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すべることば

プロジェクトを成功させるために絶対不可欠なもののひとつは「そのプロジェクトは何のために行うのか」を明確にして、プロジェクトメンバー間で共有を行うことだと思っている。

目的が明らかでないのに、どうやって何をやるかが決めたのだろう?と不思議に思うプロジェクトがおそらくたくさんある。やることが目的化してしまっていて、何故それが必要なのかが議論されないので、やることの品質を評価できない。どんなにがんばっても、何をもって「うまく言ったね」というつもりかが不明瞭だから、プロジェクトがうまく進まなかったり、終わったあとに「あれは何だったのか?」と批判を浴びたりもする。それは不幸なので、ちゃんと「何のために?」はしっかり議論し、決めた方がよい。

プロジェクトの各フェーズで行うタスクでも同様だ。
「そのタスクは何を目的として行うのか」をちゃんと問うべきだ。なんとなくありふれたデザイン思考などのプロセスに沿ってやりました!だと、無意味なタスクをひたすらこなすことになる。
そうならないためにも、個々のタスク実行後に求められる具体的なアウトプットは何か、そのアウトプットは次のタスクのインプットにどのように使われると想定しているかを決めておきたい。それをメンバー間で共通認識を持った上でタスクを実行する必要がある。

まあ、プロジェクトをマネジメントする上では当たり前のことだから、このこと自体、「形式的には」守られてはいたりする。
問題は、これをやっていないことにではなく、やったことになっていない状況が起こりやすいということだ。そう、目的の設定が意図に反して「形式的」な設定にしかなっていないというケースが起こってしまうのだ。

なぜ、しっかり目的を定めたプロジェクトなり、その中のタスクの実行において、目的を定めたのに定めたことになっていないという自体が生じるのか?

それはズバリ、目的として定めたはずのことばが中身を伴わないような状態であったりすることがあるからだ。

ことばとしてはあたかも目的の設定がされたように思えるが、そのことばで表現されたものがいったい何なのかを明確にイメージできていないということが起こるのだ。
特にイノベーティブな、まだ存在しないものを創造しようとするプロジェクトにおいては、そもそもイメージを明確にしずらいことからも、目的設定のことばが空虚なものになりがちである。

その背景には、あいまいなものをことばに落とし込み、それをちゃんと自分でイメージできているかを確認することが苦手な人が多いということもあるのだろう。

自分で発していることばが何を示しているのか、わからずに話している人は少なくない。ことばがわかっていれば、具体的なイメージもわかっているということでは必ずしもないのだが、現実にはことばだけで何かをわかったつもりになってしまうケースは少なからず起こる。

そういうことがプロジェクトの目的を定める際にも起こり、自分で定義したことばが何を指し示しているのかを考えてみることなく、なんとなく何かを定義できた気になってしまうのだ。

2つ前の「徴候と予感」では、観念をうまく自分のものにするむずかしさについて書いたけれど、観念をつかまえるコツが普段から身についてないと、ことばだけがうわすべりした目的設定などが起こりやすいのかもしれない。

そのnoteと、1つ前の「メタ世界」でも書いたように、日常世界ではっきりと意味や価値が確定した状態で存在する安定した物事を扱うことはできることと、予感や余韻のようにあやふやで何かよくわからない感覚的なものをうまく扱うことはまったく違うスキルがいる。

『徴候・記憶・外傷』で中井久夫さんはこう書いている。

世界は私にとって徴候の明滅するところである。それはいまだないものを予告している世界であるが、眼前に明白に存在するものはほとんど問題にならない世界である。これをプレ世界というならば、ここにおいては、もっともとおく、もっともかすかなもの、存在の地平線に明滅しているものほど、重大な価値と意味とを有するものではないだろうか。

プレ世界が「いまだないものを予告している世界」だとすれば、そこはある意味、イノベーションが生まれてくる領域であり、まだ見ぬ新たなものを生みだすプロジェクトが目的とするものが潜む世界である。
だからこそ、「眼前に明白に存在するものはほとんど問題にならない」プレ世界の扱い方に長けていないと、先のような、ことばだけがうわすべりした目的設定というミスを犯しがちだ。
きっとプレ世界を記述すべきところを、日常世界の言語で記述してしまうから、中身はするりと逃げていってしまうのだ。

中井さんは「詩とは言語の徴候優位的使用によってつくられるものである」とも書いているが、これは『形象の力』でエルネスト・グラッシが次のように書いていることと関連させて読むことで、日常世界にとらわれがちな思考を突破するのには、少なからず詩的な思考が求められることに気づく。

ランボーはかつての先生イザンバールに宛てた有名な手紙の中で〈見者〉たる詩人について語っている。この者は、リアルな現実、すなわち確固としたものの圏内の背後にある原現実の視界に達するために、それらを拒絶し突破する晴れやかな任務を帯びているのであると。詩人はその告知者でありたいと願うし、そうあらねばならない。

もちろん、詩的であることはポエム的な妄想を語ることではない。それは日常世界の「当たり前」が崩れていくきっかけとなる目立たぬ小さな亀裂を「それは、ここにある」と告発するような鋭いことばを立てることだと思う。そこから常識のリフレーミングが起こるようなポイントを明らかにしてみせること、そして、そのリフレーミングの結果、どのようなことが起こることを望むのか? それがイノベーティブなプロジェクトで記述すべき目的なのではないだろうか。

それは望むべき世界の変化と、そのために必要となる兆しについての仮説を指し示したものになっているとよい。

だから、いまだ存在しないものを生みだそうとするイノベーティブなプロジェクトの目的を定めようとする際、それを単純に、常識的なことばにおさめようとすれば、失敗する。未知の具体的な状態を目的に設定することとは逆の方向にことば選びの基準が働き、結果、意味のない(いや、むしろ障害となるような)目的が設定されるのだろうから。
なんとか常識にとらわれそうになる誘惑を逃れても、未知を扱うのに慣れていないと自分で設定したことばが具体的な未来を指し示したものになっているかが判断できず、多くの場合、ことばのみがうわすべりした、中身のない目的が設定されたりするだろう。
いずれにしても、結局、ことばばかりがうわすべりして、何を目指しているのかがまったく目に見えない空虚な目的が設定されることになる。これでは目的をまったく設定しなかったのと、結果として変わらない。どんなにがんばっても苦労は報われない。

そんな悲しいことにならないようにするためにも、僕らは、ちゃんと詩人のことばを持てるようにならなくてはならない。一見、地位の確立したエスタブリッシュなことばにばかりに頼っていると、他の人が先回りして起こすイノベーションによって、その足元の土台ごと、ごっそりと切り崩されるのが、この変化の激しい時代なのだから。

誰一人、芸術的であろうとすることを免れない時代。
うわすべりすることのない詩的なことばを刻むことが必要な時代。

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