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「できる」を奪わない

ひとりひとりが自分で考えて、行動すること。
それがどんなに面倒で大変なことであっても、それだけは避けてはいけない。
そういう社会へとどんどん変わっていくのではないか。
いや、変わっていけるようにしないと、ちょっとやばい。
この持続可能性の問いが社会全体に課せられている状況では、ひとりひとりが自分で考えて行動するということこそがもっとも大切なことではないかと思うからだ。

自分自身で考えることでほかの誰かに搾取されることを防ぐ必要がある。逆にいえば、ほかの誰かの考えを尊重することなく、自分の勝手に他人のものを搾取してはならないということだ。
搾取による利益の追求というものを大幅に減らさなくては、資源は不必要に浪費されすぎるし、誰かが誰かを知らぬうちに傷つけ続ける負の連鎖も止まらない。

サステナブルであるために、ひとりひとりが自分の頭で考えて行動でき、ひとりひとりの考えやあり方を尊重できるような、本当の意味での自治、民主主義的な状態を実現しなくてはならないのだろうと思っている。

「できる」を奪わない

自分たち自身の力で何かができるということ。
何かに頼らなくては何もできないという領域を可能な限り、すくなく保っておくこと。
ひとりひとりが自分で「できる」ことの領域をちゃんとできるように保てるようにすることや、他人の「できる」領域も奪わずにできるままで保ってあげるようにすることが、これからますます大事になるんじゃないかと思う。

たとえば、仕事の効率や生産性の観点から、個々人とはなんら関係ない数量的基準を設けて、この人は仕事ができる、あの人は仕事ができないと、乱暴すぎる類型をしてしまうことで、個々人の本当の意味で多様な「できる」を捨象してしまうのが、組織的な生産管理のありようだったが、そこにもちゃんと疑問を投げかける必要がある。

会社の決まり、国の方針、市場で売ってるさまざまな便利な品々やサービスといった、自分の外部にあるものに頼って生きるのではなく、人それぞれが自分の内部にある「できる」をもっと活かせるようにする。
それをせずに、国や会社や商品・サービスの都合で、個々人の「できる」のほんの一部をねじ曲げたかたちで利用=搾取された状態で、ほかの「できる」リソースを無駄にしながらやっていけるほど、この地球は持続可能性を秘めてはいない。

従来の効率=生産性が、ごくごく一部の狭い観点からの効率=生産性でしかなく、個々人にとっての効率も、地球環境全体の効率のいずれも無視したものであり、その視野狭窄的な見方がこのサステナブルな問題を引き起こしてしまっている元凶であることを僕らはそろそろ本気で理解する必要がある。

新しい効率の考え方が必要だ。

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相互扶助

個々人の「できる」をちゃんと守っていく、という観点では、斎藤幸平さんは『人新世の「資本論」』で、こう書いていることについても考えてみるとよいのだと思う。

危機の時代には、こうした形で、剥き出しの国家権力がますます前面に出て来る可能性が高い。
なぜかといえば、1980年代以降、新自由主義は、社会のあらゆる関係を商品化し、相互扶助の関係性を貨幣・商品関係に置き換えてきたからである。そして、そのことに私たちが慣れ切ってしまったため、相互扶助のノウハウも思いやりの気持ちも根こそぎにされているのである。すると、危機においては、不安な人々は隣人ではなく、国家に頼ってしまう。危機が深まるほどに、強権的な国家介入なしには、自らの生活が立ち行かなくなると考えるのだ。

あらゆるサービスが商品化されてしまって、相互扶助のノウハウも、気持ちも消えてしまったのが、この状況だ。なんでもかんでもお金を払って得なくてはならないものに変えすぎてしまった。お金を払ってもらわないと提供できない状態にしすぎてしまった。
人それぞれの「できる」の大事な部分を犠牲にして、身売りしてしまった。
いまのコロナ禍で国の補償がないなら、すぐに「経済を回せ」という議論に直結してしまうのも、そういう原因があるはずだ。それを忘れてはダメだろう。

新しい効率を考える

何か固定されたシステムにみんなが乗っかって、システムが誘う一元的な方向に、さして考えもせずに従っている状態は、狙ったターゲットを効率よく実現する力は強い。
それが従来の効率=生産性の考え方だ。

だが、その一方で、そうした効率の考え方では、予想外への出来事への対応力は低い。
いまさらレジリエンスなんてことが話題になるのもそれがそもそもの要因だ。そもそもターゲット外のことを無視して多くの「できる」を犠牲にして成り立っているのだから、ターゲット外のことをしなくてはならないときに「できる」が足りずにレジリエンス力に欠けるのは当たり前のことだ。

多様性を欠いた一元的な視点が視野狭窄な利己性に走れば、そんな形で、多くのものの持続可能性を危険に晒す。

そうした一元的なシステムでつくられた組織ばかりがそれぞれ利己的に振る舞えば、その環境には弱肉強食の論理にしたがって、搾取がはびこり、格差や対立が蔓延するのは当然だ。
そんな論理に支配された環境は、どれだけ資源があったとしても、持続可能性はどこかで途絶えるしかない。

そのとき、ひとりひとりが自分の頭で考えて行動することなく、システムに頼っているだけなら、この危機を回避できる可能性はない。

だからこそ利己的なシステムたちのたがいに破滅に向かう効率性にブレーキをかけるためにも、ひとりひとりが自分の頭で考え行動する自治による活動が必要だと思うのだ。

自分の頭で考えて話をし、行動をする

ひとつ前に紹介した『近江商人の哲学 「たねや」に学ぶ商いの基本』で書かれていたマニュアルのない働き方という、たねやの例もその観点から見たほうがよいだろう。

実は、うちの店舗にはマニュアルがありません。一人一人のスタッフが自分の頭で考えて、どうお客様に向き合うかを判断してほしいからです。

ある意味、マニュアルがあるというのは、個々人の「できる」とは無関係に、一元的なできる/できないの判断基準を決め、その基準だけで個々人の仕事を評価してしまうことだ。

仕事をする方の動きがそれで狭められてしまうのはもちろん、その仕事の恩恵を受けるお客さんの立場でもそのマニュアルに書かれた以外の価値は得られなくなるということだ。

しかし、現実の生活というのは、そんな風に一元的にできてなどいない。お客さんだってひとりひとり違うし、その人たちが織りなす日常のなかで生まれてくるものはきわめて多様であるはずだ。
マニュアルの世界に押し込めてしまうというのは、そうした多様性の多くを捨象してしまうことである。

商品という物の性質上、ある程度、決まった品質や量を固定せずにはいけない商売のなかで、それを扱う社員とお客さんとの関係まで一律的に縛ってしまえば、この世から「できる」ことの多くが無駄に消えてしまうことになる。

そうならないよう、働く社員がそれぞれ自分の頭で考えて行動し、多くの「できる」を無駄にしないようにすることが大事だと思う。
そのことがそのままお客さんの側の「できる」の余地も広げてくれて豊かになる可能性が生まれるのだから。

コモンズ=「できる」の解体

先の本で、斎藤幸平さんは、マルクスの「本源的蓄積」という考えを参照している。

「「本源的蓄積」とは、資本が〈コモン〉の潤沢さを解体し、人工的希少性を増大させていく過程のことを指す」のだという。
本当は潤沢にあるものを解体してしまって、その一部を掌握することで人工的な希少性をうみだし、あたかもそこに価値があるような幻想をつくって、人々の欲求を煽る。

多くの「できる」を無駄にして、一部の「できる」だけを商品・サービス化することもその一部だ。

斎藤幸平さんはこう書いている。

ここで重要なポイントは、本源的蓄積が始まる前には、土地や水といったコモンズは潤沢であったという点である。共同体の構成員であれば、誰でも無償で、必要に応じて利用できるものであったからだ。
もちろん、好き勝手に使っていいわけではない。一定の社会的規則のもとで利用しなければならなかったし、違反者には罰則規定もあった。だが、決まりを守っていれば、人々に開かれた無償の共有財だったのだ。

こうした共有財=コモンズのもつ豊かさが解体され、商品化されてしまうことで、ごく一部のひとがごく限られた方のみを利用できる状態に矮小化されてしまう。

「つまり、資本主義はその発端から現在に至るまで、人々の生活をより貧しくすることによって成長してきたのである」と斎藤さんが言うのにも頷ける。

わかりやすいのは土地だろう。

それまで無償で利用できていた土地が、利用料(レント=地代)を支払わないと利用できないものとなってしまったのである。本源的蓄積は潤沢なコモンズを解体し、希少性を人工的に生み出したのだ。

もちろん、コモンズを有効に使うには、使う個々人の利他的な行動も求められる。
「好き勝手に使っていいわけではない」。
しかし、僕らはあまりに提供される商品やサービスを無自覚に使うことに慣れすぎて「好き勝手に使っていい」ことばかりに身を置いてきた。
その商品を使うことで、誰の不利益を生んでしまっているのか。どんな地球環境への影響があるのかなんて考えることなく、好き勝手にいろんなものを使い捨てることに慣れすぎてしまっている。

そういう意味でも、自分で考え、自分たちで自分たちの生活を自治していくことが求められているのだ。

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オリエントから搾取するオリエンタリスト

「できる」を奪う。
実はこのことに一番に影響があるのは、知の問題だ。言葉の問題だ。

いま、他人の「できる」、地球資源の「できる」を無駄にしてしまっている何よりの原因が、知であり、言語による理解である。

知らないことが問題なのではない。
問題は知ったつもりになって、本来それほど対象とは関係のない理解を勝手に当てはめてしまっていることだ。

ジェンダーの問題、人種の問題、国籍の問題、すべてそうだ。
一見わかりやすいラベルを勝手に他人に当てはめることで、それで相手を理解しているつもりになり、安心して相手を自分のコントロール下に置いた気分になる。

『オリエンタリズム』で、エドワード・サイードが展開しているイギリス、フランス、アメリカを中心に、東洋、いや正確には中東地域を対象にした「オリエンタリズム」の問題は、その典型ともいえるので、最後にそこを紹介しておきたい。

サイードは、こんなことを書いている。

こうした固定的な「共時的本質主義」のシステムは、全オリエントを一望のもとに見渡すことが可能であるという前提の上に成り立ったものであり、それゆえに私は、このシステムをヴィジョンと名付けてきたのであった。こうしたシステムには常時、ある圧力が加えられている。圧力の源泉は語りである。というのも、もしオリエントの何らかの細部が動いたり発展したりするということになれば、このシステムのなかには通時性が導入されることになるからである。不動と見えたもの――オリエントは不動性、不変的永遠性と同義である――が、今や動的なものとしてあらわれる。

中東を植民地としていたイギリス、そして、そのことにライバル心をもちながら中東から利を得ようとしていたフランスは、中世におけるイスラムの脅威や、その後のルネサンスの古代復興の延長にあるような、エジプトや中東の古代への視点を経て、植民地主義時代においても、オリエント(東洋)を古代から変わることのない、変わる力を持たない文化をもつ人々というレッテルをはりつづけ、そのレッテルをはる学問としてオリエンタリズムはあったというのが、サイードが本書で展開している主張のおおまかな要約だ。

それらは、オリエントの文献のごく一部の、西洋からも理解できる観点をうまく使って(=搾取して)成り立ったオリエント像を、オリエンタリストたちのあいだで長年こねくりまわして作った神話的イメージだから、とうぜん、現実のオリエントの暮らしとはかけ離れている。

サイードがオリエンタリストたちの不動のヴィジョンを揺れ動かすものとして、語りをあげているのは、ヴィジョンが疎外化する、現実のオリエントが有する多様な「できる」をふたたび表舞台に滲み出させるからだ。
つまり、オリエンタリストのヴィジョンとは、マルクスの本源的蓄積の学術版だといえる。

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ひとつひとつの語りに耳を傾ける

以下に、サイードが書いていることは、今回書きたかったことのおおよそを代弁してくれているように思う。

語りとは、ヴィジョンのもつ永続性に対抗すべく、歴史叙述が採用した特殊な形式である。レインは彼自身と彼の記す知識とに直線的な叙述形態を与えることを拒み、そのかわりに百科全書的・語彙記述的ヴィジョンのもつ冷厳不動の型式を採用した。このとき彼は、語りのもつ危険性を感知していたのだった。人間には生まれ、育ち、死ぬ能力があること、制度や現実は変化しようとする傾向をもち、「古典的」文明も最終的には現代性・同時代性に圧倒されるであろうと。そして何より重要なことだが、ヴィジョンの現実に対する支配が権力への意志、真理と解釈への意志にほかならず、歴史の客観的状態などではないということ。そうした事柄を語りははっきりと主張する。要するに語りは、一元的なヴィジョンの網の目に、これと対抗するような観点・パースペクティブ・意識を導入し、ヴィジョンの主張する静謐なアポロ的虚構を打ち破ろうとするのである。

一元的なヴィジョンが多くの「できる」を奪ってしまう状態から脱却するには、ひとつひとつの語りにちゃんと耳を傾けることなんだと思う。

わかりやすいヴィジョン、一見わかったつもりにさせてくれる類型的なラベルに頼って、わかったつもり、知ってるふりをしてはいけない。

知らないということをもっと大事にすべきなのだ。
知らない状態が居心地が悪くて、恐怖を感じることがあっても、それでもまだまだ知らない相手に向き合って、もっともっと知ろうと相手のひとつひとつの語りにままを傾け続けることをし続けないといけない。

それだけが、多くの「できる」を無駄にしたり、勝手に搾取してしまうことを避けるための方法なんだと思う。

ひとりひとりの知的姿勢が問われるだろう。

しかし、その知というのは、従来のアカデミックな知なのではなく、ひとりひとりがたがいに他者と向きあい続け、耳を傾け続けるというタイプの知なのだ。


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