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2024 びわ湖大花火大会 そばの誰かや思い出達は打ち上げられないこと

今日たまたま滋賀にでも行くかと思い立って京都駅JR 13番線?へと向かう。
人おおない!!!???なぜか琵琶湖線大津方面側のホームが激混みしているのだ。ごった返す人の群れに疑問を抱いて流石にこれは帰宅ラッシュとかの類ではないよなと、今日 滋賀イベントと調べたら本日2024年8月8日にびわ湖大花火大会が行われるらしいことを知った。大体17時半くらいだった気がするが、滋賀で一番でかい花火大会か〜なんで滋賀に行こうとした日に限ってそんなのやってるんだよとため息が出た。まあおもろいからええか、せっかくやしちょっとくらい覗こうかな。と偉く楽観的な自分もいたが、そもそも私シュンスはそこまで花火が好きではないのだ。(あまり大声では言えないが)よりによって一人で見る花火なんかは面白いと思ったことなんぞ一度もない。花火を作ってるたまや?の方々には申し訳ないが、大丈夫僕以外の98%の人類は花火が大好きだから安心してほしい。
なぜか子供の頃からあまり好きになれなかった花火。ミスチルは大好きだがミスチルのhanabiはさして好きじゃないのだ。花火、おお綺麗だな〜光は音より断然速いんだな〜とかの感想しか出てこない、ロマンスは好きだが、いかんせん花火の季節は暑いし、屋台とかが好きな子供じみた僕にはまだわからないのかもなあ、と少し遅れている電車を待つ間の時間、繰り返す思考。
電車がやってきた、黄色い紐?線のようなものが上に上がる。そして乗る。幸い、草津方面はあまり混雑していないことに安堵して、空いている座席に座る。外を眺める、山科から滋賀に向かう流れる車窓はどこか旅をしているような気分にさせてくれる。二人乗りシートっていうのかな?好きなんだよねゆっくり車窓を眺められるし、景色と一緒に時が流れる感覚がするから。なぜか安心する2人乗りシートの窓側から流れる車窓は夕焼けを映す。斜め右方向鋭角の空に広がるオレンジに全てどうでも良くなってしまう。このまま、東海道を抜けてどこまでもいってしまいたくなる。新快速でもない普通列車に祈る時間、たまらなく好きなのだろう。20分ほどしたら目的地の瀬田駅に着いた。琵琶湖沿いを歩きながらついでに花火でも見ようか的気分だったからなんとなく瀬田駅にした。旅に理由はいらない。

駅に降り立つと、これまでしてきた旅を思い出すような階段下の風景、広がるロータリーに涙が出そうになった。少しだけ大きい駅舎に数あるコンビニ、バスの停留所、少し大きめのスーパー、パチンコが見える。水を飲む、家でついできた水道水を。少し違う味がするのは気のせいだろうか、涙が混じって塩味がほのかに加わったからだろうか。違うか気のせいってやつはやっぱり人生を面白くする。根拠なんて必要ない日常のたくさんのことには。

早速歩いて、びわ湖沿いの道を目指す、まだ少し暑いけどまだなんとでもなる気温に安堵しながら、見慣れた住宅街の風景、子供を乗せた自転車のペダルをお母さんが漕ぐ、洗濯物を剥がすように取り込むおばあちゃん、子供が夕焼けを追うように追いかけっこしている、そんな子供を危ないよと注意するそんな風景は何度見ても泣きそうになる。歳をとるって案外悪くないなって思うのはこんな時出会う感情くらい。


とぼとぼと歩く。暫くしたら見たことない初見のスーパーがあった。友人に同じ名前の奴いたな〜なんて思いながら店に入る。あんまり冷房が効いておらずお世辞にも涼しいとは言えない店内に懐かしい気持ちを覚える。夏休み飽きるほど行ったおばあちゃんの家みたいだなって思う。早速本能のまま店内左側へと足を運び、半額の文字が見えたので少し歩く速度を上げ、ズバリ的中と言わんばかりに半額のホットドッグを急いで手に取る。あとは紙パックのりんごジュースと黒糖ベーグルを買い店を出た。10分くらい歩くとやっとびわ湖が見えた。綺麗だね相変わらず。ここに住みたいなって来るたびに思う。私自身青や水色が一番好きだし、湖や池や川、海を見たときの感情の落ち着きは他のものでは再現できないからね。この海の磯香りも好きで、好きなところしかないんだ。紫陽花畑にも似た感情。飲み物を買い忘れたから、400m離れたローソンに行ったけどめっちゃ混んでたからルイボスティーは諦めた。最近ルイボスの茶葉が好きなんです甘くないやつがいい。

ローソンを出ると、向かいの川床に人がたくさんいるから、適当に座れる場所を探してなるべく人のいないところに座り込んだ。ぬるい水道水を飲みながら待つこと約5分。始まったびわ湖大花火大会。最初の5分くらいはひっくいところにちっちゃい花火しか上がらなくて正直え?これが滋賀で1番なん?しょぼくないかい??と突っ込みそうになったが、無事開始約6分後には本領発揮と言ったところだろう夏の大爆発が始まった。負けじと眺めるも、少しばかり飽きてきたので携帯を取り出して何枚も写真を撮った。カップルや夫婦、家族に友人などみんな誰かといるからそんな風景でも後ろから撮るかと一人楡の木陰で佇み見ながら何枚か撮ってやった。なんか少し障害物でみえにくい位置に座っていたので、腰を上げ場所を移動した。
右側に進む東側かまあどっちでもいいだろう。そしてまたも少しびわ湖から後ろに下がって木陰に腰を下ろす。そこで座っていると、無邪気な少年と手を繋ぐ母の睦まじい後ろ姿があった。花火を見てはしゃぐ少年と綺麗だね〜と言っているように見えるお母さん。花火の音で聞こえはしないがその背中が母の優しさを物語っていたから心配はなかった。気がついたらいつかの原風景と重ね合わせていた。3.9倍にズームしてシャッターを切る。良い写真が撮れた。別に花火が綺麗だからとかそんなんじゃない。少年と母の花火を見る後ろ姿が一番綺麗で何より輝いていた。ありきたりな言葉で申し訳なくなるが、涙が出るっていうのはそういうことだと思う。気がついたら自分で撮った写真に思わず涙ぐんでいた。ああ。こういうことなんだな、と妙に納得して立ち上がった。花火はまだ終わっていないけど、もう大丈夫だった。無性に来て良かったと思えたから。花火は美しい。でもそんな花火より綺麗な後ろ姿を見たからもう十分だった。少し回想して、遠い昔母に連れて行ってもらったゲームセンターや映画館、トイザらスを思い出しそうになったがなんとか堪えた。これ以上泣きたくなかった。

これまで見た花火が何色でどんな大きさだったかはあんまり覚えていない。だけど誰かと行った花火という出来事自体は鮮明に海馬に記憶されている。
もう感情が回り回ってしまった。昔を懐かしむ時間、そんな時には過去の人達が、今は会えなくなってしまった人達が無性に恋しくなる。今は合わなくなってしまったからしょうがないんだけど、多分死ぬまで忘れられない。僕が認知症アルツハイマーとかになっても、記憶喪失しても心の奥底に眠ってくれている気がする。そんなこと言ったらぶん殴られるんだろうけど。でもしょうがないじゃんか。許してくれ。俺だってあんただっていつか死ぬのさ、それは同じ、だから好きに生きていこうぜと無責任に言わせてもらうよ。俺はそんなもんなのさ。




相変わらず思い出ってやつは美しい。時々帰りたくなることもある。でも不可逆だから美しいのだ。帰れないことが、思い出を思い出たらしめているのだ。
妙な納得感と肩を組んで帰るかえりみち、もはや一人だけど一人ではないのかもしれないと思う。
こんな思い出達があるから僕はこれからもなんとか生きていけるような気がした。
かと言ってそんな終わり方はしたくもない。
ありきたりなことはいつでもありきたりだから。ありきたらないことばかり追い求める僕らはまた明日も『ありきたり』を忘れていつもの日々に戻る。






2024 びわ湖大花火大会 終






田村シュンス






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