2019年に読んだ30冊の本
個人的に、2019年は読書の当たり年だったように思う。
今年はいままでにも増して雑多な感じで、自分自身の興味関心の赴くまま、いろんな分野の本を読んだのだけど、それが良かったみたい。
ジャンルも、書かれた時代も、書かれた文脈もバラバラでも、僕自身の視点によってそうしたバラバラの本たちが大きく4つくらいの塊に縒り合わされて、僕の内に確かな知的感触を与えてくれた。
今回は、その4つの塊ごとに、今年の読書体験を振り返りつつ、読んだ本から30冊(正確には2冊のシリーズものもあるので31冊)をあらためて紹介しつつ、僕なりの2019年の振り返りとしたい。最初から長くなるのを覚悟して書き進めようと思うし、どこから読んでもいいように書こうと思うので、気になるところをピックアップして読んでもらえれば幸いだ。
時間とかたち
1.時間は存在しない/カルロ・ロヴェッリ
過去と未来が違うのは、ひとえにこの世界を見ているわたしたち自身の視界が曖昧だからである。
最初はこの1冊から紹介したい。
イタリアの理論物理学者カルロ・ロヴェッリによる、タイトル通り「時間が存在しない」ことを丁寧に説明してくれる本。
「宇宙全体に共通な「今」は存在しない」とか、「世界の出来事を統べる基本方程式に、過去と未来の違いは存在しない」だとか、と、一般的な人間の常識からすれば、「ウソ!」と思えるような、物理学的真実を紹介してくれるので、読めば読むほど楽しくなってくる。
「自分の周りで経過する時間の速度は、自分がどこにいるのか、どのような速さで動いているのかによって変わってくる」だなんてことは、まあ、相対性理論をなんとなく理解していればわかることなんだけど、時間とは何かを問う際、物理法則の基本原理には、原因と結果の流れを不可逆なものにするものはないということを説明してくれた上で、そのなかで唯一、不可逆な状態がつくられるのが熱が絡んだ場合であり、この場合にのみ、過去と未来の区別が可能になる、つまり、時間は熱が絡んだ事象なんだという。
まあ、ここで説明しきれるほど、シンプルな話ではないので、興味をもった人は、本書を読んで欲しい。だけど、面白いのはまさにここからで、時間の不可逆性は、熱(あるいはエントロピー)と関係しているというロヴェッリの論はそこから、そもそも宇宙の配置に秩序という特殊な状態を見出しうるのは人間の誤解であって、したがって、そもそも秩序から無秩序にいたるエントロピーなるもの自体、物理法則というより人間にとってそう見えているだけのものでしかないということになる。
となれば、そのエントロピーと関係する時間の方も、結局は世界を曖昧にしか見ることのできない人間にのみ有効な法則性だということになる。
で、冒頭の引用になる。
どう? すごくない?
世界を曖昧にしか認識できない人間にのみ、時間という法則性は存在するのだ。
2.物質と記憶/アンリ・ベルクソン
過去は観念にすぎないが、現在は観念――運動的なのである。
西洋における思想、科学の分野で長く議論され続けている心身問題。いわゆる精神と物質の二元論とも深く関係を持つ、両者の分断だが、先のロヴェッリの時間そのものが人間の認知限界から生じているものだとことも含めれば、二元論などはそもそもの問題設定そのものがおかしいと東洋人の僕などには思える。
西洋人ながら、そのあたりに疑問を呈したのが、19世期から20世紀にかけて活躍したフランスの思想家アンリ・ベルクソンで、彼が心身問題を論破するために、導入したのが、記憶や運動のような時間を伴う人間の身体的活動だった。
「物質界を構成しているのは客観対象、あるいはこちらを好んでいただけるならイマージュであり、それらのすべての部分は運動を通じて作用反作用を与え合っている」とベルクソンは言い、事物と人間をつなぐイマージュと運動の関係性を強調する。
この際の運動における時間を、空間的に分割してしまうところに二元論の間違いが生じていることをベルクソンは指摘する。
時間軸のような均質な目盛りの上で展開される時間は実際にはなく、途中で分割して切り出すことのできない運動や思考の一塊の連続したものが本来の時間だ。この連続性において人間と物事は接触しているにもかかわらず、それを視覚的装置で分断可能なものと誤認してしまってきたのだ。
「主観と客観、両者の区別と結合に関する諸問題は、空間ではなく、むしろ時間との関係において立てられねばならない」というベルクソンの示唆にはとても納得感があった。
3.クリオ 歴史と異教的魂の対話/シャルル・ペギー
老いは本質的に有機体とかかわりをもつ。持続の中にある老いは有機的組成の核心部分に取り込まれている。誕生し、成長し、老いること。生成した末に死んでいくこと。大きくなった末に縮んでいくこと。それが全部1つになっている。同じ1つの運動になっている。有機的な、同じ1つのふるまいになっている。
さて、人間に関する時間というものを考えはじめると「歴史」という奇妙なものが気になってくる。
歴史は確かに人が時間的に刻んだ生き生きとした活動とそれに伴う変化の記述ではあるが、ベルクソンが指摘したのと同じような意味で、記述した瞬間、スタティックな空間的なものに変容してしまうからだ。
そこからは詩的な儚さなものも消えてしまうし、上の引用にあるような「老い」という事柄とも相入れなくなる。詩も、老いも、本来の連続性をもった時間と関係しているもので、それがマクルーハンがいうところの「グーテンベルクの銀河系」的視覚偏重の思考空間、文化空間に入ってしまうと見えなくなってしまうのだ。
個人にせよ、社会的な意味での集団的人々にせよ、その遍歴が歴史として記述されるとき、何か視覚的なかたちを成す。このかたちの生成というところにも歴史の不可思議さがあるし、ある意味、より広い意味でかたちの生成とは歴史的なものではないかとも思った。
この本の著者のシャルル・ペギーというフランス人作家は、1909年から1910年にかけて長大な歴史論として書きはじめ、1912年に中断していた執筆を、冒頭以外の大部分を改稿して1913年以降に書き終えている。歴史論として書き始められたが、できあがった本は、小説でもないし、エッセーというには内容が重厚だ。こうしたかたちの形成自体、ある種、歴史的である。
その歴史を著者は、クリオという名のギリシア神話に登場する記憶の女神ムネモシュネの9人の娘のうちのひとりで、まさに「歴史」を司るとされる長女にあたり女神に語らせている。クリオは先に引用した部分の前でこう言っている。「今後も一貫しているベルクソン的持続の名で呼ばれる持続は、有機的な持続であり、出来事と現実の持続でもあるわけだから、本質的に老いを含みもっている」と。
そう、同郷ですこし年長にあたる思想家の時間と有機体の関係を、この著者は受け継いでいるのだ。
4.アンリ・フォシヨンと未完の美術史:かたち・生命・歴史/阿部成樹
なぜなら時間は、その本質において生成であり、歴史とは「可塑的な持続」、すなわち変化だからである。
またしても、時間、またしても歴史である。
シャルル・ペギーとほぼ同時代のフランスで美術史家として活躍していたのが、この本の主人公、アンリ・フォシヨンだ。フォシヨンはそれまで美術史のなかで断続的なスタイルの変遷として語られてきた美術のかたちの変遷を、より有機的で連続したものとして描き直すことを提唱した人である。
フォシヨンは、作品のかたちに注目した人だった。しかし、それは「かたちを固定したものとしてではなく、変容の契機をはらんだもの」としてみることだった。著者は『ドリアン・グレイの肖像』を書いた同時代の作家オスカー・ワイルドを参照しながら、フォシヨンのようにかたちを有機的な変化の契機としてみる姿勢を「この世紀末の作家にとって作品の生を感じ取ることとは、それがもつ形態に変化を見て取ることなのであり、それが『グレイ』の主題であったということになる」と書いている。ここにはまだ詩的なものも、有機体にとっての老いについて視点も残っている(なぜなら『グレイ』は老いない男の物語だから)。ちょうど100年前の感覚なのだが、この時代にはまだ残っていた詩的な感覚がどうやって消えてなくなったのかは、2020年に考えたいことの1つだ。
5.進化の意外な順序/アントニオ・ダマシオ
想像力をはばたかせて、単に形状や空間内の位置だけでなく、音(穏やかなもの、耳障りなもの、騒々しいもの、かすかなもの、近くから聞こえてくるもの、遠くから聞こえてくるものなど)のマップや、触覚、嗅覚、味覚に由来するマップを考えてみよう。(中略)こうした複雑に絡み合った神経活動の記述、すなわちマップは、私たちが心のなかでイメージとして経験するものに他ならない。各感覚モードのマップは、イメージ形成の基盤であり、時間の経過に沿って流れるそれらのイメージが、心の構成要素をなしている。それは複雑な生物に生じた革新的な一歩であり、ここまで述べてきた身体と神経系の連携の結果なのだ。
遍歴が歴史として記述されることでかたちを成す。それが人間の記述する歴史にのみいえることではなく、より広い範囲に拡張していえることだとしたら、どうだろう。
著名な脳神経学者であるアントニオ・ダマシオが描いた、この生物進化についての仮説を述べた一冊は、まさにこの記述というものを進化のエンジンの中心的な位置にもってきているのが面白かった。
もちろん、上の引用にもあるとおり、この場合のかたちの記述とは何も視覚的に捉えた狭義のかたちではなく、音や匂い、熱や硬さや質感などの触覚的なかたちも含む、ベルクソンがイマージュと呼んだものに近い。そのイマージュは、ユクスキュルが環世界といった考えを提唱したように、生物それぞれでまったく異なるし、だから人間の環世界には時間が存在しているように見えるのだろうけど、とにかく生物は生きるために外部のありようのかたちをイマージュとして記述=認知する。そのためのしくみとして、生物は早い段階で神経系(あるいはそれの代替になるような機能)を進化させ、そのことで種としての進化を加速させもしたし、多様化させもしたというのが、本書でダマシオが展開する仮説である。
こうした神経というイメージ装置をからだの進化とともに進めてきた生物の一種として、心と身体が分断しているなんて考える人間はまったくどうかしていると言えるのではないかと思うわけだ。
6.流れといのち 万物の進化を支配するコンストラクタル法則/エイドリアン・ベジャン
生きるべきか死ぬべきか―― それは問題ですらない。生命は自然界における普遍的傾向だからだ。生命は自由を伴う物理的な動きだ。動くもの、流れるもの、突き進むものはすべて、配置や道筋やリズムを変えることによって、しだいに動きやすくなる傾向と、動き続ける傾向を示す。進化するこの流動構成とその終焉(死)こそが自然であり、生物・無生物の2領域を網羅する。
かたちと進化の関係をさらにさらに拡張しているのが、このエイドリアン・ベジャンが提唱するコンストラクタル法則だろう。なにしろ、べジャンは「進化とは、単なる生物学的進化よりもはるかに幅の広い概念だ。それは物理の概念なのだ」というのだから。べジャンにかかれば、河川流域の変化、貨物車両や動物の大きさの変化、短距離走者や野球のピッチャーの身体の大きさの変化も、どれも物理学的に予測可能ということになる。「コンストラクタル法則は生命を、生物界と無生物界の両方の領域で自由に進化する動きと定義している」のだ。
スポーツ選手がトレーニングにより技能を習得することも、生物進化と同じようにデザイン変更であるとべジャンはみる。それは河川の流れと同様に、より最適な流れが可能になるよう行われるデザイン変更であり、変更が一度起これば元に戻らないという意味で進化や河川の流れの変化と同じだ。そして、よりよい流れを実現sるという観点から、どのような変更が起きえるかはある程度予測可能になる。べジャンは、コンストラクタル法則は「進化の物理法則は事象を予測するものであり、記述するものではない」とし、それが従来の「自然界の進化に関する他の見方との大きな違い」であるとしている。
こうした考え方の背景に、べジャンは「社会構成に関する科学的論説が、静的なもの(構造、結びつき、接続ポイント)から動的なもの(動き、交流、流れ、進化)へと変化している」としているのだが、まさにその変化のひとつとして挙げられるのが、次に紹介するラトゥールのアクターネットワーク理論だろう。
7.社会的なものを組み直す アクターネットワーク理論入門/ブリュノ・ラトゥール
愛でさえも、いや、とりわけ愛は、外からやってくるものとして、つまりは、内なるものを創り出す奇跡的な贈り物として考えることができる。もちろんのことながら、このことは、詩や歌や絵画で取り上げられてきた。天使、ケルビム、キューピット、矢といった、無数の従者たちについては言うまでもない。その客観的存在―― そう、モノ的だ―― も考慮に入れるべきである。愛でさえも、トレーニングルームや司令部、工場の場合と同じように、移送する装置、特別な技法、導管、装具がなければならない。
生物だけでなく有機的なものでないモノもより良い流れを目指して形態変更されていく。もちろん、そのモノとは必ずしもシンプルな構造をしているものばかりではなく、「社会」と呼ばれるような複雑な組み合わせで構成されているものもあるが、それも形態変化の対象物であることに変わりはない。しかし、ひとつ異なることがあるとすれば、その場合、元より何々と名指しできるような状態を必ずしももつのではなく、形成されてはじめて名指されるものとなるものがあるというのが、ラトゥールが相手にするような「社会的なもの」の場合の特徴だろう。それゆえにラトゥールは、既にある社会的なものを前提に思考する既存の社会学に批判的だ。それは新たに生成されてくるものの生成のありようを正しく思考し記述することができないからだ。
ラトゥールがアクターネットワーク理論(ANT)を提唱するのは、それゆえである。ANTは固定化した循環を描くことを目標にするのではなく、新しく物事の循環や連関が生じてくるさまを描くことを目的としている。事後の結果だけを見るのではなく、まだ何が起こるのかが確定していない事前――「変化」の前、「生成」の前、「連関」の前――のプロセス、循環に目を向けるのだ。しかも、ラトゥールの社会学が描くのは人間の動きだけではない。「ぜひとも、人間をモノとして扱い、少なくとも、ささやかな〈議論を呼ぶ事実〉に授けてもよいぐらいの実現性を与え、できる限り人々を具体化、そう、物象化してほしい!」と書くラトゥールは、モノも同時に視野に入れる。さらにラトゥールは、他で批判しているように、社会と自然を区別したりしない。エーテルや神の見えざる手のような、得体の知れない超越的な存在を探求から排除するANTでは、物事が起こる現場を、上下やウチソトの階層構造がないフラットな関係性のネットワークとして理解しようとする。ポストヒューマンの時代に、どう思考し、どう記述をするかを考える上で示唆に富む本だった。
生と死とイメージと
8.イメージ人類学/ハンス・ベルティンク
紋章的思考法は「自然人格を第2の身体と取り替える」という意味で、「法人格を作り出した」のである。したがって、紋章でいえるのは、まず「現前するために、誰かが持ち運ぶか、どこかに取り付ける」必要があり、次に、紋章は権利だけでなく、所有者がそうした権利をもつ法人格であることの証明でもあったということである。これはそれなりの変更を加えれば、肖像にも当てはまる。今日われわれはあまりにも性急に記号やイメージをその支持体メディアから切り離そうとする。そして、それらの使用法の重要な意味を受け取ろうとしない。しかし、紋章盾や肖像画に法的性格を与え、それらの記号やイメージの意味を作り出したのはほかでもないその使用法であったのだ。われわれ近代人のまなざしはモデルとの「類似性」の観点から表現力に注目するが、王家の死者崇拝において仮象身体、つまり身体の代役が果たした役割によってわれわれになじみの「代理=表象」の概念は、それ以上に表現の権利の意味を含むのである。
美術史家であり、メディア学の理論家でもあるハンス・ベルティンクによって2001年にドイツ語で出版された本。ドイツ語の原題は、"Bild-Anthropologie"で、Bildはドイツ語で「イメージ」と「絵」の両方を意味する。この本でのBild、絵のほうの意味で使われるというより、イメージ=像という意味で用いられている。像という訳語が用いられるのは、それが単なる視覚像だけを指すのではなく、触覚にも関係しうる彫像や、そもそもの人間などの身体なども視野に入れているからだろう。イメージといえば、僕らにとっては視覚的要素がとても強いものだ。しかし、ベルティンクによれば、太古の人類にとっては死者崇拝の範型であって「死者は失った身体を像(イメージ)と交換し、生者たちのあいだにとどまる」という意味で、触覚もともなうより統合された知覚を刺激するものだったという。そう、今年も「視覚偏重」の社会というのも、引き続き僕のテーマだったわけだ。
この本を読んで、あらためて感じたことは、イメージ観の変容は、人間の本質そのものの大きな変化と相関しているということだ。死者の身体を代理する像を日常の生活空間において常に死んだ祖先と語らいながら崇拝し続ける人間の本質と、生活空間から遠く離れた墓所に祖先を隔離してせいぜい年に1度の墓参りをするだけの現代的な人間の本質は大きく異なるだろう。
生命観、生と死の捉え方、人間と動物や自然との関係の理解、あらゆる面で異なる人間観がイメージの捉え方の違いに反映しているのだ。「イメージの場所」と題した第2章の冒頭でベルティンクは「人間がイメージの場所であることは疑いない」と書いている。その理由は「人間は自然物としてイメージにとっての生きた器官だからである」。ベルクソンのいうイマージュと重なるところだ。そして、これゆえに時間もまた生じる。死んだ者をイメージとして残してその存在を感じる人間と時間という感覚をもつ人間を重ね合わせて見つめていたいものだ。
9.影の歴史/ヴィクトル・I・ストイキツァ
ひとつだけ確かなのは、人間の影の輪郭を初めて線でなぞった時に絵画が誕生したということである。
そう。だからこそ、絵画は不在の者を愛しむ意味でその輪郭をなぞったところから生まれたのだ。そこには不在者の代理としてのイメージがある。影。対象物によって光が遮られた部分を示す、ネガとしての図像。「西洋の芸術表象の誕生が「陰画=否定(ネガティヴ)」にあるということは、きわめて重要だ」と著者のストイキツァは書く。en•light•ment=啓蒙=蒙(くら)きを啓(ひら)くいう言葉に代表されるように、蒙(くら)いものに光を当てて明らかにすることこそが絵画をはじめとする視覚芸術、イメージの役割と考えられてきた近代以降の芸術観を、影という正反対の視点から見つめ直す試み。読んでみてとても興味深かった。
古代ギリシアのコリントスの町シキュオンの陶器師ブタデスの娘が、恋人である青年が戦争で海外に旅立たなくてはいけなくなったとき、ランプの明かりに照らされた壁に映った彼の影の顔の輪郭をなぞったというのが、大プリニウスが讃える絵画の起源だ。もちろん、ラスコーやアルタミラの洞窟壁画を思い起こせばわかるように、これは単なる伝説でしかない。しかし、重要なのは真実かどうかということ以上に、絵画が影をなぞることから不在者の影を形見として残すことからはじまったと言い伝えられたということの方だろう。
「エジプト同様ギリシアでも、像は神と死者の代役を務めるものであったということは、古代エジプトやヘレニズム時代のギリシアを研究する人々の認めるところである」と著者はいう。「死者の代わりを務める像は生きているものと見なされていた」のだそうだ。
人間の分身とみなされた黒い影。
そうであるがゆえに、なぞられた影の輪郭は不在の恋人の形見となりえた。
それが似顔絵でないことが重要なのだろう。残したいのはコピーではなかったのだから。
10.アルベルト・ジャコメッティのアトリエ/ジャン・ジュネ
さきほど、「……死者のために」と言ったが、それはまた、その数えきれない死者たちの群が、彼らが生きていたときには、骨で立っていたときには見ることのできなかったものを、ついに見るためにという意味でもある。だから、芸術が必要なのだ、流動的な芸術ではなく、反対に、とても硬質な芸術が。それでいて、死者の領域に侵入できる、影の王国のおそらくは多孔性の壁に浸透することのできる奇妙な力を備えた芸術が。
ジャコメッティと交友関係にあったジュネが描くジャコメッティ像。
「死者たちの民に、ジャコメッティの作品は、1人1人の人の、1つ1つの物の孤独の認識を伝える、そして、この孤独こそが、私たちの、もっとも確かな栄光なのだということを」とジュネは書く。
遠くにあって空気のなかに消え入りそうな、そのギリギリ残る輪郭を浮かび上がらせるようなジャコメッティの彫像は、旅に出る恋人の輪郭をなぞった娘と同じ手つきを感じる。それは死者の影であり、代理である。
ジュネはそのエッセイのなかで、あるとき、列車で乗り合わせた、汚らしく意地悪そうな老齢の「旅客を眺めていた私は、どんな人も他の一人と等価であるという啓示を得た」という自身の体験を描いているが、このジュネの「どんな人も他の一人と等価である」という感覚こそが、ジャコメッティのすべてを削ぎ落とされて最低限のものだけになった細長い人間の輪郭と重なりもする。
その輪郭において人間は誰しも等価である。
1949年という、まだ第2次世界大戦の記憶も残るであろう時期に書かれた「犯罪少年」には、こんな記述もある。
「少年徒刑場では、フランスの監獄では、昔から、少年たち、人間たちが、拷問者に責め苛まれてきたことには誰も気づきません。超人間的な、あるいは単に人間的な正義に照らして、一方の人々は無実であり他方の人々は有罪であるかどうかなど、どうでもよいことです。ドイツ人の眼には、フランス人は有罪でした。監獄で私たちはたっぷりと、それも卑劣なやり方で虐待されたので、あなた方の拷問が、私にはうらやましいのです。というのも、それは私たちのやったことと同等であり、それ以上ですから」。
いま本気で、持続可能性を考えようとすれば、このジュネのいう等価性を理解する必要があるだろう。ようは、そんなに簡単に、無罪/有罪、良い/悪いを分けることはできないということを認めない限り、このさまざまな要因が複雑に絡まりあって世界の活動の持続を危うくしている危機を救うための思考や議論などはできるはずがないのだから。
それはブリュノ・ラトゥールが社会学に政治を取り戻す必要性を訴えたのと同じ理由だ。ジュネの描く犯罪者たちがなぜ美しくみえるのか(犯罪が美しいのではなく)を僕らは考える必要がある。
11.花のノートルダム/ジャン・ジュネ
その瞬間、長い英雄的人生が始まり、それが丸一日続いた。強い意志の力で、彼は凡庸ななりゆきを避けることができた――精神を超人的な領域に保ち、そこで神となり、自分の行為が道徳的制限から脱する特異な世界を一気に作りあげたのだ。彼は自分を崇高なものにした。将軍となり、司祭となり、犠牲を捧げる祭司となり、聖務の執行者となったのだ。命令し、復讐し、生贄を差しだし、奉献したのであって、ソニアを殺したのではなかった。彼は予想外の本能を用いたこうした技巧を駆使し、自分の行為を正当化したのだ。
ジュネが31歳のとき、獄中で書いた処女作。
この小説で描かれるのは、社会の裏側の世界、昼の光の世界に対する夜の闇の世界であり、男娼、オカマ、ヒモ、男色家、スリや万引の常習犯、クスリの売人、強盗、殺人犯などなどが織りなす街の景色、そして、刑務所の生活だ。ジュネという服役者は、書店で本を盗んで捕まったりしている。
作品のあらゆるところにジュネの知性が感じられるが、それがただの知性として終わらず、穢れや苦痛、醜怪さや不快さなどをともなった生と結びつけられるところにジュネの作品の美しさはある。
「神が魂に入りこむ方法は――むかし、イエズス会の僧に聞いたのだが――千差万別だからだ。金粉、白鳥、牡牛、鳩、その他いろいろ、何にでも姿を変えて入りこむ。公衆便所(タッス)でおかまと一発やるジゴロにたいしては、神は神学書にも載っていない方法を考えだして、タッスに変身するかもしれない」と、こんな表現がある。「タッス」は16世紀のイタリアの詩人トルクァート・タッソのフランス語読みだ。ゲーテにその生涯を作品の題材にされるなど、ヨーロッパ文学史において著名といえるタッソだが、やはり犯罪と放浪を繰り返してジュネの筆からその名が出てくると心が動く。しかも、それが公衆便所を示すタッスと並べられるのが小気味良い。
この小説には、血をはじめとする体液のどろっとした湿り気ある触感や、さまざまな香りや臭いが染みついている。視覚偏重の過度に衛生的な現代社会が排除し隔離し無きものにしようとしたがる、触感や臭いといった生々しいものがこの言語表現による作品には充満している。どこまでもドロドロ、ベトベトして、強い臭気といやな熱気に溢れた読み心地があるのだ。
「彼女はミニョンの性器のお世話に余念がない。愛情たっぷりにそれを撫でさすりながら、すけべな正直者たちが好む別名で呼びかける。「おちびさん」「ゆりかごの赤ちゃん」「飼葉桶のキリスト様」「熱いちびすけ」「きみの弟」。ディヴィーヌがはっきりと発音しなくても、その言葉の意味は明白だ。彼女の心はそれらの表現を文字どおりに受けとめる。ミニョンのさおは、彼女の純粋な贅沢の対象であり、純粋な贅沢品。彼女だけにとって、ミニョンの全体なのだ」。
全体という言葉をジュネの巨大な重力をもった創造力が歪ませる。生物的な熱と湿り気と臭いを凝縮させた、ブラックホールのような引力をもった「さお」に向けて時空は大きく歪み、そこに向かってすべてが収束させられるのだ。
明らかに、それはアインシュタイン以降の物理宇宙で書かれた小説である。
そう。ジュネは無意識だが、人間特有の時間意識を超えている。
12.エジプト人モーセ/ヤン・アスマン
モーセ論争は、(異教徒の)神々を歴史化するという方法を啓示にまで拡張して、啓示を、エジプトの儀式や神観念の転用、それどころかエジプトの密儀の漏洩に変えた。啓示はいまや、真理をエジプトからイスラエルに移譲したものと解された。しかし最後の一歩を思い切って踏み出し、真理そのものを歴史化したのは、フロイトが最初だった。彼は「唯一の偉大な神」を、あの太古の「比類ない人物」に還元した。「この人物は当時、途方もない存在と思われたにちがいなく、そして神性にまで高められて人々の思い出の中に回帰してきたのだ」。宗教の創唱者にして民族の創建者としての「偉大なる男」というコンセプトも、この論争にとってもフロイトのモーセ像にとっても、等しく中心的である。それゆえにフロイトはモーセの人身にこだわり、彼を「モーセという男」と呼んでいる。
イメージが死者の代理をする。一方で死者なきイメージが歴史のなかを断続的に浮かびあがってくることもある。ユダヤ教、キリスト教、そしてイスラム教において最重要な預言者として知られるモーセ。そのイメージも歴史のなかで、都合よく使われてきたといえる。モーセの名のもとにさまざまな捏造が行われた。
興味深かったのは著者のヤン・アスマンが、モーセを巡る西洋の記憶の歴史的な移り変わりのうちに、自然と文化あるいは非人間と人間の二項対立を見いだしていたことだ。モーセが一神教を確立する前、宗教間には対立はなかった。アスマンはその頃の宗教に「宇宙即神論」という名称を与えているが、これは後にスピノザが「神即自然 (deus sive natura) 」といって一元論を唱えたものに近い。神は自然という形で顕現しているという汎神論的な考えで、古代エジプトの宗教はそもそもこうした思考に基づいていたらしい。
この宇宙即神論において、「たとえ文化や言語や風習がどれほど異なっていようとも、諸宗教には常に1つの共通基盤があった」とアスマンはいう。そして、「それゆえに宗教は、文化間の翻訳を可能にするメディアとして働くこともできた」。神は、自然は、コミュニケーションの媒介だった。「神々は国際的だった。なぜなら神々は宇宙的だったからだ」とアスマンは書いている。
これに対して、モーセの名の下に創唱されたと考えられている一神教はこれとは異なる。十戒に、主が唯一の神であること、偶像を作ってはいけないこととされるように、モーセの神は超越的かつ絶対的である。それは自然として顕現することはなく、モーセのような者を通じての啓示としてのみ現れる。
実は、モーセの前にも一神教があった。古代エジプト第18王朝の王アメンホテプ4世は、それまでの多神教を廃止し、アテン神=太陽を唯一の神とするアテン教を創唱し、自ら、アテン神と交信できるアクエンアテンを名乗ったのだった。
一神教であるという点で共通しているものの、明らかに異なる面もあり、それはアテンが太陽そのものであり、太陽の力が様々なものの生成を司っていると考えた点で、モーセが否定した宇宙即神論的な性格を色濃く持っていた。
ここではまだ自然と人間の分離は見られない。しかし、その契機がここにあったのも事実なのだ。アクエンアテンにとっては、自然と人的なものが統合された宗教でも、民にとってや、王に敵対する人々にとってはそうではなかったのだろう。だから、より政治的に、そして、文化的に「使える」宗教が必要だったのだ。
「神的なものとは、世界を内から生み出し、動かし、生気を与える自然だった。この神性は国家を支える宗教とは結び合わせることができなかった。それゆえ、人間により近く、人格性をもっと備えた神々が必要とされた」とアスマンは書いている。
13.イシス探求/ユルギス・バルトルシャイティス
音声や意味論による語源、直接のまたは三段論法的類型学が、いろいろな文明の中でエジプト現象を打ち立てるので、ギリシアだけを源泉として支えられた歴史の骨組みは、それぞれ、自分の領域内で自分自身の方法によって成り立つのだが、しかし同じ1つの光景を構成してしまう。その寄せ集めは抽象の中で作られる。つまり、幻想の歴史はいわゆる歴史を越えて、時間の現実的尺度を無視した年代の要素を用いて作られ、世界地図の自然の境界を越えて人間の地図が仕上げられるのである。
記憶というものは、こうも人間の考えや行動に影響を与えるものなのかと思う。
個人にとってだけではない。社会にとって、いや時代を越えて、ある民族に対してという規模でさえ、記憶あるいは情報というものは、これほどまでに大きな影響力をもつものなのかと感じる。
記憶によって保守的になるというだけではない。新たなことを主張し、行う上でのエビデンスとして記憶を利用しようととすることも行われる。あとの時代に冷静になってみれば、ありえないと思われる記憶の捏造が嘘のように信じられ、歴史が、思想が、幻想と区別がつかない領域へと誘い込まれてしまうのだ。
時はまさにフランス革命前夜。1773年に刊行した『原初世界の分析および近代世界との比較検討する』と題した著書で、フランス人牧師のクール・ド・ジェブランは、「初期のパリ住民の信仰とエジプト神話の関係について、奇妙な説を述べている」とバルトルシャイティスはいう。
その説では「パリは河中にあって航海に意を用いていたため、船を市のシンボルとし、航海の女神イシスを守護女神とした。この船こそは、イシスの船、すなわちこの女神のシンボルであった」とされた。
イシスはエジプトの女神だ。場所と、時代を超えて、東方の女神がパリの女神とされた。「船はバリス Baris と呼ばれ、これがガリア北部の強い発音のせいでパリ Paris となったのだ」と。
イシスが現れたのは、パリだけではなかった。同じフランスでは、アルザス地方に、そして、ドイツにも、イシスは夫である神オシリスとともに現れた。ドイツでビールの醸造法を教えたのはイシスということにされた。
さらには、ヨーロッパさえ超えて、インドや中国、さらには大西洋を越えて、メキシコやペルーにも現れたという。中国においては、漢字とエジプトの象形文字が関係づけられ、中国の伝説の帝王である伏羲は『易経』で伝えられるように文字をつくったことで、トート、メルクリウスに重ねられる。果ては中国の重層化した塔は、ピラミッドのバリエーションと解される始末だ。
ここまで来ると、もうやりたい放題なのだが、このように論じているのは、中国人でもメキシコ人でもなく、パリやドイツにイシスやオシリスを見出したのと同じ17世紀、18世紀のヨーロッパの研究者というのが興味深い。ときは、真実や平等などを追い求めたフランス革命の時代、啓蒙思想の時代なのだから不思議だ。モーセの場合の捏造と変わらない。政治的な理由でさまざまなイメージが都合よく捏造されたのだ。特に宗教的なイメージが。
14.ローマ百景Ⅰ・ローマ百景Ⅱ/マリオ・プラーツ
屋上テラスからクーポラや塔を見るときに、それらが野の草の花や茎と同じほど儚いものだと思うと、胸が締めつけられる。それらを芸術が、あたかも神自身の作品であるかのように、永遠に聖化したと、不遜にも私たちは思っていたが、それらはわれらの姉妹である動植物と同じ、移ろいやすきものにすぎない。
イメージが捏造に用いられるのは、そのイメージ自体が朽ちて風化していく運命にあるからでもあるだろう。死者の輪郭をなぞった線も、そのなぞった本人の死とともに消えて、忘れられていくように、物質化されたイメージも長い時代を経れば風化し、その元の意味を失っていく。忘却と喪失につけ込んで、みずからの利害のためにそれを利用する者が現れる。
それでも残る遺跡的なイメージの痕跡に、人はもはや失われた意味への思いを馳せるのだが、そんな思いがこみ上げやすい場所がさまざまな時代の遺跡が積層して残る古都ローマであろう。
そのローマという複数のイメージの亡霊が積層してあるような都市が工業化の波にもまれてその表情を変えていくさまを嘆くのが、この本の著者マリオ・プラーツだ。ロマン主義を中心に、文学・芸術を幅広く論じる文化史家であるプラーツは人生の大部分をローマに暮らし、その都市自体が伝える文化の歴史を紡いできた。そのプラーツがだんだんと増え始めた自動車がすっかり街の様相を変えてしまいはじめたのを悲しむの本書の主となるトーンを作っている。
「動いている」と、昔日の人々は我を忘れて叫んだのであり、彼らが「動いている」と言ったとき、彼らは第七天に触れたように感じたのである。
まだ電灯などのない時代に夜の美術館で松明の炎にゆらぐ彫刻作品を見つめる人々の様子をプラーツはそう描く。まわりに存在しているものがあたかも生きているかのように感じられるとき、人はそれらの対象をいつもとまったく別物に思うのだろう。それは時には畏怖の対象になり、また時には悲哀の対象になるのではないだろうか。
揺れる松明の炎を灯りにしてみる彫像がもたらす効果は「現今の人工的な照明が意図している」ものとは「まったく別のものである」とプラーツはいう。僕らが普段美術館で慣れ親しんでいる「人工的な光に要求されているものは、まさしく、世界の中でより自然で、よりロマン主義的ではない光、真昼の公平に広がった光として機能するものにほかならない」。啓蒙の光であり、恋人の輪郭がなぞられたろうそくの明かりではない。その近代的な光の下では、もはや先の引用中にあったような「動いている」などという幻視は起こりようがない。しかし、幻影を見せるという機能はもしかすると芸術作品がもともと持っていた機能なのではないかとも思う。だからこそ、イメージは死者の代替になったのだろう。
失われていくのは何も自動車によって埋め尽くされる前の、美しいローマの街だけではないはずだ。電灯の眩しい光に照らされるようになってイメージはかつて恋人の死を嘆いたり、ジャコメッティが美しくも儚く象ったりしたものとは異なるものになってしまったのではないだろうか。
15.エコラリアス 言語の忘却について/ダニエル・ヘラー=ローゼン
ギリシャ語の「わたし[エゴ-]」は、インド=ヨーロッパ諸語のそれに相当する言葉がそうであるように、中性名詞eg[h]omから派生しているが、これは単に「ここにあること」(Hierheit)を意味している。元々、「わたし」は、特に実体を持たない、「ここ」にあるもの全てを指していた。生物無生物を問わず、人間であろうとなかろうと適用され、口語でも書き言葉でもそう示すことができる。
イメージがそれを担うメディアとしての物質が朽ちるとともに忘却されるように、言葉もまたそれを担うメディアとしての人々とともに忘れられていく。失われた言語がたくさんあることは、それほどそうした知識を豊富にもたない僕らにしてもなんとなくはわかっている。しかし、言語がいつ生まれ、いつ死んだかの特定は生物の場合のようには行えないというのが、この本の著者のヘラー=ローゼンの指摘だ。
例えば、ある言語を話す民族の最後の生き残りのひとりが死んだ時点が、その言語の死かというと、そう単純ではない。その人がひとり残された時点で、その人はその語を使える話し相手を失っていることになるので、その語を使う機会がない(独り言を除けば)。しかし、それは残りひとりになるのを待つまでもなく、残された人たちが互いに離れて暮らしていて会話の機会がなくなれば同じことである。どの時点でその語が「死んだ」と言えるかは決定しづらい。
死の特定もむずかしいが、誕生となるとお手上げである。
「例えば、ヘブライ語はいつアラム語になり、古代ローマの路上で話されていた口語ラテン語は、いったいいつ、わたしたちが「イタリア語」と呼ぶ言語になったのだろうか」と著者は問う。「言語の死の年代を正確に推定しようとしている言語学者でさえも、言語の誕生について意見の表明を躊躇する」とヘラー=ローゼンは書いている。
言語の誕生や死の特定はむずかしくても、言語が常に変化し続けていて、いつの間にかすっかり失われたように感じられる言語が存在していることは確かだ。
モンテーニュはこの言語の変化について自覚的だった。その有名な著『エセー』において、彼は「この言語は毎日わたしたちの手からこぼれ落ちていくのであり、わたしが生きている間にもすでにその半分は変わってしまった」と書いている。どこである言語が「言語であることを止めた」かを特定することはできなくても、ある時振り返って過去のいずれかの地点と現在との2点間の差分としてみれば、「言語であることを止めた」ことを知ることはできる。いつ口語ラテン語がイタリア語やフランス語に変化したかはわからなくても、どこかの瞬間に「新しい言語を採用した」とか「かつて自分たちのものであった言語を失ってしまった」ことに後から気づくような閾が言語の変化の流れのうちには存在している。
「言語の一貫性は、その前に存在した様々な言語と関係を結んだり離したりする忘却と記憶の形成の中にある」とヘラー=ローゼンがいうことは、先のモーセやイシスのイメージの捏造が起こるのと同じことなのだろう。
人類の危機と宇宙
16.セレンゲティ・ルール/ショーン・B.キャロル
がんが骨髄や肺を攻撃すると、体内の酸素の供給が不足する。消化器官を攻撃すると、栄養素が不足する。肝臓や骨を侵略すると、血流に含まれる主要な化学物質の微妙なバランスが崩れる。それと同様、藻類のかたまりは、湖の必須の機能を阻害することでそこに住む生物を暮らす。藻類が生産する毒素は、魚類やその他の生物にとって非常に有毒であり、食物連鎖が大きなダメージを受ける。また、死んだ藻類は湖底に沈み、それを分解する細菌の活動によって湖中の酸素は枯渇する。すると魚類や他の生物は窒息し、水質の変化した、生物が生息できない不毛の領域が出現する。
サステナビリティも2019年のテーマの1つだった。
なので、この自然の調整機能とその鍵を握るキーストーン種について紹介しているショーン・B.キャロルの1冊もとても興味深く読んだ。
「生命はいかに調整されるか」という副題をもつ、この本は、人体にしろ、より規模の大きな生態系においてにしろ、異なる有機物間、あるいは生物間での調整が機能しているか機能しなくなっているかによって、病気や環境問題などが発生したり治癒したりということが起こるということと、その基本的なメカニズムについて紹介している。
その一例がアメリカ、イエローストーン国立公園におけるエルクの大量発生による草木類の大打撃だ。
イエローストーン公園では1920年代以降、ポプラやケヤキなどの植物が減少するという自体が起きていた。調査してみると「ほぼすべての木は樹齢70年を超えており、85%は1871年から1920年のあいだに成熟していた。1921年以後に育った木は5%にすぎなかった」。大量に増えたエルクが若い芽を食べてしまうので、1921年以降、樹々が育たなくなったのだ。エルクの大量発生は、オオカミの絶滅に起因していた。その後、新たにオオカミを環境に投入したことで、エルクの数は減り、植生は戻った。
この場合のオオカミを環境の調整の鍵を握るキーストーン種と呼ぶが、著者が指摘するのは、現在の地球における最大のキーストン種は間違いなく人間だということだ。20世紀は人間が自分たち自身の健康の維持のため医療技術を高めることで生活を向上させた時代だが、この21世紀は環境保全の技術を高めることで生活向上を目指す時代だと言っている。まさにそうなのだろう。
17.地球外生命と人類の未来/アダム・フランク
銀河系における先進文明の存在を示す証拠の欠如は、地球だけが生命を宿す惑星であることを意味するわけではない。フェルミのパラドックスの対象は、私たちのものと同等、もしくはそれより進んだ高度な技術を発生させた文明に限られる。宇宙にあるどんな世界にも、微生物や甲殻類、あるいは恐竜すら存在しているかもしれない。したがって、地球外文明を発見できないのなら、進化の過程でそれを生まないようにするフィルターが存在するに違いないと考える科学者もいる。言い換えると、宇宙には私たちしか存在しないのなら、何らかの進化の壁が、他の惑星が人類の文明レベルに達するのを妨げているということだ。
宇宙には膨大な数の星があり、そのなかには地球と同じように、生命を宿らせる可能性がある環境にありそうな惑星、生命の存在が可能となる状態=ゴルディロックスゾーンにある惑星は、なんと100億×1兆個も存在するというのだ。それなのに、僕らはいまだに自分たち地球の生命体以外の生命体に出会ったことがない。
それは何故か?
その問いに、人類が地球外生命体の存在を見つけられないのは、技術文明が持続可能性がきわめて低いからではないか、という仮説を提示しているのが、本書の著者アダム・フランクだ。
「もしかすると宇宙は、長期にわたって持続可能な技術文明を生まないのかもしれない。宇宙の全歴史を通じて存在してきたあらゆる系外惑星を対象にしても、そのような文明はうまれなかったのかもしれない」と著者は問う。
本書で著者は、彼のチームが、惑星とそこに住む技術文明を持った生物の数の関係を数理モデルを用いて分析した結果を紹介している。
その結果は4つのパターンだが、それが示すのはおそろしい結果だ。4つのうち、2つは絶滅する。残りの2つは絶滅こそしないが、少なくともそのうちの1つのパターン「集団死」はその名が示す通り失うものが大きい。
著者は「私たちは、生物圏と文明を相互作用し合う惑星システムの一部としてとらえるよう理解を深めていく必要がある」という改心の方向性を示す。25億年前頃に起こったとされる、ほとんど酸素のなかった地球に大量の酸素を発生させた、大酸化イベント(GOE)を例に生物が環境に影響を与えないなんてことはそもそもないのだという。
鍵を握るのはまたしてもエントロピーだ。「エネルギーをまるまる有用な仕事に変換することは不可能であると、熱力学第二法則は教えてくれる。つねに廃棄物が生じるのだ。そのためいかなる惑星のどんな生命であろうと、エネルギーを費消すれば、その形態を問わず必ず廃棄物が生じ、蓄積した廃棄物は、惑星システムへとフィードバックされる」。
著者は、惑星の状態を、熱力学第二法則の観点から、5つのクラスに分け、人新世に入った地球の状態を、クラス4を抜け、クラス5に入るか、それとも、そこに至らず絶滅の道を辿るのかと問いかけている。
僕らは再び、かつてのエジプトのファラオ・アクエンアテンのように考え、振舞う必要がある。
18.バナナ剥きには最適の日々/円城塔
ここで彼女の存在の稀薄さを羨んだり憐れんだりする必要はない。お互い様と言うべきか、彼女たちの方から見れば、僕らの方が存在していないのだから。僕にとって彼女がただのデータであるのと同様に、彼女から見た僕はただのデータだ。ここには2つの宇宙があって、間は糸電話で繋がれている。モナドの窓はビットに対して透明なのだ。僕たちはビットでもって相手が人間かどうかを判定するが、正解もまたビット以外では伝達できない。宇宙には裏と表があって、どちらの側も自分の乗っている方が表面だと主張している。
今年は何冊か円城塔さんの小説を読んだ。円城さんの小説は科学と文学の橋渡しをしてくれるので好きだ。この『バナナ剥きに最適な日々』という短編集もいろんな示唆に富んでいた。
表題作は、先のアダム・フランクの本の内容を彷彿とさせるような、宇宙に地球外生命体を探索にいく無人の人工知能搭載の宇宙探査機が主役の作品だ。
ところが、この探査機、自分のミッションに対して「宇宙人とかいようがいまいが、どうでも良いのじゃないか」と投げやりだ。ただ、そこには彼なりの事情がある。「宇宙人って一体何かというのが全然わからないという事情が」。だから、彼はこう問うのだ。「何をみつければそれを宇宙人そのものだと、あるいは宇宙人がいる証拠と考えてよろしいのか」と。
同時に、それは彼自身についての問いでもある。自分のミッションすら理解していない自身はいったい何者なのか。仮に宇宙人を見つけたとして、すでにはるか遠く地球から離れてしまった状態で、見つけたことをどう報告すれば良いのか、報告して何なるのか、と。
この問題は「コルサタス・パス」という別の短編でも変奏される。
上に引用したのが、その一部だが、別々の場所と時間にいながら通信によって相棒=ペアとしてともにミッション遂行のため行動する男女は、互いに相手の存在を人間か、それとも非人間かと問い続けることになる。それは人工知能を搭載した宇宙探査機の自省と同じ種類のものだ。情報でできた知性と情報で思考する人間という知性に何の差があるのか。
こんな記述もある。
「コムのあちらとこちら、どちらが人間であり、他方が宇宙人の発信した人間向けのメッセージなのだと彼女は言う。ただそのメッセージはあまりに人間用にチューンされすぎていたために、自分のことを人間なのだと思い込むというおまけもついた。つまりそのメッセージは、相手の方こそメッセージだと主張する程度には賢く設計されていた」と。
ポストヒューマンの時代、自分たちと一体となった環境、そして、自分たちそっくりになりはじめた情報など、人間はさまざまな種類の非人間たちとともに暮らしていくことになる。
19.三体/劉慈欣
いまぼくらの目の前にあるすべては、貧困の結果だ。でも、だったら豊かな国はどうだ? 彼らは自国の環境だけを守り、汚染源となるような産業は貧困国に移転する。たぶんあなたも知ってるだろうけど、アメリカ政府は最近、京都議定書の批准を拒否したばかりだ。……全人類が同じなんだよ。文明が発展しつづけるかぎり、ぼくが救おうとしているツバメも、そのほかのツバメも、遅かれ早かれみんな絶滅してしまう。時間の問題でしかない。
たまには本格的なSF小説を読んでみるのもいい。この『三体』も楽しめた。
ネタバレになるのであまり詳しくは書かないが、この小説、アダム・フランクの本とも、『セレンゲティ・ルール』とも、『バナナ剥きには最適な日々』とも、内容が関連している。人類は滅亡の危機にありそうだし、地球環境は現実同様に破滅に向かっている。
引用した箇所について。人がツバメを絶滅に追い込んでいる。それは何もツバメを一羽一羽殺しているわけではない。生きる環境を奪うことで、結果として、彼らが生きる術をなくしていくように、知らず知らずに彼らを絶滅に追い込んでいる。
それはアダム・フランクのシミュレーションでの4つの結果のうち、2つの「絶滅」のいずれかのシナリオだ。
本書ではフランクのシミュレーションに似たゲームが登場する。そのゲームのなかで、我々と似た人類は何度も滅亡する。繰り返しプレイすることで、文明は延命するが、最後には滅亡する。誰が追い込んでいるのか、追い込もうとして追い込んでいるのかは、ツバメたち同様に、ゲーム内の人類たちも知らない。フランクがグレート・フィルターと呼んだように、文明は一定期間以上、生きながらえることはできないのか。それはこの惑星に限らず。面白いので、ぜひ読んでほしい。
20.自然なきエコロジー/ティモシー・モートン
消費主義の誕生はロマン主義の時代と一致している。
(中略)
近年の環境運動には、ロマン主義の名残がある。問題は、これらの遺産が不明瞭だということではない。むしろ、あまりにも多くの関連がある。関係性は重層決定されている。それは私たちがイデオロギーの捻れた空間の中にいることの確かな証である。ロマン主義の用語である文化は、自然(nature)と養育(nurture)のあいだのどこかで揺れ動きつつ、周囲をとりまく世界を喚起する。さらに言うと、この「事実」には「価値」が吹き込まれている。文化はいいもので、そしてあなたにとっていいものであった、と。「文化」は「自然」のように(これらは密接に関連している)、ガンジーが西洋文明について述べたことに類似している。「私はそれは素晴らしい考えのように思う」。T・S・エリオットとレイモンド・ウィリアムズは、「文化」を「生活様式の総体」と考えるが、規範的というよりはむしろ記述的なものと考えられているにせよ、それでもそれは強壮でもなければ元気でもない世界の中でユートピア的な円環を保っている。エコロジーは「総体」と「生活」の言語を継承したのだ。
2018年から2019年をまたいで読んだのが、このティモシー・モートンの1冊だった。
ということが関係あるのかわからないけど、この本が僕の2019年の思考や行動を象徴する1冊になったのは間違いない。
「残念ながら、私たちは世界である」とモートンが書いてくれなかったら、僕の思考はいまみたいには澄み渡ってはいない。モートンが「私たちは粘着性の汚物の中にいるというだけでなく、私たち自身が汚物なのだが、私たちはそこにひっつくやり方を見出すべきであり、思考をより汚いものにし、醜いものと一体化し、存在論ではなくてむしろ憑在論を実践すべきである」のだと、穢れに目を向けさせてくれなければ、持続可能性の問題と、道化やカーニヴァルの問題をうまくつなげて考えることができなかったはずだから。
この本でモートンが示していることの1つは、今まで僕が味方だと思っていた(そう思わせてくれてたのはマリオ・プラーツだ)ロマン主義が、エコロジー的な観点では厄介なところがあるということだ。「じつは中世においては悪と同義であった自然が、ロマン主義時代には社会的な善の基礎として考えられていた」とモートンは言い、上に引用したような意味で、自然をすこし遠いから存在として美化しつつ、消費可能なものにしてしまったようなところがあるからだ。
しかし、モートンが自身が提唱するダークエコロジー(「ダークエコロジーは、対象を理念的な形式へと消化するのを拒絶する、倒錯的で憂鬱な倫理である」)の説明の例として出すのも、ロマン主義の作品の1つに数えられる『フランケンシュタイン』だ。
「フランケンシュタインの怪物は、読者の視野の「前方」へと引っ張り出された環境の、ゆがめられたアンビエントな部類のものだが、つまり、まさにその形式がひどい分裂を具体化している「現実的なものの回答」である。阻害された社会の残酷さの恐ろしいほどの醜さであり、啓蒙された反省の苦痛に満ちた雄弁である」とモートンは書く。
フランケンシュタインの自然のものと人工のものがつぎはぎになった身体は、先の「そこにひっつくやり方を見出すべきであり、思考をより汚いものにし、醜いものと一体化し、存在論ではなくてむしろ憑在論を実践すべきである」とするモートンの思考にぴったりだ。この本を読んで、僕は自身のフランケンシュタイン性を磨いて(より汚して?)いこうと思った。
21.夜の讃歌・サイスの弟子たち他一篇/ノヴァーリス
さらに昔に遡ると、科学的な説明のかわりに、人間と神々と動物が、共同の工匠となって作りあげる不思議な譬喩的形象に満ちたメルヒェンや詩があった。そこには、きわめて自然な仕方で世界の生成が述べられているのがうかがえる。少なくとも世界は、偶然に、道具によって発生したのは確かだと聞くが、こうした考えは、想像力のある生みだす無秩序な産物を軽蔑する者にとっても、大いに有意義なものだ。世界万有の歴史を感じ人間の歴史とみなし、どこを向いてももっぱら人間にかかわる事象や様相しか見ないという態度は、さまざまな時代にくり返し新しい装いで現れる不滅の観念のなって、驚くほどの影響力をもち、容易にひとを納得させて、つねに優勢であったようである。自然の偶然性も、人間の人格という観念におのずとつながり、そうした人格は、なにもりも人間の本質であるとみなされるのを好むようにみえる。それゆえ、詩が、真に自然をあいする者の最も好ましい道具となり、自然の霊は、詩のなかにこそ、最もあからさまにその姿を現したのであろう。
さて、続いて紹介するのは、モートンが批判のまとにしたロマン主義を代表する作家のひとりノヴァーリスの代表作『サイスの弟子たち』だ。
この未完の小説(?)は、古き時代の魔術的な世界を描いている。実はタイトルにある「サイス」とは、古代エジプトにあった街の名で、ヘロドトスによればオシリスの墓があるとされる地だ。イシスとも同一視される女神ネイトが守護神であり、先に紹介したバルトルシャイティスの『イシス探求』で描かれた17世紀、18世紀のヨーロッパのイシス神話の流行の名残が、この18世紀の終わりにこの作品を書いた作家ノヴァーリスにもこだましているような印象はある。
この作品をここで紹介しようというのは、ここまで述べてきたような持続可能性を問う観点で、惑星レベルで環境を考えること、モートンがいうように人間・非人間の境をこえて憑依をすることに関連するように、次のようなモノたちの会話がなされていたりするからだ。
「ああ、人間に」と物たちは言った、「自然の内なる音楽を理解し、外なる調和を感じとるための感官がそなわっていればいいのに!」
こう指摘するからには、「物たち」の側にはその両方ともが備わっているのだろう。だからこそ、彼らは環境において他の無機物、有機物と連携して生態系の調和を作れるのだろう。「人間ときたら、われわれと人間がともにひとつの全体をなすもので、どちらも他方なしには存続しえないということにあまり気づいてないのだから」と物たちは嘆く。
モートンのダークエコロジーに先駆けるものがこの作品にはある。
22.虚構の「近代」/ブルーノ・ラトゥール
人間、非人間、なかば抹消された神を同時に生産すること、そうした同時生産を隠蔽しつつ3つを独立したコミュニティとして扱うこと、分離した扱いの産物として、水面下でハイブリッド(異種混交)を増殖し続けること--以上の3つの実践から近代は成り立っている。人間と非人間の分離、水面上で起きていることと水面下で起きていることの分離、この二重の分離が近代人として私たちがどうしても維持しなければならなかったものである。
さて、モートンとは異なる形で、近代が自然と文化の断絶を意図的に行うことで、都合よく両者を使いながら発展してきたことを暴くのが、このnote中2度めの登場となる、ラトゥールだ。上の引用にもあるとおり、ラトゥールは、近代が自然と社会、非人間と人間がたがいに相容れないような形で徹底的に分離した上で、その裏でいくらでも両者を混ぜ合わせながらハイブリッドなものを生産しつづけてきたことを徹底的に批判する。
モートンに促される形で、人間があらゆる意味において、あらゆる人間以外の生物、そして非生物と共生関係にある中で、人間の無自覚な拡張が自分たち自身の生活や生存をリスクに晒すような影響を与え続けている状態から、いかにどちらの方にシフトすれば良いのか?ということを考えるにあたって、この1冊もまた、とても参考になる示唆を与えてくれた。
ラトゥールが指摘するのは、近代人が自分たちが自然と社会の決して交わらない二元論の中にいることを前提としつつ、一方で、自然と社会を分離できない非西洋=前近代の人たちの文化を自分たちの文化とは大きく異なるものと考えるような、二重の分離の内にあることを想定しているということだ。実際には、近代人もまたハイブリッドを生産し続けているのだから、すこしも自然と社会を分離などしていないし、その意味では非西洋=前近代の人たちと大きく変わることはない。ここには近代における二重の嘘がある。
だからこそ、この二重の嘘を捨てて、自分たちが増殖させるハイブリッドをきちんと管理できるようになる必要があるとラトゥールは説くのだ。それは持続可能性という観点でも大事だし、先に紹介したアクターネットワーク理論により、正しく新しいものの生成を考え記述する上でも重要なことだ。
また、人はそもそもハイブリッドな存在だという考え方は、とうぜんモートンのフランケンシュタインとも共鳴するだろう。円城塔さんが『バナナ剥きには最適な日々』で描いた「人間とは?」という問いとも。
23.屍者の帝国/伊藤計劃×円城塔
100年前、18世紀の終わりまで、人間の肉体は死んだら黙示録の日まで甦る事はないとされていた。しかしいまは、そうではない。死後も死者は色々と忙しい。
ふたたび円城塔さんの作品を紹介する。伊藤計劃さんの死の直前に残した次作についての作品メモをたよりに、円城塔さんがほぼ全編書き上げたものだから、僕は円城さんの作品だと思っている。
この作品の舞台は19世紀だ。だから(ということも本当はないが)、19世紀の有名人たちがたくさん登場する。有名人といってもすべてが実在の歴史上の人物ではなく、小説作品中の登場人物もそれに混ざって登場する。
ジョン・H・ワトソンは説明はいらないだろう。そのワトソンの指導教官として登場するジャック・セワードと、その恩師であるエイブラハム・ヴァン・ヘルシングは『吸血鬼ドラキュラ』中の登場人物だ。ワトソンは、モンタギュー街で探偵をしている弟のいるMという男にあるミッションを言い渡され、アフガニスタンへ旅立つが、そこで出会うのは、ロシアから来たあの兄弟の3男のアレクセイ・フョードロヴィチ・カラマーゾフだ。アメリカ人で南北戦争で南軍についた富豪のレット・バトラーは『風と共に去りぬ』の登場人物だし、ハダリーというどこか機械的な美女は『未来のイブ』から、そして、フランケンシュタイン博士とその創造物まで登場すれば、ここまで紹介してきた本とも自然に絡み合う。
小説の舞台は、その名のとおり、死者たちが蘇って街を跋扈している世界だ。
とはいえ、ゾンビやバイオハザードの死者たちのように人間を襲ったりはしない(基本的には)。彼らは、死体にあるプログラムをインストールされ、労働に寄与するよう動けるようになった、有機的ロボットだ(その労働が武器としての労働の場合、人を殺すことはある)。アンドロイドと違うのは彼らは思考しないからだ。人がいうことを筆記できる死体も登場するが、考えているわけでは、音声認識で話されたことがテクストに落ちているのと変わらない。つまり、意味がわかっているわけではない。
だが、とうぜん、先の『バナナ剥きに最適な日々』の「コルサタス・パス」を読んでしまっていれば、そのことが人間と筆記ロボット仕様の死者とのあいだに明確な区別などあるのかと自然に疑いたくなる。ましてや、モートンの本やラトゥールの本を読んで、積極的に憑依やハイブリッドを繰り返していこうと思っているのであれば、余計にだ。そもそも歴史上の人物と、複数の小説中の登場人物がまざって活躍する世界である。それに比べれば、死者が生者に混ざって活動することなんて大したことではないのではと思う。
人間と動物の境界で
24.ポストヒューマン/ロージ・ブライドッティ
生命組織のグローバルな商品化と対応しているのは、動物自体が部分的に人間化されてきているということだ。たとえば生命倫理の分野において、動物の「人」権という論点が、それらの行き過ぎに対する対抗措置として提起されている。動物の権利を守ることは、ほとんどの自由民主社会において注目されている政治的な問題なのである。この投資と虐待の組みあわせは、先進資本主義そのものから生じた逆説的なポストヒューマン的状況であり、それが多様なかたちの抵抗を引き起こす。
さて、ここまでくれば、2019年が僕にとってポストヒューマンを考えていた年であることは気づいてもらえているのではないかと思う。そんなとき、ちょうどズバリのタイトルのロージ・ブライドッティの本が出たのだから、これは読むしかなかった。
「わたしたちは実際にポストヒューマンになっている。あるいはわたしたちはポストヒューマンでしかない」とブライドッティは書いている。いまや「人間」というあり方がさまざまな形でゆらいでいることは、ここまで読んできてくれた方には伝わっていることだろう。死者と生者、機械と人間、自然と人間社会、地球環境と人類、情報やプログラム、AIと人間、動物と人間、モノと人間。従来なら対立項として捉えられたであろう両者にもはや明確な違いを示すことはむずかしい。
動物の権利(アニマルライツ)が主張される一方で、人間はドローンなどの新たな戦争兵器の登場により、人知れず虫けら以下の殺され方をするような、これまでとは異なる死の危機にさらされている。はたまた発達した遺伝子技術はゲノム編集による身体の治療や制御を可能にしようとしているし、身体の一部という知性を帯びたマテリアルがグローバルに「取引し利潤をあげるための商品へと」変わろうとしている。
では、動物のほうがましかというととうぜん、そんなことはない。ブライドッティが「遺伝子工学的資本主義」と呼ぶこのグローバル経済の環境下においては、人間同様に「取引し利潤をあげるための商品」として扱われることは免れ得ない。
クローン羊のドリーが6歳の羊を遺伝元として生まれ、6年経って死んだが、死因はごくごく普通の肺疾患だった一方で、狂牛病(BSE)という死に至る病を生みだしたのは牛を動物飼料で肥育するというカニバリズム的展開だと言われている。
その動物たちの遺伝子工学的商品として扱いは、人間の身体にも少なからず影響を与えていて、太らせて高く売るために抗生物質を投与して育てられた豚や鶏は、それを食べた人間も同じく肥満になるなどの影響が抗生物質による腸内の微生物環境の荒廃によって起こることが判明すると、ヨーロッパでは飼育時に家畜に対して、病気の治療以外での抗生物質の投与が禁止されたりもしている。
いまや動物と人間の関係はデカルトが両者を明確に切り離したときのようには明確に分け隔てることはできなくなっている。
そんな時代にあって、ブライドッティは「非単一的な主体のためのポストヒューマン的倫理」は「自己中心的な個人主義という障害を排除することによって、自己と他者――非‐人間ないし「地球〔=大地〕」の他者を含む――の拡大された意味での相互連結を提示する」ものだとしている。「人間にとっての環境と非‐人間にとっての環境が同じ脅威に直面して相互に連結するというグローバルな感覚」にある現在の社会―環境において「多数の他者との関係の流れのなかに主体を位置づけるアファーマティヴな絆」が必要なのだというブライドッティの姿勢は、モートンらのそれとも重なるだろう。そして、ジョルジョ・アガンベンの思想とも。
25.開かれ/ジョルジョ・アガンベン
われわれの文化においては、人はたえず身体と精神、生体とロゴス、自然的(ないしは動物的)要素と超自然的要素(社会的であれ神的であれ)といったものの分節や接合として考えられてきた。しかしながら、われわれが学ばなければならないのは、これら2つの要素の分断の結果生じるものとして人間というものを考察することであり、接合の形而上学的な神秘についてではなく、むしろ分離の実践的かつ政治的な神秘について探求するということなのである。もしつねに人間が絶え間のない分割と分断の場である――と同時に結果でもある――とするならば、人間とはいったい何なのか。この分割に取り組むこと、すなわち、どのようにして人間が非人間から、動物的なものが人間的なものから――人間のうちで――分割されてきたのかを自問してみることのほうが、いわゆる人間の価値や権利といったお題目について立場表明することよりもはるかに急務なのである。
今年読んだ本のなかで一番最近紹介したのが、このアガンベンの小編だ。「人間と動物」というサブタイトルがついたこの一冊では、まさに人間と動物の境目が曖昧にされ、そのことであらためて人間とは自分を人間にするために自分の外のものと自分を分離したがる動物であることが明らかになっている。おそらく、ブライドッティが問うポストヒューマンとは、この分離したがる動物であることの見直しだ。それはこのあと紹介していく進化生物学者リン・マーギュリス由来のホロビオントという概念とも重なってくるだろう。
「われわれの文化においては、人はたえず身体と精神、生体とロゴス、自然的(ないしは動物的)要素と超自然的要素(社会的であれ神的であれ)といったものの分節や接合として考えられてきた」とアガンベンはいい、しかし、それよりも学ぶべきは「これら2つの要素の分断の結果生じるものとして人間というものを考察すること」、「接合の形而上学的な神秘についてではなく、むしろ分離の実践的かつ政治的な神秘について探求する」ことだとする。
そう、その分離の行為は政治的であり、モーセやイシスのイメージを駆り出したのと同様に政治的な行為なのだ。この思考や美学の政治性を、僕らはあらためて認識しなくてはいけない。特に、政治が苦手な日本人である僕らは。
そこにある政治性を読み解くという視点において「どのようにして人間が非人間から、動物的なものが人間的なものから――人間のうちで――分割されてきたのかを自問してみる」ことがいまや僕らには必要であり急務なのだと思う。
26.タコの心身問題/ピーター・ゴドフリー=スミス
タコの身体には決まった形というものがなく、変幻自在だ。可能性の塊だと言ってもいい。決まった形を持ち、行動をある程度決定する身体を持つと、そのためのコストが発生する一方で、利益も得られるが、タコにはどちらもないということになる。多くの動物では、脳と身体が明確に分かれるが、タコはその区別とは関係のない世界に生きている。
というわけで、タコの意識にダイブしてみよう。いや、そのとき、タコの意識とはどこにあるのだろう。タコには8本の足にも非常に複雑な神経網があるのだという。そして、おそらく人間などと違って、タコの足は脳という中央からの司令のみで動くのではなく、複雑な神経網が独立的・自律的に機能し、足のみでも行動の判断を行うことができるのだ。その場合、タコの意識はどこにあることになるのだろうか。
脳と8本の足が独立して動き、かつ、身体の形をいくらでも自在に変えられるタコは、複数の意思が共存するような複数の生命体の共同体のモデルになり得るのではないだろうか。
本書では、こんなことが書かれている。
カンブリア紀には、どの動物も、他の動物にとって環境の重要な一部となる。動物どうしの関わり合い、そして、それに伴う進化、いずれも、結局は動物の行動と、行動に使われる装置の問題ということになる。この時点以降、「心」は他の動物の心とのかかわり合いの中で進化したのだ。
心がまわりを見るために進化したというのに、僕らは自分たちのことばかり見ていて、まわりが見えていないのではないかと思うことが多い。心はまわりをみるために生まれたのに、いまや、人間のその心は自分が環境の一部をなすものだということを忘れている。タコの脳と8本の足のように互いに独立しながらも、共生して1つの環境を維持するようなことはできないのだろうか? そのことは次に紹介する人間の体内で人間と共生している微生物たちからも学べるのかもしれない。
27.あなたの体は9割が細菌/アランナ・コリン
心も体も共生微生物の影響を受けているとすると、私の自由意志や成功は、どこまで私のものなのだろう。人間らしい、私らしいという時の「らしさ」の範囲は? トキソプラズマその他、体内に棲む微生物が宿主の感情や行動や意思決定を操っているという考えは、正直言って心地よいものではない。だが、その考え方がそれほどショッキングでないなら、微生物は伝染するということも思い出してほしい。風邪のウイルスや細菌性咽頭炎かヒトからヒトへ感染するのなら、マイクロバイオータもヒトからヒトへうつるだろう。あなたのマイクロバイオータの組成があなたの出会う人や出かける場所に影響を与えるのなら、集団的な意識の拡張という概念に、新たな意味が加わる。少なくとも、他者と同じものを食べてトイレを共有すれば、いい意味でも悪い意味でも互いの微生物を交換する機会が生じる。
先にもすこし名前を出したが、生物学者のリン・マーギュリスが1991年の著書で提唱した概念にホロビオントというものがある。複数の異なる生物が共生関係にありつつ不可分な1つの全体を構成していることを示したものだ。本書で論じられているのは、まさに人間をはじめとする宿主と微生物の関係もホロビオントである。
それよりもまず、この本もまた、人間とは何か?という考え方がくつがえる本だ。というのも、人間の消化機能も、ダイエットも、それどころか性格やうつ病などの病気も、体内で細胞の9割を占める微生物による影響だというのだから。ある意味、人間らしさだと思われているものの多くが実は、人間そのものの機能というよりも、微生物たちとの共同作業の成果なのだ。その意味で、ホロビオントなのである。
問題は、この微生物たちとの幸福な共生が、抗生物質などの使用によって危機に瀕することがあるということだ。腸内の微生物環境が不安定な乳幼児期の抗生物質の過剰な投与は、様々な危機をもたらす。本書では、それが要因で自閉症になった子供の例が紹介されている。著者自身、実際に病気を患って抗生物質治療を行ったあとが体質が変化してしまったことをきっかけに、いろいろ調査を行った結果、この本を書いている。
やっかいなことにそれは自分が抗生物質を飲まなかった場合でも影響を受けることがあるということだ。家畜である鶏や豚を通じて、抗生物質が人体に入り込んでしまうケースがあるからだ。鶏や豚は抗生物質を与えると太りやすいので、意図的に投与されてきた時代があった。「2006年以降、EU加盟国の農家は家畜を太らせるために抗生物質を使うことを禁じている」が残念がら日本ではまだだ。養鶏場の環境が最悪であることはアニマルライツの観点からも各国から批判されているくらいの環境では、抗生物質なしでは鶏は育てられない。根本的な改善が待たれる。
28.ガルガンチュア/フランソワ・ラブレー
ことをうまく運ぶために、そのころ、博識で知られた医者のテオドール先生に、ガルガンチュアを正道に戻すことができるものかご検討いただきたいとお願いしてみた。すると先生は、医学の常道にしたがって、アンティキラ産のヘルボレスを用いて、ガルガンチュアに下剤をかけて、この薬効により、脳が変質した部分や、よこしまな傾向などを、きれいに洗い清めてくれたのである。この方法で、ポノクラートは、ガルガンチュアが以前の家庭教師のもとで学んだことを、すっかり忘却させたのであったが、これは、かのティモテウスが、別の音楽家から学んでいた弟子たちに対してとった方法と同じであった。
人間と動物の境を曖昧にすること。それは実は近代以前ではむしろ自然なことであったということをそろそろ明確にしておきたい。モートンが書いていたように中世においては自然は悪であったが、それは動物が悪であり、悪魔にも通じていたりするのと同じことだ。
しかし、その善と悪の区別は現代ほど、確固とした区別ではなく、すくなくともカーニヴァルなどの祝祭には容易に反転した。祝祭の日には、さかさまの世界が展開され、普段は愚鈍とされたロバが王として祭り上げられたり、いつもは咎められている食欲や性欲が思う存分解放することが許された。
そんな祝祭と同じ意味をもっていたのが、道化=フールの存在だろう。古代からルネサンス期にいたるまで、精神的不具者、肉体的不具者が宮廷に雇われた道化=ジェスターとして存在することが普通だった。彼らはサーカスの道化同様に、日常の秩序を破ることで笑いを誘った。それはカーニヴァルの催し同様、下品で、肉欲的であり、下ネタ的であった。道化という存在は、人間と動物、人間と自然、秩序と混沌の間にある存在だった。それらの境目はいまだ明確には区別されきってはいなかった。そこにはしっかりとした架け橋があったのだ。
そんな時代が失われようとしていた16世紀半ばの近代のはじまりのときに、フランソワ・ラブレーは全5巻からなる『ガルガンチュアとパンタグリュエル』という長大なるカーニヴァル的作品を書いた。「ガルガンチュア」はその第1巻にあたる。巨人であるガルガンチュアはまさに、カーニヴァル的な食欲のかたまりだ。それはジュネが書くのとはまた別の意味で、ベトベト、ドロドロしている。
29.イタリア・ルネサンスの文化(上)/ヤーコプ・ブルクハルト
教皇レオ10世がいかにもフィレンツェ人らしく、道化師にたいする特別な愛好を示したのは、まったく注目すべきことである。
「もっとも高尚な精神的享楽を求め、それにおいて倦くことを知らない」この君主でもやはり、食卓に2、3の機知に富む道化師や、大食を芸とする者がはべることを、忍ぶばかりか、これを望んだ。その中に2人の修道士と1人の不具者がいた。祭りのおりには、かれらをわざと古代風の嘲笑をもって、寄生動物としてあつかい、猿や烏をうまいあぶり肉に見せかけて、かれらの前に供した。概して教皇レオは悪ふざけを自分が使うために留保していた。
フランスでラブレーが巨人が活躍するカーニヴァル的作品を書いていた頃、イタリアではルネサンスの火が最後の燃焼を終えようとしていた。その最後を飾るのにふさわしいのは、ラファエロらをはじめとするルネサンス芸術家を支え、盛期ルネサンスを文化的頂点の1つにまで育て上げた立役者ともいえる教皇レオ10世だ。
自身も、詩を嗜むなど、文化芸術に造詣が深かった教皇だが、当時の有力者のご多分に漏れず、その宮廷に道化師をはべらせ、彼らを寄生動物としてみずからの悪ふざけの対象にしていた。その様は、いまではキリスト教の教皇がすることとは思えないほど、残酷な笑いに満ちていたらしい。
本書の著者ブルクハルトは、当時の様子をこう記している。「名声および近代的な名声欲のみならず、高度に発達した個人主義一般をも調整するものは、近代的な嘲笑と侮蔑であり、それが場合によっては機知という無敵の形をとることもある」と。機知も、最初や詩作などにおける言葉や文章の上にとどまるが、その内エスカレートして行為になる。茶番を演じ、いたずらをする。
その世紀のうちにフィレンツェで拾い集められた嘲笑の中から、フランコ・サッケッティがその短編小説において、きわめて特色のある抜粋を、われわれに与える。それはたいてい本来は物語と呼ばれるべきものではなくて、ある種の場合に与えられる返答や、うすばか、宮廷の道化、いたずら者、はすっぱ女の口をついて出る恐ろしく単純な言葉である。そのさいのおかしさは、そのような真の、または見せかけの単純さと、世上一般の状態、または通常の道徳性との、はなはだしい対象のうちにある。万事がさかだちしている。
これが、自然と人間社会、動物と人間、混沌と秩序が完全に区別されるまでの前近代的な世界なのだ。
30.お気に召すまま/シェイクスピア
ジェイキス (笑いだして)阿呆、確かに阿呆だ! 今、森の中で阿呆に出会ったのでございます、斑服を着た阿呆に―― 何と情けない世の中だ! 私が飯を食って生きているのが事実なら、阿呆に出会ったのも紛れもない事実、奴さん、ごろりと横になって日向ぼっこをしながら運命の女神をこっぴどく罵っておりましたっけ、運命には好かれている筈の斑服の阿呆の癖して……「お早う、阿呆」と声をかけると、「よしてくれ、天が吾輩に幸運を授けるまでは阿呆などと呼ぶな」と来ました。
そんな後期ルネサンスの時代、誰よりも有名な作家といえば、シェイクスピアをおいてないだろう。ラブレーよりすこし年下だが、ルネサンスという時代がほかより遅れた英国のことだから、同じような時代環境だったのだろう。
いや、遅れただけあり、シェイクスピアはそれまでの様々な作品から素材をいただいている。それをうまく調理して、独自の、より高品質の作品に仕上げている。
この『お気に召すまま As you like it』と題された牧歌劇もそうだ。牧歌劇という、それまで高い地位にあったものが宮廷を追い出され、田舎で英気をたくわえて元の地位に復帰するという劇の形式自体、さかさまの世界が演じられるカーニヴァルに通じている。ようは日常の秩序をいったん離れ、田舎における混沌として理性よりも身体的なものが勝つ世界をいっとき体験して元に戻るというのは同じ構造なのだから。
さらに、上の引用にあるように、斑服(まだら服=道化が着る衣装)を来たジェスターが登場しているのがわかる。ジェスターであるタッチストーンは、彼に絡みたがるジェイキスをからかいながら、しだいにジェイキスの立ち振舞いまでフールなものに見えるよう巻き込んでいく。この巻き込みこそ、モートンがいう憑依であろう。ある意味ではマーギュリスのいうホロビオントの状態もこれかもしれないと思う。
ポストヒューマンの世界について考えたければ、この『お気に召すまま』に限らず、シェイクスピアの作品を読んでもいることをおすすめする。
そこは自然と社会、動物と人間、混沌と秩序、物質と精神といった二元論が成り立つ前の魔術的なものを残した世界なのだから。
というわけで、30冊の紹介を書き終えた。書いてみてあらためて思ったこと、本は1冊ずつも読めるが、こうして1年という単位でまとめて「読む」ということもできるのだ。こういう読みの力はとても大事だと思う。だから、これを今年の振り返りにしようと思っていたが、なんとか年内に書き終えられてほっとしている。
32,000文字超え。ここまで長いnoteを書いたのははじめてだし、もう書くことはないだろう。全部が読めた人がいろと思えないが、まあ、いつにも増して自分のために書き終えてみたかったので、これで良い。
おそらく、2019年、最後のnote。書き納めにはこのくらいの無理、無茶苦茶がちょうどよい。
P.S.
2020年上期版も書いた。
基本的にnoteは無料で提供していきたいなと思っていますが、サポートいただけると励みになります。応援の気持ちを期待してます。