれば、他人に教えなかったり、他人の学びを支援しないということは、組織の力の減退、さらには自身にとっても負の影響が及ぶということは容易に想像がつく。
しかし、共生という観点をもたず、まわりへの配慮が乏しく自分のことくらいしか考えられない利己的な視点だけからみると「なんで労力を使って他人を教えなくてはならないのか?」という発想の方が強くなってしまうのかもしれない。

だが、労力を使って、他者を育て、自分がいままで行っていた仕事をその人に移管できれば、自分はもっと上の仕事に移行でき、労力を費やした分の見返りは得られるはずである。
組織自体がそれで成長すればさらに見返りを得る確率は高まる。
この時間的な変化の観点で物事が見れないのは、そもそも根本的に学びとか成長ということから程遠い思考なのかもしれない。学びや成長そのものが時間的変化そのものなのだから。

教えるのを楽しくする

そもそも教えるのが労力かというと、そうでもないのではないだろうか?と僕自身は感じる。
ほかの仕事でも同様だと思うが、労力と感じるかどうかは、その仕事をどうデザインするか次第である。教えるという仕事も、どうにもでも楽しくデザインでき、そうなれば楽しめるので労力とは感じない。

仕事を楽しく自分でデザインするというのは、持続可能性が問われる共生の世の中では必須のことだと思っている。
仕事を楽しくできず、その仕事を嫌がってそれを他人に押しつける。
しかも、その人のメリットにもならない形で。

SDGsの目標の8番目は「働きがいも経済成長も」というもので、

すべての人のための持続的、包摂的かつ持続可能な経済成長、生産的な完全雇用およびディーセント・ワーク(働きがいのある人間らしい仕事)を推進する

とされるが、嫌な仕事を他人に押しつけるという発想は、この目標の元にある人があまりやりたがらない仕事を遠い海外の国に安い金額で押しつけることと発想的に同じだ。自分さえ良ければ、他人は嫌な思いをしてもよい。
そんなことでは、共生体の持続可能性はままならない。

そもそも教えるのは楽しいし、楽だ

そもそも、本当に教えるのは労力がかかるのだろうか?
僕は人に教える機会が多いが、あまりそう感じない。

そもそもOJT型で教えるなら、教えることが本来の仕事をやってもらうことにも通じるから、楽しい上に、従来なら自分がやらなくてはならなかった仕事を渡せて、労力も減る。
うまくデザインすれば他人に仕事を渡すことと、スキルアップのために学んでもらうことが完全にリンクし、そのためのタスクをうまく分解してそれをやってもらいつつ、レビューなどすれば、むしろ総合的な労力は減らせる。

こういうことを考えてデザインせずに「教えるのは労力がかかる」というのは、あまりに考えるということに労力を使わなすぎだろう。
それでは自分自身の学びやスキルアップにもならない。
そんなのつまらなくないだろうか?

実際、OJT型で教えるのは楽しい。

まずは教える際の会話が楽しい。
どう話せば伝わるかを考えるのも楽しいし、その話を相手がどう受取り、どんな反応をしたかを見るのも楽しい。

最初の「わからない」が徐々に対話を重ね、作業を繰り返していくなかで「わかった!」となるのを見るのも楽しい。

そのなかで自分がすでに知っていて、できることもまた違った景色として見えてきて、新たな気づきを得られるのも楽しい。それを教える相手といっしょに見れているということも楽しさを膨らませる。

あとはその人が成長するのを見るのは楽しいし、うれしい。
変化は見てるだけでも楽しいではないかと思う。

やはり気くばり、気づきだ

結局、教える、学びの機会をつくるというのは、いかに相手と向きあって、相手の状態を知り、その相手の足りない部分はどうしたら満たしていけるかということを、相手といっしょに考え、考えたことを実際にやってみていくことだと思う。
それはだから、1対1の対話の関係である。昨日「気づかうことの創造性」で書いたソクラテスの対話による「気づき」「気くばり」と同じことだ。

昨日も引用したが、もう一度『神の三位一体が人権を生んだ』という本から引用しておく。

ソクラテスは、「気づく」という理性のはたらきは、「気づかう」とか「配慮する」とか「留意する」といった理性のはたらきと同類のはたらきであるとみていた。じっさい他人の弱さに気づくことは、他人を気づかうことである。気づかうことは、心を配ること、配慮することである。それはまたソクラテスによれば精神的愛であった。

自分も気づくから、教える相手にも気づかせてあげられる機会をつくることができる。それは相手を理解しようという気づかい、配慮がないとそうはならない。
そうした配慮、気くばりが自然にでき、かつ楽しめるか。

ソクラテスは自分の理性を自覚して、それを善美なものにするために、自分の心を気づかい、さまざまなことに対応していたが、同時に、その気づかいが他者においてもなされるように、他者に対して同じことをするように、懸命に促していた。

自分だけでなく、他者に対しても同じようにする。そうした利他的な姿勢をとるのは、何もソクラテスのような優れた人だけではない。

気づかいを労苦と感じるか、楽しみと感じるか

アントニオ・ダマシオの『進化の意外な順序』からもこんな一文を最後に引いておこう。

細菌の集団は、敵対的な環境に対処し、なわばりや資源を獲得するために他集団と頻繁に競わねばならない。集団が繁栄するためには、メンバーは協力し合う必要がある。かくして集団のメンバーが協力し合うときに起こることは、実に興味深い。集団のなかに「裏切り者」が見つかると、つまり防御を手伝おうとしない個体がいると、細菌は、たとえ遺伝的につながりがあり、いわば家族の一員であっても、その個体を遠ざける。細菌は、近縁であっても集団的な営為に協力せず自分の役割を果たさない個体とは協力し合おうとしない。つまり、非協力的な変節者を冷たく扱うのだ。

そう。細菌でさえも、だ。

気づかいを労苦と感じるか、楽しみと感じるか。
それはまさに他者の喜びも自分の喜びのように受けとれる利他的で、共生的な感覚を持ち合わせているかどうかということなのかもしれない。


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