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吝嗇(りんしょく)とデザイン

吝嗇。「りんしょく」と読む。
意味は「極端に物惜しみすること」。つまり「ケチ」。

節約が度を越すと吝嗇となる。

1つ前で紹介したデヴィッド・グレーバーの『ブルシット・ジョブ』
実は、そこですこし書き足りなかったこともあって、それが吝嗇あるいは節約の問題である。

でも、グレーバーの話に入る前に、すこし遠回り。
グレーバーのいう節約とは真逆の位置にある芸術について、すこし書いてみたい。

浪費の一様式としての芸術

芸術とは浪費の一様式であり、なにものかをその功利的価値のためのみでなく、それを作る喜びそのもののために作ろうとする欲望である」と書いているのは、19世紀の芸術と科学の根底に、ともに「方法」としてのテクノロジーが忍び込んださまを暴きだした名著『文学とテクノロジー』でのワイリー・サイファーである。

芸術とは浪費の一様式。
そう、それはいわゆる人間的な意味での生産の観点からすれば、たしかに非生産的な創造であり、吝嗇とは正反対の意味で浪費だ。

日常生活に直接役に立つものをつくるのが生産だとしたら、芸術的な創作は生産力の浪費だともいえる。

もちろん、そのこと自体が芸術の価値である。
芸術は浪費的な創造を行うことにより、日常の生産を転倒させて、その意味の問いなおしを行うところに価値をもつ。

サイファーはさらに「動物のなかでも最も模倣的なものとして、人間は余計なものを作ることに自らを費やし、その余計な努力は浪費よりも創造のなかに費やされるべきものである」と書いたうえで、19世紀のラファエル前派などの芸術家たちや、のちにアーツ・アンド・クラフツ運動を主導することになるウィリアム・モリスにも影響を与えた、美術批評家のジョン・ラスキンが建築における吝嗇を否定し、ゴシック建築の浪費的装飾を称賛した様子を以下のように描いている。

ラスキンはこの原理を彼のゴシック解釈の基礎としているが、たしかにゴシックは機能的であるばかりでなく装飾的でもある。事実、ラスキンはいわゆる機能的建築というものが、功利性のみをめざして、われわれの喜びの記念碑として存在するはずのもののために「贅沢に費やそう」とする無計画な本能に根ざしていないとき、その背後にひそむ迷妄を嗅ぎとっていたのであった。ゴシック様式の装飾は建築における吝嗇の法則を修正する。

「贅沢に費やそう」とする無計画な本能。
たしかにラスキンが『ヴェネツィアの石』のような建築論で称賛するのは、贅を費やすことを惜しむようなルネサンス以降の建築ではなく、奔放に装飾に労を費やす中世のゴシック建築である。

頭で考えられた計画(デザイン)によって生まれる形態ではなく、鑿をもつ職人の手の思想からデザインを介さず生まれてくる形態。

ゴシックよりさらに遡る初期ロマネスクの建築をラスキンは次のように称賛する。

実は、すべての初期ロマネスク様式においては、大部分の表面がただ豊かさを見せつけるために彫刻で一面に覆われていた。彫刻にはいつも意味があるし、そのわけは、彫刻家は一連の関連する思想なしに制作するよりも、鑿を導くのにある種の連続した思想をもって制作した方が容易であったからである。しかし、この連続した思想が観察者によって跡づけられ理解されるなどかならずしも意図されなかったし、少なくとも希望されなかった。作品で提示されたすべては、眼を楽しませるために、表面を豊かに見せることであったようである。

機能的ではなく、あくまで表面を豊かにみせ、目を楽しませるためだけに費やされた彫刻。

まさに浪費の一様式としての芸術そのものだ。

テクノロジーにおける最小努力の原理

ラスキンが19世紀において、吝嗇の問題を提示するのは、それがそのまま芸術とテクノロジーの問題につながるからだ。

サイファーはこう書いている。

純粋科学における動機とテクノロジーにおける動機との区別をよりはっきりさせるために、ここにダニエル・ベルの「技術主義的至上命令」という言葉を思い出してみるのもいいだろう。つまり、それは浪費への恐怖であり、吝嗇の心理学、あるいは後にわれわれが必要とする用語をここに用いれば、倹約の心理学から生まれる能率への関心のことである。いいかえれば、それは最小努力の原理であり、普通それは問題自体の本質の究明にではなく、差し当たりの問題解決ということに向けられるものだ。

最小努力の原理。
言い換えれば、吝嗇の原理ともいえる行動指針が、19世紀のさまざまな分野に浸透していたのである。

それがテクノロジーと純粋科学の動機を区別した。
テクノロジーの動機は、いかに最小努力でことを成すかということだったのだ。

そして、産業革命以降の近代がみずからの生きる根底において信頼をおきはじめていたのがテクノロジーだ。

「19世紀は企業、科学、芸術すべての世界において、なんでも方法論を発明せずにはおかなかった時代である」とサイファーはいう。

そして、「科学的方法、歴史的方法、写実主義的ないし自然主義的方法、詩、絵画、音楽におけるパルナシアン的ないし象徴主義的方法――ヴァーグナー主義、印象主義、点描主義、ラファエル前派、ナビズム、どれひとつとっても、そこには常になんらかの計画なり理論がつきまとっていた」と書くとき、そこには、ラスキンが初期ロマネスクにはそれがないがゆえに称賛した「計画」がもれなくつきまとうようになったのが、方法の時代、テクノロジーの時代としての19世紀である。

そして、「リヴァイアサンと空気ポンプ/スティーヴン・シェイピン+サイモン・シャッファー」でもたどったように、その方法の時代へと舵を切りはじめたのが、17世紀なかばの英国王立協会の科学者たちによる実験哲学というあらたな思考法の確立においてである。そして、それに反旗を翻したのがトマス・ホッブズであったことは、そこでも指摘した。

最小努力というように、その時代の価値は計測可能な価値を根底とするものとなったわけだ。

ラスキンの称賛したロマネスクの表面を豊かにするだけに存在する彫刻のような、浪費の一様式としての芸術に価値をみいだすような計測不可能な価値観からは大きく隔たったわけである。

計測不可能な価値がみえなくなる

しかし、そのホッブズでさえ、あとの時代からみれば、節約とは無関係な態度にみえるということは、次のようなグレーバーの本からの引用であきらかになる。

近代経済学の中核をなす諸前提のほとんどが、そのルーツをたどれば神学的な議論に帰着するのである。たとえば、わたしたちは有限の世界のなかで無限の欲望に呪われているため、おのずと〔自然状態において〕競合の関係におちいるほかないという聖アウグスティヌスの議論である(17世紀に世俗的なかたちでトマス・ホップズにおいて再登場する)。この議論は、人間行動の合理性とは「節約」の問題であり、競合関係のただなかで合理的アクターにより稀少な資源をいかに最適に配分するかの問題であるという考えの基礎となった。

いうまでもなく節約という意識が働くためには、量的な比較が可能でなくてはならない。数量的な測定可能性があってはじめて節約という観念は意味をもつ。

ここでようやくグレーバーが、「実質のある仕事のブルシット化の大部分、そしてブルシット部門がより大きく膨張している理由の大部分は、数量化しえないものを数量化しようとする欲望の直接的な帰結だ」と書いていたことの問題点により深く思い当たるようになる。

その問題点というのは、グレーバーが次のように説明するように、ラスキン的な芸術をはじめとする数量的に計測不可能な価値が社会的にみえにくくなった、評価しにくくなったということなのだと思う。

貨幣の導入がもたらすあらたな次元、それは正確な量的比較を可能にする力である。貨幣を使うならば、この量の銑鉄はフルーツドリンク何杯分、ペディキュア何個分、グラストンベリー音楽フェスティバルのチケット何枚分と、同一の価値を表現することが可能になる。(中略)まさに「諸価値」の領域には欠落しているものがこれである――ある芸術作品は他の作品よりも美しいと主張したり、ある宗教の信者は他の信者よりも信心深いということはできるかもしれないが、それがどの程度なのかを問うことや、この修道士はそれ以外の修道士より5倍信心深いだとか、このレンブラント作品はあのモネ作品の2倍すばらしいなどと発言することは奇異に響くだろう。

愛情の価値、友情の価値、家事仕事の価値、芸術作品の価値、それらは本来、値付けできない価値である。

芸術作品がたとえ値がつけられて売買されても、芸術作品の価値がその値段だといわれてもしっくりこない。

グレーバーは、英語における単数形の「価値(value)」と複数形の「諸価値(values)」の区別について言及していた。

単数形の「価値(value)」が使われるのは、「金の価値、豚バラの価値、骨董品の価値、金融派生商品の価値など」をいうとき。
それに対して、複数形の「諸価値(values)」が使われるのは、家族、宗教道徳、政治理念、美、真実、尊厳などにかかわるときだ。

まさにこの複数形のほうの「諸価値(values)」に値するもののほうが、数量的な計測が不可能な価値であり、値付けには向かないものなのだ。

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比較できると交換できる

商品は、他の商品と比較することができるまさにそのことによって経済的「価値」をもつ。それと同様に、「諸価値」は、なにものとも比較することができないそのことによって価値があるのである。諸価値は、それぞれにかけがえがなく、尺度しえないものとみなされている。要するに価値のつけられないものとみなされているのだ。

数量的な値付けが行われると、全然異なる品同士の交換も可能になる。
しかし、値付け可能なものばかり流通させておくと、値付け不可能なものは経済中心の社会からは抜け落ちてしまう。すくなくとも軽視されるようになる。

経済的な視点にたつと、本来人間の生活には欠かせない、家事労働や、家族への愛、友人への友情から派生する交流やたがいのケア、芸術作品をつくったり鑑賞したりという大事な労働がみえなくなってしまうからだ。

そこにこそ、ブルシットな仕事ばかりになってしまうという問題の根本的な原因があるというのが、グレーバーの論点の1つだ。

なんでも計測可能にし、比較でき、交換可能にしてしまうことで、計測不可能なもののあいだに成立するような贈与の関係は社会から消えていく
贈与の関係にはあるケアリングの思考が抜け落ちて、金銭による交換という非人間的な関係だけになる。

実は、貨幣価値という数量化での交換可能性だけでなく、時間という数字を交換可能なものにしたことも、産業革命以降に人間の行う仕事の結果だけでなく、仕事そのものを交換可能なものにした前提だとグレーバーは指摘する。

古代ギリシア人やローマ人が陶工を見かけたとして、その陶工から鍋や釜を買おうかなと考えることはあっただろう。さらには、その陶工自身を買おうとさえ考えたかもしれない。古代世界では、奴隷制はおなじみの制度だったのであるから。ところが、その陶工の時間を買えるという考えなど頭をよぎりもしなかったはずだ。(中略)そのような観念は、最も洗練されたローマ法学者ですら理解しがたい2つの概念間の飛躍が必要だったからである。第一に、陶工本人から区別された陶工の労働する能力、つまり、陶工の「労働力」。第二に、その能力を現金で購入できるような、均一の時間的容器――時間数、日数、勤務表――に配分できる方法。平均的なアテネ人やローマ人からしてみれば、このような発想は、風変わりで奇妙な、あるいは神秘的なものにさえ映ったであろう。一体、どうすれば時間を買えるというのだ? 時間なんて抽象的なものを!

時間が交換可能になることで、職人の労働時間に値付けが可能になった。職人をつくった品を買うのではなく、職人そのものを買うことが可能になった。

労働者に報酬を支払う契約で、彼らの時間そのものを買うことができるようになった。

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労働時間が交換価値に

それにはまず時間を、ほかの時間と容易に比較できるようになる必要があった。

なによりもまず、時間とはなにかにかんする常識が変わらなくてはならなかった。長いあいだ、人間という存在は天空を観察することによって、絶対的な――あるいは恒星を基準とする――時間の観念に精通してきた。(中略)たとえば、12時間という単位が日の出から日の入までと決められているとしよう。そのばあい、ある場所からある場所まで3時間であると〔抽象的に〕いったとしても、季節がわからなければ、なんの意味もない。冬時間は夏時間の半分の長さになるからだ。わたしがマダガスカルに暮らしていたとき、田舎の人びと――ほとんど時計を利用しない人びと――は、いまだに距離を説明するのに古風なやり方をとっていて、もうひとつの村まで歩いていくには釜の米を2回炊きあげるぐらいかかる、と表現していることに気がついた。

この状態では、時間が交換可能とは思えない。
時間を交換可能なものとし、売買可能な商品とするためには、『鉄道旅行の歴史』でヴォルフガング・シヴェルブシュが示したように鉄道によってもたらされた標準時間の制定が必要だったはずである。

それによって、上記の引用にあるような地域間での時間の格差を消すことが可能になったようにみせることができたはずだから。

そして、いったん時がお金と同じように交換可能なものとなると、時間の観念が変わる。

時は金なりということにいったんなってしまえば、時はたんに「すぎゆく(passing)」ものという以上に、「使う/支出する(spending time)」こともできるようなものとなる――さらには、浪費することも(wasting time)、無駄にすることも(killing time)、節約することも(saving time)、損することも(losing time)、戦うことも(racing against time)できるようになった。

人の労働も時間単位で売買可能な交換価値となり、その人がもっている測定不可能な諸価値としての使用価値などは背後に隠れて、買った労働時間を、世の中の役に立つ仕事に費やすのか、ブルシットな仕事に費やすのかは、購入した人のさじ加減にもできるようになったのだ。

計測可能になることで生産性などが問題となり、ケチにもなる。
だが、計測されて数値化されたものからは、交換価値とは異なる使用価値が抜け落ちたりする。ましてや計測不可能な諸価値はみえない。
だから、ケチなのに無駄な作業をひたすら効率よくやろうなんていうブルシットな仕事も発生する。なんのための仕事かが問われないまま、作業が目的化されて、その作業効率性だけが問われたりするからだ。だが、ゼロに何をかけてもゼロだ。いや、それなのに何かをかけ続けなくてはいけないという無駄があるからマイナスなのだ。

そして、計測可能で、比較可能であるということが、計画することの条件である。

つまり、デザインの前提条件であるということを、僕らは忘れてはならない。

計測可能なものを扱うようになり、僕らの創造力は、計画とは無関係の芸術的な創作から、計画としてのデザインに振り分けられがちとなった。

ただ、しかし、デザインという仕事をしようにも、本当に生きるうえで大事なものであるはずの、測定不可能な諸価値をもったものは、その対象から外れてしまっていたりするのだ。

まさに、そういう状況にあるわけだから、ブルシットな仕事が生まれやすいのは致し方ないのだといえる。

この根本的なところを改善しないと、世の中からブルシット・ジョブを減らしていくことは不可能なのだと思う。




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