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道化の民俗学/山口昌男

現代の社会の倫理性を考える上でとても示唆に富んだ一冊だ。

山口昌男『道化の民俗学』
1969-1970年にかけて2つの雑誌に連載された論文をもとに1975年に単行本として刊行された50年前に書かれた論だが、いまのようにコロナウィルスが世界中を巻き込んで人々の危機感を募らせた状況になると、いともたやすく互いに互いを蔑視し罵倒するようなことが当たり前のように起こってしまう、過度に繋がりすぎた現代社会にこそ、たくさんの学びを提供してくれる内容だと思いながら読んだ。

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それにしても、余白の少ない社会である。
許容度が足りないのか、自分からみて不快な対象はとにかく排除する方向に行動してしまいがちだ。
単に、ポジションの違いで一方から悪く見えてしまうだけのものでも、あまり考えずに断罪してしまう。
とはいえ、何もそれはいまにはじまったことではない。

日常的価値体系に組み込まれないものに対して、「歴史性」のなかで、人は、悪い、滑稽な、馬鹿馬鹿しい、穢らわしい、賤しい、醜い、汚い、薄気味悪い、怖い、危険な、反革命的、といった形容詞を貼りつけて、日常世界の「境界」に押しやって来た。

日常を脅かすものを排除したがるのは今も昔もかわらないわけだ。

いまなら、コロナウィルスをはじめ、不倫や薬物依存、喫煙、贈賄、移民、心身に人と異なる特徴をもつ人たちなどに対して、とにかく自分たちのいる社会から追いだそうとする。そして、そうした異形の者たちを外へと追いやったあとの社会を「日常」と呼びたがる
いまはその様子が目に見えやすくなったし、見えやすくなったがゆえに排除の力もより拡散しやすくなってはいるものの、異質なものを自分たちから遠ざけようと、外の世界へ追いだそうとする行為自体は昔からあるものだ。

この日常的価値体系を逸脱しているがゆえに、境界に追いやられたものを、かつて代表していたものこそ、道化やトリックスターという存在だった。
言うなれば、スケープゴート(贖罪山羊)の役割を担ったのだが、それだけでもなかった。そこに道化の問題の興味深い点がある。

権力が境界との関係を失うとき

この本は、そうした境界の者としての道化やトリックスターというものを民俗学、文化人類学的な視点で考察したものである。

16世紀のイタリアを中心に、近代前半のヨーロッパで流行したコンメディア・デッラルテの道化アルレッキーノや、三番叟の道化や初期歌舞伎の猿若などの演劇に登場する道化だけでなく、アメリカインディアンやアフリカ文化における現実の社会に文化装置として組み込まれて生きるか道化だったり、あるいは、逆に現実には存在しないものとしてのギリシア神話のヘルメスやヘーラクレース、ヒンドゥーの神話の神クリシュナ、アフリカの神話に登場する野兎やエシュ神などのトリックスターとしての神(あるいは半神)だったりと、考察の対象となる道化やトリックスターは多岐にわたる。

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けれど、そうした多岐にわたる道化やトリックスターを比べると、いくつかの共通点が浮かび上がってくる。

そのひとつが彼らがいたずらをすること。彼らが道化でなければ犯罪や禁忌の侵犯として咎められるようないたずらをすることだ。
アメリカ・インディアンの部族のひとつ、アコマ族の例をみよう。

例えばアコマ族のコシャレ道化は錬成教官の役割を果たす。すなわち、彼らは人々を好きなようにしごくことができる。人々は彼にさからうことができない。彼らは義務を怠ったと称して人前で誰の衣服でも剥ぎとってしまうことができる。

訓練官の役割を担う道化。
ただ、道化らしく、義務を怠った者に対する仕置きは、人前で衣服を剥ぎとるという度を越したいたずらめいたものである。
このような者が、立派な心身を鍛える錬成の役割を担うというのは、ちょっとおかしなことのようにも思う。けれど、そうではないのだということがここでは指摘される。

このような禁制の積極的な侵犯によって呪力を得たものが、錬成を担当するのは矛盾であるが、権力が本当にそういった呪力を背景に成立しているところから言えば、別に不思議なことはないはずである(ただし、道化的装置を機構のなかに組み込むことに成功した近代の国家権力は少ないことは事実である)。ただ権力が「境界」との関係を失うとき、権力はそれを支える基盤を失って形骸化しタナトスとしての制度に転化する可能性を持つ。革命の停滞、革新勢力の腐敗現象はこのようにして起こるものであることをここで改めて説くこともなかろうが、まさにそういった日常性との癒着を断ち切って、世界を「異化」するためにこそ道化は、時空を越えて出現せざるをえないという点は確認しておく必要があろう。

そもそも、権力というもの自体、道化に化体される「境界」と表裏一体の関係にあるのだという。むしろ、その境界との関係を失なえば、死神のような存在に権力は堕す。どういうことだろう。

ようするに、空気の流れの問題である。流れが澱めば生は腐敗する。
流れを起こすためには、高いところと低いところ、あるいは、熱いところと冷たいところが必要だ。日常とそこからあぶれたものたちの双方と関係をもっているからこそ、権力は閉塞感のうちに滞ることなく、常に新しい風を外から取り込み、生き延びていくことができる

贖罪山羊が穢れを外に連れていく

道化を外に追いだすのは、まさにスケープゴートのように、彼らに盗ませたものといっしょに、日常に取り憑いた悪いものを外へと追いだす社会的な機能なのである。秋田のナマハゲ、ハロウィンのお化けも同じような機能をもったものだ。裡にあるものを奪うと同時に、悪いものを外へと連れていく。

そうした機能をもった「境界者」の存在を許すことができない社会は、みずからの裡にたまった毒を排出する機能を失っていることになる。

「異形の者」が家を経めぐって、グロテスクな形姿かつくり声で、関係を確立する。それで暴力的な身振り言語によって聖なる力を導入する。このような「よりしろ」に物を施すというのは物に添えて、日常の生活では好ましくない災悪を託して持ち去ってもらうことを意味する。これは心理的側面を重視すれば、「儀礼的侵犯」によるカタルシス作用が祝福するという行為と考えられることになるし、また身振り言語的側面を重視すれば、ここで演じられる非日常的「烏滸」の行為は、日常生活の「災い=悪」に形態的に対応し、それを吸収するのである。もちろん、このような側面は相補的なものである。道化はそのような責務を持つ。しかるが故に彼は積極的に侵犯することができ、また侵犯的行為の対象にもなるのである。従って物や金銭を渡すというのは考えようによって「厄介払い」の行為なのであって、「災い」をそれに添えて渡す「情けは人のためならぬ」意味を持つある種の侵犯行為であるとも言えるのである。

このような観点でみるとき、年々評判が悪くなってきた渋谷のハロウィンだって、実はそれほど捨てたものではないし、むしろハロウィン本来の道化的な悪行があそこで行われているのではないかとさえ思えてくる。「境界」を外へと追いやりすぎて、それとの接点を失った社会は出口のない地獄と化したりはしないだろうか。あまりにクリーンで、清廉潔白なふりばかりしてると、普通の空気すら汚れて思えて吸うことができなくなってはしないだろうか。

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自分であることをやめる

ハロウィンがかつては死霊を迎えるケルト人たちの祭りだったように、それは日常的なものをさかさまにすることで、境界の外に追いやったものを向かいいれる祝祭である。コンメディア・デッラルテの道化アルレッキーノも元は黄泉の国から蘇ってくる死霊だったとこの本では明らかにされている。

死者が蘇ってくることのみならず、日常が反転して境界の裡と外が入れ替わる祭といえば、その典型的なものがカーニヴァルである。このような祭においては、人は普段の自分であることをやめる。普段は禁じられている暴飲暴食や性的なふるまいも歓迎される。日常的な価値が反転されるのだ。

このような世界における群衆は単なる群衆ではない。群衆全体が1つの有機的な全体性のなかに生きていた。この全体性のなかで一人一人は、彼自身であることをやめる。他人が自分と繋がっているかのように自由に口をきき、気安く接触し合い、希むなら、仮面の着用や衣装の変換によって、自分であることをやめることができるし、誰はばかるところなく、狂人のごとく振舞うことも道化そのものになることもできた。つまりカーニヴァルはその集団性全体性において、生の一形式だったのである。いかめしい、高圧的な世界とはまったく異なった、真に自由で流動的な世界を触知することを可能にするものだったのである。

カーニヴァルにおいては誰もが道化になることができた。それはカーニヴァルという場が日常のなかでの自分であることをやめることができる場だったからだ。

個が個でありすぎること。
自分が何か他人とは確実に違う存在であるということを疑わないこと。
日常においては、それが当たり前だが、それはあくまで境界の存在を忘れている範囲においてだ。かつてのカーニヴァルはそうした日常を容易に反転させることができた。

それはある意味では、未知の領域に旅立つことでそれまでの自分を忘れる英雄の旅のようなものだし、一種の生まれ変わりのイニシエーションのようなものでもある。
カーニヴァルはそのような意味で普段の自分をいったん脱ぎ捨てることで、新たな気持ちで生まれ変わるための境界の裡と外をつなぐ道化的な空間でもあったといえる。

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物真似する道化と話の筋

道化やトリックスターに共通するものとして、2つめにあげるのは、彼らが物真似をするということだ。物真似をすることもある意味では自分でなくなるということでもある。

民俗芸能のなかの神楽において、道化は三番叟を踊る黒尉にからむ役として登場する。三番叟は道化のからみを、それが眼中にないかのごとく踊りつづける。道化は下手な物真似をする。あたかも、その構成は、道化が透明人間であるかのごとき進行で示される。ナヴァホ族の道化は「夜の讃歌」踊りのリーダーの踊りの指示を読んで先駆けて踊ろうとするのだが一向うまくいかない。ウィントゥ族の「ヘン」と呼ばれる儀礼はウィントゥ族の儀礼のなかでも最も重要なものだが、この踊りのリーダーが踊りの家で歌いながら行進している傍らで、道化は後ろむきになって、歩調を合わせながらこのリーダーの唱いぶりや、唱っている歌そのものにからかい半分にケチをつける。だがリーダーは全く道化を無視して、いとも荘重な趣きで踊りつづける。

日本の古い神楽と、インディアンたちの道化が物真似という次元で交差する。しかし、いずれも真似る道化は真似られる相手に無視されている。
「このように、主人公にからむが筋のうえではほとんど影響力を持たないのは、道化の持つ透明性に由来するのかもしれない」と書かれているが、このように自分と似たようなことをしているのにそれに気づかない存在があるとすれば、それは影だ。
つまり、道化は影でもある。

義経に対する弁慶もある意味、そうした影のような存在でもあり、道化役でもある。

民俗芸能を背景において考えると、『義経記』のなかの「烏滸の者」としての弁慶のなかにもそのような姿を見ることは不可能ではない。7つ道具を体の外延につき出した「異形の者」としての弁慶のイメージはそれだけで弁慶が語り物の世界で、ヒーローの義経の道化方であったことは、広末保氏の指摘するごとくであると思われるが、『義経記』のなかで、吉野川の水上にある白絲の滝という難所で、急流を飛び越えるのに、義経が跳ね上がって竹の先端にとびつき、するりと対岸に渡ったのを見て、「これ程の山河を越えかねて、あの竹に取付き、がたりびしり(がたびし)し給ふこそ見ぐるしけれ。其処退き給へ。この川相違なく跳ね越えて見参に入らん」と、義経に憎まれ口をたたいたまではよかったが、見ごとに、「岩波に叩きかけられ、ただ流れに流れ」ていた。これは典型的な真似のしそこないの演技である。

影は主人を真似る。
しかし、真似することで主人との表裏一体の関係を匂わす一方、そこからズレて主人の振る舞いを別の次元に置き換えるのも道化だ。道化が真似ることでパラレルワールドが発生する
似ているがゆえに、違いも際立つ。

ここで、道化を、演劇=儀礼的イメージの論理にそって、位置づけてみると、それはヒーローとセットとして出て来る場合、それは、ほとんどヒーローと同じアイデンティティに属し、その不可視の外延を構成していると言うことができる。この可塑性が道化の「かたち」とも言うべき側面である。従って同じことは、儀礼に、本筋に関係なく撹乱役として登場する場合にも道化は、儀礼の外延を構成しているのである。

筋はズラされ、復路化して、あれもありこれもありで無意味なものと化す。
しかし、道化の筋は尻切れトンボで長くは続かない。カーニヴァルのさかしまの世界も祭が終われば元どおりになるのと同じで、結局残るのは主人の本筋だけである。この意味でも道化はスケープゴート的である。

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循環をもたらす道化

主人と一対をなして現れる道化。
けれど、話の筋に乗れない道化は主人が物語の進む先で栄光を得るのに対して、人知れず舞台から退場していく。それがスケープゴートの役割だからである。

だが、退場するのは果たして本当に、道化なのだろうか?

最初に、人は長い歴史のなかで「日常的価値体系に組み込まれないもの」を「日常世界の「境界」に押しやって来た」という話を引用したが、その次にはこのような文章が続いていた。

同時に人は、この日常世界は不完全なものであることは知っていたし、この認識が人間の行為の原動力にもなっていた。そして、この不完全な世界に高度の活性を賦与するためには、日常世界を構成するカテゴリーを侵犯し顚倒してみなければならないことも知っていた。ヒーローに日常世界を越えさせる活力を賦与するために、ヒーローの行為の規範と相容れない道化=からみ役をぶっつけて禁制の外へ逸脱させなくてはならない。

英雄には、それに似ていながらすこし異なる道化を対置することで、英雄としての輪郭を明確にする必要がある。それが道化の役割であり、それゆえ、道化は役割を終えると退場する必要がある。
けれど、退場していくのは本当に道化のほうなのだろうか?

主人を真似、主人と重なる道化。
一瞬、2つは重なって、互いに区別がつかなくなる。その一瞬、2つは立場を入れ替えるなんてことはないだろうか。
カーニヴァルは、普段は虐げられる下級のものが王に祭り上げられたりする。カーニヴァルが終われば、偽王はまた追い立てられ、虐げられるのだが、果たして、それは本当に偽王なのだろうか。

祭のあと、境界の外に追いやられるのが道化なのか、本当は王や英雄だったものかはわからない。しかし、道化がそうやって英雄や王と一体化するからこそ、澱んでいたものがまた流れはじめ、循環をもたらす

いま全地球規模で循環が滞って環境的な危機にあるのもまた、道化的なものを、日常の外に追いやりすぎてしまい、それら境界者との関係を失ってしまったからではないかと思う。

権力が「境界」との関係を失うとき、権力はそれを支える基盤を失って形骸化しタナトスとしての制度に転化する可能性を持つ。

まさに、この許容度を極度に失った社会はタナトスと化しているのではないだろうか。

この社会に足りないものはまさに道化なのではないかと思う。


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