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気づかうことの創造性

あ、ソクラテスってそうなんだ。

昨日から読みはじめた『神の三位一体が人権を生んだ』(八木雄二著)で、こんな記述を読んで、そう思った。

ソクラテスは、「気づく」という理性のはたらきは、「気づかう」とか「配慮する」とか「留意する」といった理性のはたらきと同類のはたらきであるとみていた。

週末に「周囲への気配り(=外部へリソースを配分する)」なんてことを書いたばかりだから「気づかう」とか「配慮する」ということは気になっているテーマでもあったからだ。

じっさい他人の弱さに気づくことは、他人を気づかうことである。気づかうことは、心を配ること、配慮することである。それはまたソクラテスによれば精神的愛であった。

気づくこと、気づかうこと。
そして、配慮し心を配ること。

今日もまた、そのあたりからゆるりと話をはじめてみたい。

個と個の対話を通して

みずから書いた著作を残さなかったソクラテスは、大勢の前で行う演説よりも、街での個々の人たちとの対話を好んだ。
大勢を前にした演説では、気づくことも気づかうこともできないことが、個々人を相手の対話であれば気づきも気づかいも可能になるからだ。
もちろん、それは著作を書くことでは得られるはずもない。

プラトンがソクラテスの話を書き残した『弁明』では、ソクラテスは「わたしが、歩きまわって行なっていることはといえば」「自分自身のことは、一切かえりみることはせず、自分の家のこともかまわずにおいて、いつも諸君のことをしていたということ、それも私行のかたちで、あたかも父や兄のように、一人一人に接触して、精神を立派にすることに留意せよと説いてきた」と述べたという。

ソクラテスが行う個人的接触が個々のものへの「配慮」であり、「気づかい」であることは、引用文の内容から見て明らかだろう。

というとおりだ。

仕事の場においても、こうした個人的接触は欠かせない。

いまの職場では定期的に「1on1ミーティング」という名の30分から1時間ほど、面接でもなく、最近やってること、考えてること、これからやろうとしてることなどを1対1で話す時間を設けている。もちろん、それ以外でも時々声をかけて、1対1で誰かと話したりする時間があったりする。
まさにそうした時間も相手に配慮したり気づかったりすることで、いろんなことに気づける時間だ。
毎週月曜日にはみんなの前で話す時間もあるが、そこではまったく気づきようがないことも、個人と向き合うとおのずと得られる。

この理性のはたらきは、個別のものであるがゆえに、ソクラテスは「私行のかたちで」実施するほかなかった。つまり誰に対してであろうと、自分の精神に配慮するように、年中、個々人に直接あたって促していたのである。言い換えると、大勢を相手の演説では、このような理性的配慮はできないと考えていたのである。

ソクラテスが演説ではなく、個との対話を選んだ理由は、僕にも実感としてわかったので、この一連の話を読んで、冒頭書いたように感じたのだ。

気配りこそが

昨日紹介したダマシオの『進化の意外な順序』も主に、複数の生命同士の共生や協調という観点で読んだように、利他的な共生というのもまた僕にとっては1つのテーマだ。
それは今年に入ってからずっと続いていて、それは持続可能性といった話ともつながっている。

気づかいとか、配慮とかというのも、結局はいかに共生するか、協調しあうことで良好な状態での持続可能性を高めるかということのために必要な理性の活動だと思う。

持続可能性といってもキープではない。生物がそうであるように、維持しようとしたら持続はできない。変化し続けることではじめて持続可能性は現実なものとなる。

ゆえに、他人を気づかうこと、配慮するということも、キープを目指すのではない。常に、いっしょにどう変わっていくかをいっしょに考えることだと思う。

気づきという創造

僕にとって「気配り」というのは、そういうクリエイティブな活動そのものだ。気を配りあい、相手とのあいだに何か気づきを生みだす創造的な行為が「配慮する」ことだし「気を配りあう」ことだと思う。
相手に配慮しながら向きあい、話をすることではじめて、それまで気づかなかった気づきが得られる。
それは創造にほかならない。

それは相手とちゃんと対話せず、想像のまま忖度しあうこととは真反対だ。

個と個が向かいあうのは「ことば」ではない。あくまでも現実の事態である。相手の個と個に理性で向きあわずに、「あるべき人間」(普遍的価値のある人間)について語るばかりの人は、したがって道徳を論じていても、個のうちにある、ペルソナに気づくということがない。

まさにその通りだ。

著者は理性には2つあるという。

一般に通じる普遍的なものを見出す理性と、個々の主観的な知覚によってそれぞれ現実から何かを感じる理性だ。
前者はことばで伝えることが可能だし、伝えるために言語化する必要がある。しかし、後者はことばだけでは伝わない。その相手がどのように語ったかという相手の理性を自分の側の理性を通じて感じられてこそ通じるものだ。

それは相手をあるべき人間に当てはめる行為ではなく、対話を通じて相手に気づき、そのペルソナを創造的に発見することだと思う。

ソクラテスの理性の「気づき」について触れたが、「気づく」ことは「配慮する」ことであり、精神的な愛である。それはキリスト教においては「神の愛」である。世界の創造において示されている神の愛は、それが「存在すること」を、「求める」欲求(愛)ではなく、「受け入れる」愛である。神がそれ(たとえば、A)を存在のうちに受け入れることが、神の愛によるそれ(A)の創造なのである。

求めるのではない。
それはそうだろう。
必要なのは、創造であって、外から求めて得るものではない。

それは他者とのあいだで互いに配慮しあい、気づかいあうことで、ともに自分たちの生きる場を良くして、持続可能なものにするために活動した結果、「神の愛による創造」のように発見され、自然と受け入れられるようなものなのだと思う。

イデア論以来の悪夢から目覚めて

ちゃんと相手に向きあうこと、対話のなかで気づかい気づきを得ようとすること、相手を、そしてまわりを配慮することを通じて創造的な答えを見いだしていくこと。
それは概念のみを語ったり理論のみに頼ろうとする姿勢では得られないものを得るためのものだ。

その後プラトンがイデア論を論じたとき、ソクラテスの「気づき」を語ることばは哲学から失われ、概念認識のみが哲学研究の対象になった。こうして実際的場面で起る「気づき」は、理論ないし観想を第1とする哲学の表舞台から消えたのだ。

そう。僕らはかなりの時間、このプラトン以来の概念と理論の悪い夢のなかに閉じ込められていて、お互いのことを配慮したり、気づかったりすることを忘れて、何も気づけなくなっていたのだと思う。

この悪夢から逃れるためにも、僕らは、紙なのかネット上なのかにかかわらず書かれたことばに右往左往するばかりなのをやめて、現実としての他人のことをちゃんと配慮できるよう対話や協調的な活動にもっと時間を割く必要があるだろう。

そう。「自分自身のことは、一切かえりみることはせず、自分の家のこともかまわずにおいて、」街の人々との対話を行なってまわったソクラテスのように、利己的なことよりも利他的なことに時間を費やせるようにしたいものだ。


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