見出し画像

デヴィッド・グレーバー、「経済とは何か?」を問う

亡くなってはじめて、その人の偉大さに気づかされるということばかりをくり返す。
僕ら人間はそんな愚かな存在だ。

デヴィッド・グレーバーのことも先日、訃報を知ったあと、いろいろ調べるようになった。
あらためて調べてみればみるほど、デヴィッド・グレーバーという人の存在の大きさを感じている。

そのなかで『民主主義の非西洋起源について』の出版元である以文社のサイトにある、いくつかの記事を読みながら、思ったことを書いてみたい。

経済とは何か?

コロナ後の世界と「ブルシット・エコノミー」」という論考のなかで、グレーバーは「経済とは何か?」を問うている。

ロックダウン解除後に当たり前のように叫ばれてきた「経済再始動」に疑問を投げかけ、いったい、一度ストップした経済とは何か? そして、いま再始動を目指す経済とは何か? を問うている。

 要するに、もしも経済というものが、単に人びとが生きていけるようにするための手段なのだとしたら、つまり食べ物や衣服や住まいを、さらには楽しみの糧を与える手段なのだとしたら、わたしたちの大部分にとって、経済はロックダウンのさなかにも、完璧に動いていたということになる。
 もしも経済というものが、生きるために必要な財とサービスを用意することではないのだとしたら、いったいそれは何だということになるのか。

経済が止まっていたはずのロックダウン下においても、人びとの生活は動いていたというのは、その通りだろう。いつもと違う日常ではあっても、生きることが止まっていたわけではない。止まっていたのは、せいぜいお金の流れであって、生きるために本当に必要な事柄ではない。

だとしたら、止まっていたと言われる経済とは何なのか? それは人間が生きていくために必要なものか?

グレーバーはそう問うている。

ロックダウン後に動きだしてほしいと人びとが願うものはあった。けれど、それが経済が再始動することだったか?というと、おそらく違う。

画像2

グレーバーは、その違いをこんなかたちで明らかにする。

明らかに、コロナ下の社会生活のなかには、まっとうなひとなら誰もが再び動き出してほしいと願うはずのものがたくさんある。カフェ、ボウリング場、大学といったものだ。けれどこうしたものは、ほとんどのひとが「生活」の問題とみなすものであって、「経済」の問題ではない。

グレーバーが言うように、僕らが再始動してほしかったのは、経済ではなく、飲食店や映画館、ライブハウス、学校、大学といった僕らの生活に欠かせないものだ。

そういう生活を成り立たせてくれている人たちが僕らに提供してくれる仕事であって、僕らには直接何の役に立っているかわからない仕事を含めた経済なんていう抽象的なものではなかったはずだ。

ブルシット・セクター

僕らが本当に望んでいるわけではない再始動の対象が何かを、グレーバーはこんな風に名指しする。

それはブルシット・セクターの仕事だ、と。

 ともあれ、「経済」を再始動するという表現がなされる時、わたしたちが再始動するよう求められているのはブルシット・セクターにほかならない。
 経営者が他の経営者を管理するこのブルシット・セクターは、広報コンサルタントやテレマーケターやブランド・マネージャー、戦略主幹や創発部長(および彼らを取り巻く補佐役の一群)、学校や病院の理事たちの世界だ。そしてまた、ピカピカの社内報のグラフィックデザインで結構な収入を得る人びとの世界でもある。社内報にそれだけの金をかける企業の現業スタッフは能率アップを迫られ、人減らしの対象とされ、果てしもない無用な書類仕事に追われているというのに。

まさに、『ブルシット・ジョブ』でグレーバーが指摘しているような「なくなっても世の中が困らない仕事」だろう。

管理のための管理、だれも見ることない分厚い書類の束だけをつくる仕事。だれもほしいと思わない商品の、だれもクリックしない広告をつくったり、その掲載費をとる仕事。現場の先生や医師が生徒に教えたり患者を診察したりする時間を削るだけの事務仕事をいくつも科してくる事務員たちの仕事。

あるいは、高いお金をかけてピカピカの社内報がつくられる代わりに、実際に、市民の生活に有益なものを届ける現場の人の職がカットされる、そんな仕事。実際に生活のなかで使われるものを作ったり、売ったりする仕事よりも、コンサルタントのレポートや、広告屋のバナーなど、食べることはもちろん、生きるための知恵になることもないものを生みだす仕事に、高い報酬が割り振られる。

再始動が望まれる経済とは、こうした仕事のことだとしたら、たしかにブルシットなのかもしれない。
僕自身の仕事も含めてだ。

サービス業の割合増加の正体

グレーバーは、1980年代以降の世界における雇用構造の変化について、このような指摘している。

1980年代以降、雇用構造の変化についての議論はすべて、全世界的な傾向として、とりわけ富裕国において、農業と製造業は徐々に停滞していくのに対し、いわゆる「サービス業」は徐々に増加していくという認識からはじめることがお約束であった。

サービス業に勤務する人、サービス業のビジネス規模の増加が叫ばれてひさしい。だから、サービスデザインが重要であるなんていう根拠にも使われる。

残念ながら、僕もそれをこれまで鵜呑みにしてきた。

しかし、グレーバーが示すこのグラフを見て、目が覚めた。

画像1

そうなのだ、増えているのは、サービス業でも、飲食店や映画館、美容師など、僕らの生活に直接関わり、かつ僕らをケアしてくれるものでもあるモノをサーブしてくれる仕事ではなく(それはほぼ横ばいだ)、単に、紙の上やデータサーバー上に記録された情報をあっちからこっちへ移動させる類いのサービスプロバイダーなのだ。

ここから読み取れるように、1990年においてすら、ウェイターや床屋、販売員などによって構成される労働力の割合は、かなり少なかった。1世紀以上にわたっておおよそ20%を維持したまま、顕著なまでの安定をみせているのである。それ以外にサービス部門にふくまれるものの大多数が、実質的には行政官、コンサルタント、事務員や会計スタッフ、IT専門家などであった。サービス部門のなかで実際に増加している――そして1950年代前半以降劇的に増加している――のは、まさにこれらなのである。

残念ながら、グレーバーが「ブルシット・ジョブとは、被雇用者本人でさえ、その存在を正当化しがたいほど、完璧に無意味で、不必要で、有害でもある有償な雇用の形態である。とはいえ、その雇用条件の一環として、本人は、そうでないと取り繕わなければならないように感じている」と定義するような、ブルシット・ジョブが増加しているのは、「まさにこの領域であることは、いうまでもない」。

そう、グレーバーは明確に述べる。
そして、経済再始動という場合、どちらかといえば、その対象となっているのは、旧来的なサービス業というより、情報サービス業といわれる高給とりたちの仕事の再始動なのだ。残念ながら。

体験価値という有償の霞

なぜ、こんな直接、僕らの生活を豊かにすることもない仕事ばかりが増えたのだろう。

先の「コロナ後の世界と「ブルシット・エコノミー」」という記事で、グレーバーはこうも言っている。

 わたしが思うに、召使いやチェック要員やガムテープ係といった一群の人びとは、封建時代の従僕の現代における対応物とみなすのが一番よい。こうした人びとの存在は、金融化の論理的な帰結だ。つまり企業利益が何かを生産することに──さらには何かを売ることにさえ──依拠することを次第にやめていき、企業と政府双方の官僚的制度が連携を深めつつ(両者は相互に絡み合い、次第に区別し難いものとなっている)、人びとに私的債務をつくらせることで利益が生み出されていくという金融化のシステムに伴って、こうした職種も生み出されることになるのだ。

もはや企業は、生活に役立つものを大してつくりもしないし、売りもしない。情報をあちこちに移動させるだけで、見かけ上の収益をあげている。

もちろん、それにお金を払っている僕らの生活は、具体的なモノがいままで以上に提供されるわけではないから、実質的にはさほど変わっていない。

それを「体験価値」だの、「コト消費」だの、うまいこと言って、お金を払って霞を食わされているようなものだ。

画像3

生活とは無関係な仕事と生活のための仕事

もうひとつ別の記事。
フランス発の動画ニュースサイト「ブリュット」の米国版に掲載されたグレーバーのインタヴューを元に、『民主主義の非西洋起源について』の翻訳者でもある片岡大右さんが書いている「「魔神は瓶に戻せない」D・グレーバー、コロナ禍を語る/片岡大右」という記事も参考になる。

片山さんは記事の冒頭、こう書いている。

実入りのよいホワイトカラーであるほどその仕事には社会的意義がなく、そのことに自覚的な少なからずが「内心必要がないと思っている作業に時間を費やし、道徳的、精神的な傷を負っている」一方、「日々行われるケアによって社会を可能にしている人びと」は、医師のような例外を除き、不安定な低処遇を強いられがちであるという現実。
 グレーバーは新型コロナ危機を、何よりそうした「通常」の異常さが露呈する契機として捉え、彼が「ケア階級(caring class)」と名付ける人びとに正当な地位を回復させて新たな社会的現実を生み出すべきことを説く。

このコロナ禍で、僕らが仕事の尊さを知ったのは、医療従事者、農業従事者、生活に密着した品を扱う小売業者の人びとの存在を通じてではなかったか。

僕らが家に閉じこもって怯えてたときも、そういう人たちは僕たちに生きるための糧を届け続けてくれた。

そうした人びとの所得が低く、何の役にも立たない仕事をひたすら続ける人たちの仕事の所得が高い状況に、グレーバーは異を唱え続けた。

元のインタビュー記事(日本語字幕付き)はこちら

新常態やグリーン・リカバリー、"build back better"など、コロナ禍からの僕らがどのような状態に戻るのかを問う標語はいろいろ囁かれている。

しかし、BLMなどの各種社会的・経済的格差といった、さまざまな「魔神」たちが一斉に瓶から飛び出て、一気に問題を露呈させてしまった以上、それに何もなかったように蓋をするのは、あまりにイケテナイ。

ただでさえ、気候変動による脅威がまったなしで訪れようとしている状況だ。これ以上、ブルシットな経済を回し続ける余裕はない。

僕らはみんなで、ブルシットではない、生きるための新しい経済をこそ模索しなくてはいけないのだろう。

僕自身、では、どうすればいいのかということにまだ、まったく見当はついていない。でも、見当がついていないからといって何もできないわけではない。考えることはできるし、知ろうとすることはいつでもできる。
だから、グレーバーの書いたものを、もっと読もうと思う。

みなさんもまずは、ここで紹介させてもらったグレーバーの記事やインタビューに触れるところからはじめてみてはどうだろう。

基本的にnoteは無料で提供していきたいなと思っていますが、サポートいただけると励みになります。応援の気持ちを期待してます。