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知ることと創造性

多かれ少なかれ仕事をするには創造性(クリエイティヴィティ)が求められる。

いや、そこまで広げるまでもなく、創造的な仕事をしたければやっぱり準備だよねと思う。それなしでそれなりのことできるなんてことないから。

その意味で、準備以外に生きる時間を何に使うの?と本気で思う。
まあ、創造そのものをする時間にも当然使うのだけど、創造の時間ってなんとなく自分で時間を使ってるというか、創造の時間に巻き込まれてるって感覚がある。
前に話題にした中動態の世界かな、と。

そうなると能動的に時間を使って過ごすのは準備のほう。そして、準備をするかしないかしかない。極端な言い方をすれば。

であれば、僕なら準備に使う(まあ、準備しない、休息の時間もあるけど)。

知らないことは想像できない

知らないことは想像できない。
想像できないものは創造できない。

だから、知らないことはまず知ろうとする準備が、クリエイティブであるためには最低限必要なはずなのだけれど、それを知らなかったりする。

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まあ、知らないというか、ちょっと意識すれば気づきそうなことに気づけない。日々過ごすなかで何かに気づくという癖づけができていないとそういうことは起こり得る。これはまたあとで書く。

知というものの使い方をもっと考えてみると良いのだと思う(あー、考えるという癖づけの話もあるか、これはあとでも書かない)。
とにかく知っているか知らないかでどういう違いがあるか、想像〜創造への頭の使い方のなかで知なのか無知なのかの状態の違いが結果にどんな影響を与えるのか。そんな観点で知るということ、知るための準備の必要性を捉えているだろうか。

知とは、ほとんどの仕事のスキル=力の源であるはずだ。

もちろん、それはやり方を知っているというレシピ的な話というよりも、むしろ、そのレシピで使う素材を知ってるとか、焼くとか蒸すとかについて知っているかというような意味においての「知ってるかどうか」だ。

知らなければ想像できない。
想像できないものはやはり創造できないだろう。

人間なんて無からは何も創造できない。
レシピはともかく、素材がなければ何もつくれない。
とにかく素材についての知は不可欠だ。

知らなければ知ろうとする、知らないことを放置してさない、知らなければ自分で調べてみるというごくごく当たり前のことをルーティン化するということだ。

自分で知る

何日か前に書いたこの話とも通ずる。

外に飛び出し自分とは異なる理解のフレームワークがあり、そこにある他者のロジックを発見しようとするところに、「これをしたい」という意志は生じるのだと思う。
それは発見への意欲であると同時に、新たな自分(の思考)を創造する試みとなる。

知るということは知らないことを知ることだ。
だから、必然的にそれは未知の世界への冒険となる。自分の知ってることをいったん置いておいて、知らないことに目を向けることが求められる。

でも、知らないことを知ることは多かれ少なかれ冒険的なところがあるから、それを怖がる人がいる。それで自分が知ってることに閉じこもろうとする。保守的態度ってそういうことだ

でも、そこには新しい自分に生まれ変わる=変態するイニシエーションとしての未知の領域への冒険が必要だ。そのことは多くの神話が明らかにしている。

英雄はごく日常の世界から、自然を超越した不思議の領域(X)へ冒険に出る。そこでは途方もない力に出会い、決定的な勝利を手にする(Y)。そして仲間(Z)に恵みをもたらす力を手に、その不可思議な冒険から戻ってくる。

この冒険を日常的なものにしたのが、僕のいう準備だ。そう毎日、つねにプチ冒険の時間をつくる

これにはまず大前提がある。
知識って誰かに教えてもらうものではなく、自分で学んで得るものだという、本来ごくごく当たり前のことをあらためて認めることだ。

だって、普通に生きてたら目の前に学ぶべき対象は山ほどあるわけで、それに見向きもせず直接触れようともせず、誰かにそのことについて教えてもらってるのを待ってるなんてナンセンスすぎる。
さっき書いた気づく力の欠如というのはそういうことだ。自分で気づかず、他人に教えてもらうのを待つしかないというのはあんまりだ。

自分から日々の出来事を冒険的に生きることをせず、誰かに教えてもらった知識のなかにとじこもり、日々新しく起こることを知ろうともせずに生きているなんて、想像力にも創造性にも欠けすぎてて、保守的にもほどがあるだろう。

冒険のないレシピの世界のコンテンツ脳

自分の考えをちゃんと表明して外からのフィードバックを得る、考えを絵や形にしてみてその現実的な有効性を探る。プチ冒険の機会なんて日常的な山ほどある。ちゃんと自分のなかでの考えや構想があって、それを自分の外に出しさえすればそれはたちまち冒険になる。なのに、それをしない。

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よく耳にする、社会人になって学び足りないって気づいたから、もう一回大学に入るとかいう話も、え、なんで日常の仕事のなかや日々生きるなかでの方が学ぶチャンスは何倍もあるのに?と思う。なんでまた自分で学ぶことを放棄して他人に教えてもらう事柄だけに待避しようとするのだろう?と。きっと、それは素材ではなく、レシピがほしいからなんだろう。

それにレシピ視点でしか素材=世界を見れないコンテンツ脳はちょっと悲しい。そのコンテンツ脳が世界を人間たちの自分勝手で壊している元凶なのだから。コンテンツ脳でSDGsだとか、脱成長だとか、多様性だとかと叫んだところで、本質としての個々の素材が目に入ってないのだから、そんなことで世界の危機的状況を救えるはずはないし、そもそも個々の素材を相変わらず危機に陥れていることすら気づけないだろう。

このコンテンツ脳という言い方は、カテゴリー脳、バズワード脳と言い換えてもよい。とにかく個物そのものに目を向けることができずに、コンテンツやカテゴリー、キーワードのようなパッケージングされて理解を簡易化されたイメージしか捉えられない頭になってしまっている。当然、そういう脳になるとかんたんに差別や他者批判、誹謗中傷をしやすくなる。他者が自分と同じように個物であることが見えないし、そもそも自分自身のことさえ個物と認識できていないのかもしれない。

そう。そう意味で、知とは何か?の認識が本格的にズレているのではないかと思うのだ。

設計図と現実世界の対応

言葉としての知識のなかに生きてしまっていて、現実を直接生きられていない。
だから、誰かに教えてもらう言葉の知しか受け止められずに、自分で世界に触れて学ぶ知を、知として気づくことができない。

そうなると抽象的な世界の住人になってしまう。
言葉でできた抽象的な観念や概念と、具体で満ちた現実の世界の区別がつかなくなるし、そうであるがゆえに言葉と現実がつながらなくなってしまう。

言葉と現実をうまく対照させて考える力がないとデザイン=設計=構想ができない

企画書や設計図=ブループリントは、それが言葉や抽象的な図による表現が、ちゃんと現実でこれから起こる/つくる具体的なものと対応している限りで意味がある。なのに、言語的な表現と外部の現実との対応がうまく連結させて想像する力が欠けていると、やっぱり創造につながらない。

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自分が頭のなかや、話し言葉や文章として考えてること、言ってること、書いてることが、ちゃんと現実における具体性をもったことになってるかどうかが見分けがつかない人は少なくない。
流行り言葉を並べてるだけで具体性を著しく欠いた話をなにかの企画だ構想だと言って聞かない人はまあまあいる。
自分が言葉で言ってることがただの言葉でしかないことに気づかないのは、レシピの世界で生きているからだ。

単純な話し、じゃあ、そこで言ってることを簡単なポンチ絵でいいから絵にしてみて、というと、途端にスタックする
ようは、まったく現実世界でそれがどんな風に生じ起こり、人々や世界がどんな新しい様子を見せてくれるのかを想像できていないわけだ。SDGsって絵にするとどうだ、脱成長って絵にするとどうなんだということである。

ただの言葉でしかなく、具体がないとはそういうことだ。

言葉と現実を行き来しよう

じゃあ、そういう言葉と現実の区別がつかなかったり、双方をうまくつなげて考えはれない人が言葉に長けているのかというとそうでもない。
いや、正確には2種類いて、言葉でしか考えられず現実世界を知らない哲学者をはじめとする学者タイプ(こちらはまあある種の言語には長けている)か、逆に、文章を読むのが苦手なタイプかのいずれかかなと思う。

ここでは後者に限っていうと、まず言いたいのは、長い文章をちゃんと読めるようになろうということだ。
本でも、ネット上の文章でもいいので。

そうすれば、抽象と具体の差にももっと敏感になれるはずなのだ。文章で書かれたことと現実世界がいかにそのままではつながらないかは、本をちゃんと読み、かつ、現実をちゃんと能動態的かつ中動態的に(ときには主体的にときには状況に巻き込まれながら)生きていれば嫌でも実感するはずなのだ。

このあたりの話は前にも書いているので、興味のある方はあわせて。

そして、それでも言葉で考え、みずから仮説を立て、構想を描き、デザイン・計画をすることでしか、世界にちゃんと向き合えないということが分かるはずである。個々の素材の知識がなければレシピのない冒険の世界で、仮説や構想やデザイン、計画を組み立てることすらままならず、途方に暮れるしかないのだから。

日々の暮らしで、短い文章や話し言葉、動画にしか触れてないてから、言葉と現実の違いがわからなくなる。なんとなくわかったつもりにばかりなり、わからないことや理解が難しいに向き合えなくなるし、そこには仮説や構想やデザインが入る隙間がなくて、言葉と現実が出会い、その違いを猛烈に感じとる瞬間から疎外されているのだから。そんな保守的で冒険のない日々を生きていたら、みずからも、世界も変わるためのイニシエーションは永遠に訪れることはない。

ちゃんと日々、現実につまずき、自身の仮説や構想やデザインとのあいだの差異に気がつけるフィードバックを得ることが大事だし、ちゃんとフィードバックに気づけるよう準備を怠らず小さいながらも自分自身で組み立てた仮説や構想やデザインをもっておくことが大事だと思う。

その意味で、準備以外に生きる時間を何に使うの?と本気で思うのだ。


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