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言葉とイメージの狭間で

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ヨーロッパ文化史に関する話題を中心的に扱いながら、人間がいかに考え、行動するのか?を、言葉とイメージという2大思考ツールの狭間で考える日々の思考実験場
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#仕事

もってる知識は多いほどいい

同じものを見たり、同じ話を聞いたりしても、人によってどう認識し何を理解するかは大きく異なる。 解釈は人それぞれだというが、では、何がその解釈の違いを生んでいるのかと言えば、各自がもつ情報量・知識量の違いだろう。ありきたりの解釈ばかりが生まれてくるとしたら、そこに集まる人たちの知識の幅がきわめて常識的な範囲に狭く収まってしまっていたりするからなんだろうと思う。 解釈の違いは、価値観の違いから生じるとみることもできるが、その場合も何が価値観をつくっているのかというとどんな情報や

目的を見失った仕事

どんな場所を目指すのかがわかっていなければ、どんなコンパスや地図があろうと、目的地にたどり着くことはできない。 目指す場所がわかっていなければ、どこにたどり着こうとそこが目的地なのかが判断できないのだから。 手段ではなく目的に焦点をこんな当たり前のことは誰でも理解できるのに、なぜか目的地のことをおざなりにして、ツールや方法に固執してしまうのを目にすることは少なくない。 一言でいえば、手段が目的になってしまうということなのだが、そうなると、それが何の手段かは見えなくなり、それ

仕事の準備と行為の7段階理論

1つ前のnoteで準備の話を書いたけど、もうひとつ書くの忘れてた。 仕事が早いか遅いかも準備次第だということを。 準備できてるから仕事が早い仕事が早い人はたいてい驚くほど前から準備をしてる。何の準備がいつ必要になるかが予測できてるから、つねに準備は万端だ。 どの準備を何時ごろまでに終わらせておかないと他の準備との関係で間に合わないかを把握できているから準備が間に合わないということはない。 準備が間に合ってるからこそ、ちゃんと仕事ができる。 準備ができていれば、その場ではあ

知ることと創造性

多かれ少なかれ仕事をするには創造性(クリエイティヴィティ)が求められる。 いや、そこまで広げるまでもなく、創造的な仕事をしたければやっぱり準備だよねと思う。それなしでそれなりのことできるなんてことないから。 その意味で、準備以外に生きる時間を何に使うの?と本気で思う。 まあ、創造そのものをする時間にも当然使うのだけど、創造の時間ってなんとなく自分で時間を使ってるというか、創造の時間に巻き込まれてるって感覚がある。 前に話題にした中動態の世界かな、と。 そうなると能動的に

自立共生(コンヴィヴィアリティ)

すぐれて現代的でしかも産業に支配されていない未来社会についての理論を定式化するには、自然な規模と限界を認識することが必要だ。この限界内でのみ機械は奴隷の代わりをすることができるのだし、この限界をこえれば機械は新たな種類の奴隷制をもたらすということを、私たちは結局は認めなければならない。教育が人々を神神的環境に適応させることができるのは、この限界内だけのことにすぎない。この限界をこえれば、社会の全般的な校舎化・病棟化・獄舎化が現れる。 人がみずからの意思で行動することを制限す

すべっていく言葉

すべっていく。 意味のわからない言葉が、中身をともなわないキーワードが、右から左へ、つるつる、つるつるとすべっていく。すべり落ちていく。 どこにもひっかかることなく、現れては消えていく。 あっちからこっちへ、ただ意味もなく移動するだけ。 何ももたらさずに、それに費やされる時間だけが浪費される。 言葉が何も生みだすこともなく、次々にすべっていく。 意味をもたない言葉の集合によって、自分も含めたまわりのみんなの活動の目的を示した文章を構成していたとしても不思議にも思わなかった

理想ではなく現実の素材を組み立てる

仕事であたふたせずに結果を出す。 あたふたしてしまうのは、多分に現実に向き合って臨機応変に行動しようとするのではなく、自分のなかでどうすればいいだろうかとばかり考えてしまうからだったりしないだろうか。 結果というのは外に出すものだ。 だから、自分の内でばかりあたふた慌てても仕方ない。 慌ててしまいそうになるときこそ、自分の外の現実に向きあわないと。 冷蔵庫には何が残っているかいま、この場で何が求められているのか? それを実現するにはいま目の前に提示されているこの素材を使

「できる」を奪わない

ひとりひとりが自分で考えて、行動すること。 それがどんなに面倒で大変なことであっても、それだけは避けてはいけない。 そういう社会へとどんどん変わっていくのではないか。 いや、変わっていけるようにしないと、ちょっとやばい。 この持続可能性の問いが社会全体に課せられている状況では、ひとりひとりが自分で考えて行動するということこそがもっとも大切なことではないかと思うからだ。 自分自身で考えることでほかの誰かに搾取されることを防ぐ必要がある。逆にいえば、ほかの誰かの考えを尊重するこ

意思をもって流れに身を任せる

仕事をする際――いや、もっと広く日常的に暮らしているとき全般に言えることだと思うが――、何をするにも他者のことを慮ることはとても大事で、かつ、そうすることが当たり前なことだと思う。 自分たちが望む状態を実現し、かつ、それができるだけ持続できるようにするためにも、自分本位でだけではなく、利他的な視点ももって、事を進めなくては、よい結果は得られない。 そうじゃないと、苦労しても水の泡になることもある。 だから、どうやって進めるかを考えることは大事だ。 何のために、どうやって

吝嗇(りんしょく)とデザイン

吝嗇。「りんしょく」と読む。 意味は「極端に物惜しみすること」。つまり「ケチ」。 節約が度を越すと吝嗇となる。 1つ前で紹介したデヴィッド・グレーバーの『ブルシット・ジョブ』。 実は、そこですこし書き足りなかったこともあって、それが吝嗇あるいは節約の問題である。 でも、グレーバーの話に入る前に、すこし遠回り。 グレーバーのいう節約とは真逆の位置にある芸術について、すこし書いてみたい。 浪費の一様式としての芸術「芸術とは浪費の一様式であり、なにものかをその功利的価値のた

デヴィッド・グレーバー、「経済とは何か?」を問う

亡くなってはじめて、その人の偉大さに気づかされるということばかりをくり返す。 僕ら人間はそんな愚かな存在だ。 デヴィッド・グレーバーのことも先日、訃報を知ったあと、いろいろ調べるようになった。 あらためて調べてみればみるほど、デヴィッド・グレーバーという人の存在の大きさを感じている。 そのなかで『民主主義の非西洋起源について』の出版元である以文社のサイトにある、いくつかの記事を読みながら、思ったことを書いてみたい。 経済とは何か?「コロナ後の世界と「ブルシット・エコノミ

居場所

みんな、弱っているのかな。 日に日にそういう風に思うことが増えてきているように思う。 街に、職場に、人の気配や交流が少なくなっているのは仕方ないとしても、なんだか、それとは本来無関係なはずのネット上での発言や閲覧も減っている印象がこの数ヶ月あって、それはますます顕著になってきている。 そう、感じません? 身体的な動きをともなう活動が減っているだけでなく、ネットを見たり発言したりというような精神的なものが中心となる活動も同時に減ってしまうというのは考えさせられる。 身体を使

リモートワーク環境下での生産性

zoomのようなビデオ会議システムとslackのようなチャット型コミュニケーションツール。 どちらもいまやリモートワークをする上では欠かせないツールだ。 けれど、この2つをうまく使い分けないと仕事の質もスピードも落ちる。 端的にいうと、ビデオ会議側に頼りすぎると、質もスピードも落ちる。 なぜ、そうなるかを考えてみたい。 熱いメディアと冷たいメディア「メディアはメッセージである」などの言葉で知られるメディア理論家のマーシャル・マクルーハンの提唱した概念のひとつに「熱いメデ

仕事の改革

仕事に関する話題としては、世の中、リモートワークに関することで持ちきりだ。 もうオフィスワークや、それに伴う通勤には耐えられないという声はよく聞く。 もちろん、共感する部分はある。 でも、仕事について、そんな話ばかりに終始する気には到底なれないし、リモートワークを過度に要求したいという気持ちにもならない。 とりわけリモートワークかオフィスワークかという二者択一的な話はどちらの形態にだっていいところがあるので、どちらかを選ぶという話はナンセンスすぎるように思う。 それより