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居場所

みんな、弱っているのかな。
日に日にそういう風に思うことが増えてきているように思う。

街に、職場に、人の気配や交流が少なくなっているのは仕方ないとしても、なんだか、それとは本来無関係なはずのネット上での発言や閲覧も減っている印象がこの数ヶ月あって、それはますます顕著になってきている。
そう、感じません?

身体的な動きをともなう活動が減っているだけでなく、ネットを見たり発言したりというような精神的なものが中心となる活動も同時に減ってしまうというのは考えさせられる。
身体を使って外に出ていくことが制限されて、その分、ネット上の活動が増えても良さそうなのにそうはならなくて、その活動量も同じように減少している。

精神の活動、思考することも、元よりリアルな場での行動や人との交流を介して活性化されるもの、ということだろうか。
それは自然なこととも思えるけど、だとしたら「弱らない」ための対策というのもありそうだ。

クソどうでもいい仕事

精神が弱っているという点でやはり、仕事のありようが大きく変わってしまったのは無関係ではないだろう。
多くの人にとって仕事を通じて、他の人や社会そのものとつながっている割合は、日々の暮らしのなかで大きな割合を占めるはずだから。

先日、著者自身の訃報を伝えた記事でも書いたけど、いまデヴィッド・グレーバーの『ブルシット・ジョブ』を読んでいる。この本を読みながら、心を健康に保つためには、人はどういう仕事をしたらよいかを考えている。

「クソどうでもいい仕事の理論」という副題がついている、この本では本当に誰の役にも立たない仕事に従事している人の話が紹介されている。
「最終的な実用的定義」として、著者はブルシット・ジョブをこんな風に定義している。

ブルシット・ジョブとは、被雇用者本人でさえ、その存在を正当化しがたいほど、完璧に無意味で、不必要で、有害でもある有償な雇用の形態である。とはいえ、その雇用条件の一環として、本人は、そうでないと取り繕わなければならないように感じている。

勘違いしてしまいがちだけど、ブルシット・ジョブはつらく大変な仕事のことではない

汚れたものをきれいにしたり、重いものも一日中運んだり、苦しむ人の面倒を毎日毎日見守り世話をしたり、という仕事は、つらく大変だろうけど、それはちゃんと世の中の役に立つし、その仕事をする人がいなくなったら、途端に世の中が回らなくなる欠かせない仕事だ。

だから、それは「完璧に無意味で、不必要で、有害でもある」というブルシット・ジョブの定義に当てはまらないので、ブルシット・ジョブではない。

そういう仕事はとても世の中が必要としているもので、つらくて大変ではあっても、クソどうでもいい仕事ではまったくない。

なくなっても世の中が困らない仕事

この本で紹介されるブルシット・ジョブは、その仕事をする人がいなくなっても世の中がすこしも困らないような仕事だ。

だから先の清掃や運搬、医療や介護のような現場での具体的な困りごとへの対応を行う職の人より、現場そのものからは離れたオフィスワーカー、特に管理職、中間管理職の人の仕事が、クソどうでもいい仕事である可能性が高い。

それらの人の仕事のなかにはなくなってもなんとかなるかもしれない仕事がまぎれている可能性が高いし、場合によってはその人の仕事まるごとブルシット・ジョブだったりする。
この本にはそういう仕事をしていると自分で証言している人の声が多数集められている。

高い報酬を受け取っている人の仕事のほうがブルシット・ジョブかもしれないのだ。
不必要で後に誰も省みることのない膨大な書類やレポートを日々作り続けている仕事、誰も求めていない商品を必死に作り続けたり売り込み続けたりする仕事はブルシット・ジョブかもしれない。

これには僕自身、ドキッとする部分がある。仕事の全部が「クソどうでもいい仕事」とは思わないが、一部はもしかしたらと思えなくはない。

そういう仕事は不必要であるだけではなく、その仕事をすることによるストレスが本人たちにかかるという意味でも有害だし、その仕事にかかる資源の浪費という観点からも有害だ。

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役に立っていないというストレス

ブルシット・ジョブは、この仕事は何の役にも立っていないのではないか?というストレスから本人の負担になる。

負担が強いとメンタルを壊す。

大学卒業後、ブルシット・ジョブについてしまったエリックの例もそうだ。

彼は職場に行ってもほとんどまともな仕事ができない。空出張しても何も咎められることない。辞めると上司に行っても、報酬を上げると言われて引き止められる。
自分が世の中の何の役にも立っていないことにストレスを感じ、彼はメンタルを病んでいく。

エリックをおかしくしたのは、自身の仕事がなんらかの目的に奉仕しているようには、どうしても解釈できないという事実であった。エリックには、家族を養うためだと自分を納得させることもできなかった。当時、家族をもっていなかったのだから。かれの出自は、人びとの大多数が、事物の製造や、保守や、修理に誇りをもっている、あるいはともかく、そのようなことに対してひとは誇りをもつべきだと考えている、そのような世界であった。だから、かれのなかでは、大学への進学も専門職の世界に入ることも、同様のことをもっと意味があってもっと大きなスケールでやるのとイコールだった。ところが、現実には、かれはまさに自分のできないことでもって職を得てしまった。辞職しようとした。すると上司らは、給与を上乗せしてきた。クビになろうとしてみた。上司はクビにしなかった。

自分はいったい何をしているんだろうか?という不安がストレスになり、メンタルを蝕んでいく。
自己肯定感が薄い日本人だと尚更かもしれない。

この分断された世の中で、職場で直接人と接することが少なくなった状況では、いままで以上に「自分はいったい何のために仕事をしているのか、自分は役に立っているのか」と不安を感じやすくなっているのかもしれない。世の中が弱っている原因のひとつではあるだろう。

大学生が学校にいけなくてメンタルを病んでしまったりという話を聞くが、それも同じなのだろう。

グレーバーは、学生は勉強をすることが仕事だと書いている。
その本来の素晴らしい仕事の代わりに、「クソどうでもいい」アルバイトについてしまって、それで「自分はいったい何をしているんだろうか?」と悩んでしまうのは、本当に有害でしかないと書いている。

いま大学に行けていない学生は、ブルシット・ジョブをしているわけではないが、学びを得ている実感がもてないがゆえに「自分はいったい何をしているんだろうか?」と不安を感じてストレスになっているのだろう。

雇用目的仕事に慣れすぎて

グレーバーは、不運にもブルシット・ジョブのアルバイトについてしまった学生が期せずして学ばさせられることの5つのリストを次のように書きだしている。

このような仕事から、学生たちは少なくとも5つのことを学んでいると結論づけられるだろう。
1 他人による直接的な監督のもとで作業をするやり方
2 やるべきことがなにもなくとも働いているふりをするやり方
3 いかに有益なこと、重要なことであっても、それを愉しんでやっているならば、お金は支払われないこと
4 まったく有益でも重要でもないこと、愉しんでできないことに、金が支払われるということ
5 少なくともひととの交流を要する〔人目にふれる必要のある〕仕事では、たとえ愉しくない業務の遂行によって金が支払われているようなときでも、愉しんでいるふりをしなければならないということ
学生向けの雇用目的仕事が、将来のブルシット・ジョブにむけた「準備と訓練」の方法だとするブレンダンの指摘が意味しているのは、こういうことである。

学生のアルバイトは、将来のブルシット・ジョブに向けた準備および訓練だという。
その準備と訓練を大学時代にせずに、いきなり卒業後にブルシット・ジョブの職を得てしまうとエリックのようにメンタルを病むことになる。

まさに、仕事をしてお金をもらうということ以外に何の目的もなく、何の有益な結果をもたらさない雇用目的仕事がブルシット・ジョブである。

こんな仕事を普段からしていたら、そこでいまのように、さらに人と人との交わりさえ奪われたら、自分はいったい何をしているんだろうと悩んでしまっても仕方ない。
悩む人はまだまともで、普段から自分の仕事が何の役に立っているか疑問を持たず、ただ上司の指示にしたがってその監視下でやらされ仕事をしている人にとっては監視が外れたリモートワーク環境は、仕事もせず、かといって代わりにやることもなくてヒマをしているという、まさに人間としての活動全般が弱ってしまっているという状態になるのではないだろうか。

これがおそらく、冒頭書いた世の中全般が弱っているということの正体ではないかと思ったりする。

雇用目的仕事をただひたすら言われたとおりにやっていて、なおかつ、プライベートでも世の中が提供するエンターテインメント=おもてなしをただ与えられるまま消費して過ごしていた、主体的積極性のない暮らしにどっぷり浸かってしまっていた人たちは、ひとたび、いまのようにその供給が経たれると、自分自身から積極的に活動を生みだすこともできず、何もすることなく時間を浪費してしまいがちなのではないだろうか。

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世の中に不可欠な仕事と利他性

いま並行して読んでいるのが『ルネサンス宮廷大全』という本だ。

その最初の章である、編者でもあるセルジョ・ベルテッリによる「宮廷の世界」にこんなことが書かれている。

誰ひとりとして、料理人も助手たちも肉切り給仕も、これを小窃盗とは思わなかった。なぜなら、彼らの「肉」だったからである。肉を調理し、薄切りにするのは彼らだった。したがって、職務に直接結びついたものだった。じつは変わりつつあったのは君主とその臣下たちの関係であった。(中略)時代は古い「同業組合」的感性や個人的な従属関係から、能力による仕事の獲得という新しい雇用関係へと変化しつつあった。

16世紀、17世紀にかけてのイタリアやフランスの宮廷は、政府のような機能をもつと同時に、君主の住居としての機能も併せ持っていた。
だから、宮廷には、政府機能にまつわる君主の仕事を支える役割の人も、君主の生活を支える役割の人も住んでいた。
彼らはいまのような雇用関係ではなく、主人と従者という個人的で封建的な従属関係にあった。

そういう個人的な従属関係ゆえに、上の引用にあるような肉切り給仕が主人に断ることもなく、肉を調理して自分たちで食べることも、小窃盗などではなく当たり前に許された行為として見做されていたわけである。

ようするにこれはかつての宮廷が、契約による雇用関係より、はるかに相互依存関係の強いエコシステムとして成り立っていたということであり、主人である君主も含め、互いにどのパーツが失われてもシステム全体に不具合が生じてしまうようなかたちで結ばれていたということだ。

つまり、かつての宮廷には、ブルシット・ジョブが入りこむ余地はなく、それぞれが自分の役割を疑ったりすることなくその役割に従事できていたということだと思う。

そして、その役割というのは、基本的に主人と従者の関係で成り立つ、互いに利他的な関係をもったものであったはずである。
自分の存在を規定するのは、自分以外のものに対してどのような役割を果たすかという利他的な基準であって、自分にとってそれが何の役にも立つかとかいうような利己的な基準ではない。

尊厳から仕事に

先の続きには、こんなことも書かれている。

君主との個人的なつながりが徐々に薄れ、あまり「感情的」でない賃金契約関係へと移行し、宮廷の「尊厳」であったものが宮廷の「仕事」へと変化した時、職業意識が現われた。

まさに、ここに書かれているように、かつては尊厳であったものが、ただの仕事になってしまったことが、クソどうでもいい仕事が生まれてしまう根本的な要因なのだろう。

そして、そんな尊厳も育むことのできない「仕事」に従事していたら、働くことの意味を見失いがちなのは当然である。
利他的な視点で世の中のどんな役割を担っているのかという意味で、自分の居場所を確立できないのなら、自分の立ち位置がわからず不安になるのも当然である。
そうなれば自分は何者で、自分の居場所はどこなのだろう?という利己的で、その問い方では決して答えにたどり着くことのない不毛な自分探しの旅が始まってしまう。

おそらく、いまの仕事がブルシット・ジョブになりがちなのは、そういう利他的な視点が失われていて、それをやっていくらになるか?といった視点のみで仕事がつくられてしまいがちだからなのだろう。

多くの人が、利己的な観点で給与をはじめとした待遇や、「働き方」みたいなことばかり議論するだけで、利他的な視点から自分の仕事が世の中の何の役に立つかを考え、自分自身で自分の世の中の役に立つ仕事をつくろうとしないところに、ブルシット・ジョブばかりが世の中に増え、それでメンタルを病んでしまうことが増えてしまう根本的な要因があるのだと思える。

居場所は他者との関係のなかにしかない

自分の仕事が世の中の何の役に立たないブルシット・ジョブになってしまい、苦しまずに済ませるためには、利他的な視点で何が世の中の役に立つ仕事なのかを問うしかない。

いままでなら、それは誰の役に立つか?という人間中心の考えだけでよかったが、いまなら社会の持続可能性ということも問われるから環境・社会課題の観点から役に立つ仕事はどういうものか?を問い続ける視点をもち、利他的にその課題解決に向けての仕事を生みだしていくことが求められるのだろう。

それがおそらく自分の居場所を見つけるということである。
結局、自分が何と封建的従属関係を結ぶのか?ということも同時に考えないと、本当にただお金だけで結ばれた雇用目的仕事になり、それはブルシット・ジョブに巻き込まれる可能性を広げてしまう。

この自身の主人(これは人ではなく、どんな環境・社会課題なのか?という意味での主人だ)を見つける封建的従属関係の問いをなしで済ませようとする怠惰さが、いまの世の中全体の「弱った」印象の要因だし、経済や社会の停滞そのものの原因なのだろう。

課題解決に向かう利他的な姿勢を各自がもつことではじめて、人それぞれが自分の居場所を見つけて、不安やストレスではなく、幸福を感じられるようになるのだと思う。


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