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忘れ物と前方不注意

時間が不当に冷たくあしらわれてる。
最近ずっと考え、そのためにいろいろ調べてたりする。

それで、ふと思ったのは、みんな、時間のことをあまりに気にしなさすぎだから過去を忘れすぎてしまうし、未来を想像することが苦手なんだなということ。

つまり、こと時間に関しては、忘れ物と前方不注意が多発していると。

追悼と未来創造

追悼が日常的に必要だと考えたのは、きっとそんなことを感じたからだ。

あまりに過去の時間忘れられてしまっているし、だからこそ、未来に対する想像も疎かになってしまっている。

そうなれば、いまの問題をいまの視点でのみ解決しまくなるから、選択肢もすくなくなって、みんな、あたふたしてしまって余裕がなくなる。
さらに、その状況に陥ってしまえば、流れが見えなくなって、とても未来をつくっていくような仕事はできない。
結果、どんどん世の中は貧しくなるし、そのコミュニティの生産性は低下していく。

時間という観点を持たないということはそういうことではないか。
そう気づいたがゆえの追悼云々と書いたわけだ。

未来を創造するためには、過去を追悼できる豊かな時間感覚が欠かせないのだと思う。
そうでなければ、僕らは時間のなかで迷子になったままだ。

黒いピラミッド

なので、もうすこし失われていく記憶に対して、人々はこれまでどう対処しようとし、それを未来につなげようとしたかをもうすこし理解しておきたいと思っている。

そんなわけでハンス・ベルティンクの『イメージ人類学』に引き続き、ヴィクトル・I・ストイキツァの『影の歴史』を読みはじめた。

そのなかで見つけた、こんな記述のなかの「魂」って、ボルタンスキーのあの黒い山そのものだろう。

エジプト同様ギリシアでも、像は神と死者の代役を務めるものであったということは、古代エジプトやヘレニズム時代のギリシアを研究する人々の認めるところである。死者の代わりを務める像は生きているものと見なされていた。有名な古代エジプトのカーは、死を表わすさまざまな彫像の魂であった。マスペロが彼の古典的な研究書のなかで述べているように、影は古代エジプト人たちが最初に魂が視覚化されていると見なしたものであった。(中略)きわめて早い時期からまさに人間の魂と見なされてきた黒い影は、結果的に人間の分身と考えられた。

黒い影は人間の魂を表す。

そうなれば、あの黒い山は間違いなく無数の人々の魂が形となった魂の山だ。
あるいは魂そのものでできたピラミッドかもしれない。
王家のピラミッドではなく、名もなき人々の魂のピラミッド。

ピラミッドなどの形で、死者の痕跡が残ることで、残された生者やその後の子孫たちは過去に生きた人々のことを考えるきっかけができる。墓地一般が本来そうした機能であるのだろう。

それは文化の記憶を起動するインデックスになるし、過去と現在をつなぐ通路となる。現在からみると異質な痕跡だからこそ、その異質性が過去と現在を非対称なものとしてつなぎあわせる。

忘れ物をしない

この異質性に意識を向けられるかどうか?
異質なものをちゃんと不思議に感じて、関心を持つことができるか?

自分で物事をちゃんと考えようとする人は、そこに不思議な謎が落ちていれば、それを拾おうとするだろう。
けれど、そうではなく人から教えてもらったことのみで日々を生きている人は、その異質な遺失物に手を伸ばせない。

時の忘れ物はそのまま置き去りにされる。
過去は現在とつながることなく、未来を考えようにも過去の恩恵に与ることはできなくなる。

ことを単純化しない

過去の歴史を何か固定したもののように捉えてしまうのは間違いだ。
過去に関心をもたない人はきっと過去がすでに決まっていて、自分が振り返らなくても、えらい誰かがちゃんと知ってくれているものと思っているだろう。
それが間違いだ。

『アンリ・フォシヨンと未完の美術史:かたち・生命・歴史』で言及されるフォシヨンの歴史観は、その間違いに気づかせてくれる。

時の作用は、そうした生き生きとした多様性を鎮静させてしまうという。後世の特権とは、忘却と統合によって、ことを単純化することにあるからである。(中略)歴史家にとって「本当に重要なのは、われわれ自身のあるひとつの側面ではなく人間の全体性」なのであり、過去の証言は生きた声として、その豊かさのままに受け止められねばならないとされるからである。フォシヨンにとって歴史は、その豊穣な複雑さをありのままに捉えることにあるのであって、それらを整理し定義することではない。

ことを単純化してはならない。
単純な過去などはない。
ずっと前の「現在」が過去になるわけだがら、複雑でそう単純な整理など不可能な現在を生きている僕らならば、ちょっと真面目に考えれば昔の過去も単純であったはずなどないことわかるはず。

でも、「後世の特権とは、忘却と統合によって、ことを単純化することにあるから」、僕らはついつい過去も同じように複雑であっただろうということも忘れて、ありえない単純な過去を信じてしまう。その過程でどれだけの遺失物が生み出されているかも気にせずに。

でも、過去を現在、そして未来につなげていこうとするなら、過去はその豊穣な複雑さをちゃんといま自分たちにとってそれが、どのような意味をもち、自分たちを未来へと導いてくれるか?という観点で見てみないといけない。

ようはそのスタンス次第で、過去が何を語るかは変わりうる。
過去をどう見るかは、いまをどう生き、未来をどうしたいかによって変わってくる

なのに、過去に自分の目を向けようとしないのは、いまを生き、未来をつくるための道具をどこかに忘れてきてしまったようなものではないか。


老いとしての時間の流れ

シャルル・ペギーが『クリオ』において、歴史の女神クリオにこう語らせているのを思い出しても良いだろう。

作品にとっての名誉も、作品の評価も、作品の寿命も、すべて私たちの一存で決まる。たかが評価とも思うかもしれないけど、作品をめぐる評価は、作品が存在することそれ自体に等しいから、決して軽視すべきではない。

作品というのは、過去の作家と現在の読み手の共同作業によって評価が決まる。それは決して誰かお偉いさんの一言の評価が絶対なわけではない。作品をどう感じどう考えたかは、鑑賞者それぞれが自分で評価するものだ。

そして、同じ鑑賞者でも、また別の時に接すれば作品の評価は変わることもある。
過去に触れるというのも、それと同じだ。評価は決まっていないし、その過去が何であったかは、過去を生きた当事者たちとそこに目を向ける人自身の共同作業によってしか決まらない

共同作業。
ようするに、過去と現在の断絶として見るのではなく、うまくコミュニケーションはとれなくても、つながったもの同士のあいだで行われていることとして考えると良いのだと思う。
自分に関係ない過去というよりも、過去の人々がそのまま年老いたのが自分たちであるかのような連続性を探しあてようとする見方が必要なように思う。

ふたたび歴史の女神の声に耳を傾けてみよう。

老いはその本質からして平面(単一の平面)の欠落を招く活動であり、そこでは無数に重なる現実の平面に沿って、すべてが遠くへ押しやられていく。そうした無数の平面はまた、出来事が継起的に、というよりもむしろ連続的に完了した平面でもある。

老いの連続的な流れのなかで、それは実はひとつの単純な流れではなく、無数の流れが同時に進み、ひとつの流れはすでに止まり、他の流れはまた別のところで止まり、けれどそのまま流れ続けたり、あるいは新しい流れも生じているような、そんな複雑な流れの平面で過去と僕らはつながっている

その平面を歴史としてではなく、老いという視点でみてみれば、そういう風に見えるだろう。

前方不注意で、持続可能性とは?

持続可能性と言われる。

だけど、本当にみんな持続可能性を問おうとしているのだろうか?

それにはあまりに前方不注意で、前の方をどう見てよいかがあまりに頼りなく感じる。
時の流れ、社会の変化を捉える視点がほぼないのにどういう流れにおける持続可能性を問うているのだろうか。

当たり前だけど、それは空間的なボリュームの話ではない。
地球環境も含めた大きな生命、変化をしながら維持されるものの持続可能性を問おうとすれば、それは時間的な変化を主軸に考えるよりほかにない。

けれど、そういう時の流れをうまく頭のなかで捉える訓練やそのための素材をちゃんともっている人があまりに少ないように思う。

時間が不当に冷たくあしらわれてきた結果だ。

今日という、あまりに貧しい1日が、明日という、同じく貧しい1日に訴える。今日という日を含む、あまりに悲惨な1年が、今回かぎりの1年が、今現在の、あまりにも虚弱な1年が、明日という日を含む、同じく悲惨な1年に訴える。現在の悲惨が未来の悲惨に訴える。そして現在の虚弱が未来の虚弱に訴える。そして現在の謙遜が未来の謙遜に訴える。そして現在の人間的特性が未来の人間的特性に訴える。この考え方を、どうして否定することができるかしら。

こう嘆く歴史の女神をこうした悩みから解放してあげるには、僕らはもっと時間の流れにおいて物事を考えられるようになる必要があるだろう。


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