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質量をもった大切なピースたち

気持ちよく過ごすためにはそのための行動がいる。うまくやるためにはそうなるようにしないといけない。

自分から、そういう風に仕掛けないのにうまくいくことを望むのは、なかなか図々しい。良くない結果を望まないなら、自分で考え、ちゃんと仕掛けていく必要がある。

楽しく楽してやれるように考えることが大事だと思う。
まわりも自分も楽しみながら必要以上の苦労なく過ごし、目指すべきところに向かうためには、どうしたらいいかを考え、実行する。
そうしてはじめて、物事はうまくいく。

自業自得

人間は、物理的な大きさを持たない抽象的な点などではない。

どこにいるにしても、何をやるにしても、そっと気配を消しているつもりであっても、「自分」という存在はちゃんと物理的に存在していて、まわりの環境に影響を与えている。

通り道の真ん中で立ち尽くしていれば通行の邪魔になる。
街中で大きな声で騒いでいればまわりの人の迷惑になる。
計画通りに仕事を済ませなければ、その仕事を待っていた人が困ってしまう。
ちゃんと楽しく楽してやろうとしなければ、仕事場は雰囲気良くならないし、まわりの人はあなたに対して苦情を言いやすくなる。

自分にもちゃんと質量があり、物理環境に存在しており、常にそれなりに周囲に影響を与えるものだと認識していれば、すべて防げることである。
ようは、それを意識してないことが災いの要因になっている。

つまり、人が物理的な大きさをもった存在であるかぎり、何かよからぬことが起こったら多くの場合、自業自得なのだ(もちろん、反対に良いことが起これば自分のおかげでもある)。

質量のない点

自分を物理的な大きさを持たない、ただの抽象的な点とでも勘違いしてしまっている人は、何か良からぬことが起こってしまった場合、他人やまわりに対して不満を言い始めてしまう。
厄介なことだ。

自分のことが見えないから自分は何も悪くないように平気で思えてしまう。
ほんとに厄介だ。

自分を質量のない点とでも勘違いして、自分がまわりに与える影響を考慮に入れられない。
だから、目の前で起きている厄介ごとの一因が自分にもあると考えずに、とにかく他人や環境を悪くいってしまう。

悪いかどうかさえ、自身の解釈なのだから、自身がそこに関与していないなんてことはない。
自分だけがその状況が悪いと思っているのだとしたら、それこそ自分がなんとかするしかないのに、まわりに不満を言うだけだったり。

何故、そんなにも自分の存在がその状況をつくる一因であることに気づかないのか?

まあ、認識できていない対象を、目の前で起きていることの原因だと考えるのは確かにむずかしい。
だが、そもそも、どうして自分を視野に入れられないのかという話だ。

いや、自分を視野にいれられない人がいるという話ではない。
みんな、多かれ少なかれ自分を視野から外してしまうシーンはある。

良からぬことは大抵そういう時に起こり、そして、自分のことは文字通り棚に上げて他人やまわりのせいにしてしまう。
けれど、本当は、そうならないように自分はどうすれば良いかを考えなかった結果が良くない状況を生み出したわけで、自業自得なのだ。

自分の存在に責任を

自分は常にまわりに影響を与えている。良い影響も与えることができるし、悪い影響も与えてしまう。

そういう自分というものの存在に対して責任感がないと、その結果、まわりで良くないことが起こる。
このことを自覚して生きているかどうかで、世界は楽しくもなれば、不幸なものにもなる

存在するものが自身の存在をないものに扱って、物事の動向を他人事のように見守っているのだから、なかなか物事はうまくいくはずがない。そして、うまくいかないことが自分にも降りかかってきたときだけ文句を言う。
でも、それは自分がやるべきことをやらなかったり、その場の流れを悪くするような形で動かず立ちすくんでしまっているからだったりする。

他人が自分にぶつかってくるのは、前を見て歩いていなかったり、通りの真ん中に立ちすくんでいたりするからだ。
街中で知らない人に文句を言われるのは、他人のことを気にせず、大声で盛り上がっているからだ。
誰かとの共同作業がうまくいかないのは、相手のことをちゃんと理解した上で自分が行なっている行動がどんな影響を及ぼすかも考えもせず、無根拠に自分がいいと思ったことをただやるだけで、まわりをイライラさせているからだ。

それは自分自身の存在に責任を持たないがゆえに起こる自業自得な不具合だ。

大切なピース

良くも悪くも自分という存在がまわりの状況を左右する大切なピースであることを自覚すること。そのことで自分のまわりの状況、ひいては、より広い範囲で社会や世界の状況を好転させることができる。
自分がそういう影響力をもった重要な存在であることを認識すること。
それがすごく大事なことなんだと思う。

これまでの社会は、システム的に正しい答えを出せるようにすること、そういうものを目指してきていた。
生活を良くするために商品やサービスを多様化、細分化して対応しようとしたり、教育も正しい答えを導くための機械的な方法をインストールするようなものだった。
企業のシステムも同様で、とにかく効率的に生産性を高めようとごくごく少ない評価基準のなかで大量生産的なフローやプロセスが不具合なく回るようにすることを目指していた。
ようは個々人が工夫して考えるよりも、外部的なシステムが世の中をうまく回すことを目指した社会だった。

かつては、それが「人々が楽しく楽して生きる」ための戦略だった。

多様な幸福の時代の戦略

しかし、そんな時代はとうに終わっている。その戦略はもはや通用しない。その戦略でまかなうには、人々の「楽しさ」や「楽して」の解釈が違いすぎて多様すぎることが明らかになったからだ。多様な幸福に対応するには、大量生産的な一律のしくみを採用した戦略ではうまくいかないことが明らかになってしまった。

いまは、「人々が楽しく楽して生きる」ためには、各自が「自分ごと」として、世の中をうまく回るようにすることに従事しなくてはならないことが明らかになっている。

それが多様な幸福の時代の戦略だ。
各自が、自分の質量、自分の存在を意識した上で、どうまわりといっしょに自分が楽しく楽して過ごせるかを考えて行動することが求められる時代だ。
多様であることに肯定的にあるためには、他人と自分との違いを受け止めた上で生きる方法を考える必要がある。他人を受け止めるためには、自分の存在を消している場合ではない

ただ、現実のしくみのリデザインが追いついていない面もあるのは確かだ。

商品は大して売れないのに相変わらず大量生産され大量廃棄されているし、教育もまだまだ個々人が考える力を養うためのプログラムには移行できていない。
企業のしくみもそうで、あいも変わらず縦割り分業のフローやプロセスで時代遅れの価値を生む仕掛けから脱せられていない。

そういう風だから、自分が質量をもった存在であることを忘れてしまいやすい環境ではある。
だが、先にも書いたとおり、多様な幸福に対応しようとすれば、その戦略はもはやうまく機能しない。だから、同じように質量を消した態度で振舞っていても、昔よりも不具合は生じやすく、それが自分自身にも直接跳ね返ってきやすくもなっている。

だからこそ、各自が、自分自身で意識して、自分の質量の自覚をもって動くようにならなくてはならないのだと思う。

楽しく楽してやるための仕掛け

楽しく楽してやれる状況は、ただ待っているだけでは手に入らない。
むしろ、そのための仕掛けは自分自身でまわりと協力しあって作る必要がある。

そのためには、互いに各自の目指すところを共有しあい、理解しあう必要がある。そのためにちゃんと会話すること、相手の言うことが自分と違う考えであっても、否定せずに認める広い視野、許容力をもつこと、だ。
自分と違うことを理解するためには教養もいるから、ちゃんと普段から勉強しておく必要があるし、必要になったとき、すぐに調べてみるくせも必要だ。

そして、他人といっしょに活動するにしても、必ずしも、目指すべきもの、手に入れたいものが一致している必要はない。ようは個々の目的は違っても、それらを包括する目的を新たに作ればよい。

この時点でクリエイティブな作業である。この辺りが自然にできないのは、これまでの時代、自分で創造的な思考をせずに、与えられるものだけでやってきたことのツケが回ってきているのだろう。

しかし、いまの時代、考えや目指すところの異なる多様な相手とも、いっしょに活動するための共通の目的を創造したり、その達成を目指す共同作業のプロセスを考えるのにも、個々人のクリエイティビティは問われる。

そう。僕らは誰もが大事なピースなのだから。
誰もが幸福に過ごすための鍵を握っている。
物理的な質量をもった存在は、まわりの流れを良くするために創造性を常に発揮することが求められている。

仕掛けを自分たちでつくる

会話によって互いの目指すところを共有しあい、それぞれ異なる目的をもった人たちが共通して目指すところを創造的につくりだせたら、次はどうやってそこを目指すかというプロセスと方法をいっしょにつくりあげることだ。

ようするに、楽しく楽して、目的達成を目指す仕掛けをいっしょにつくる。

これまでのように外から与えられる仕組みが機能しないのだから、自分たちでそれをつくらないかぎり、うまくいく方向に事が進むはずはない。
いや、場合によっては一歩も進めないことさえあるだろう。

だから、仕掛けづくりは不可欠だ。仕掛けがなくて、うまくいかないのは昔も今も変わらない。変わったのは昔は仕掛けが用意されたが、いまはそれを自分たちで用意する必要があるということだ。

これを知らずに、うまくいかなくて不満をいう人が多いのだと思う。
残念ながら、それは仕掛けをつくらなかった自分が悪い。自業自得というのは、そのことだ。

多様な価値観の組み合わせにより、その都度、参加する人にあった目的、そして、その目指し方を検討し、実行のための仕掛けとして作業の方法、コミュニケーションの方法、何か起きた時の対処法を決める。誰が何が得意で、何ができないかを互いに把握して、互いにできるだけ楽に楽しく事が運べるよう、はじめにちゃんと仕掛けを用意しておくこと。

僕はそのことがいまの時代に仕事をしたり、その他さまざまな活動をしていく上では、とても大事なことだと思う。
やらなくてはいけないことでも、苦労してやるより、楽しく楽にやれた方が結果もともなうから。
そのための工夫をするのは、質量をもった物理的な存在である僕らの役割だと思う。

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