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自信を持ちたい

「自信を持つにはどうすればいいか」と問われたとき、私ならこう答えます。

「自分に厳しくあること。人に寛大であること。」

つい最近気づいたことなので、偉そうには言えないのですが、つまりこういうことです。

「自信を持てない人」は多くの場合、「自分が満足できるほど人から評価されていない」と感じている人です。そして同時に「評価されたい」と思っている人でもあります。

評価されたいのに、思うように評価されないから、人に厳しくなります。例えば、ルールや規範意識、倫理観、正義感を振りかざして、人を攻撃したりします。

自分はその点で人より優れている、だから私を評価しろ、とでも言わんばかりに。
正しいことを言うのは、実は簡単です。巷で「正しい」と言われていることを、同じように口にするだけで済むことだからです。
でも、人はその「正しいと言われていること」に耳を傾けているわけではありません。だって、そんなこと自分だって知ってるわけですからね。

人はその「正しいと言われていること」を言っている私の行動を見ている。そして、言っていることとやっていることが一致していない私を、時には鼻で笑い飛ばし、時には反抗しながらこう言います。
「なんでお前にそんなこと言われないかんの?」と。

お前だって、自分には甘いやん。人に言えるほど立派なことできてないやん。

返す言葉がなくなります。そして私はまた傷ついて、自信を失います。
あ、そもそも失う自信がなかったんでした(笑)

人は言われたことに耳は貸さない。私の行動と成果を見ている。私は成果を出すためにいばらの道を歩むことから逃げたがっている、逃げ続けている。そしていばらの道を歩むことなく、楽に評価されるために正論を吐き、正論の力を借りて人に自分を評価させようする。でも人は私の言行不一致を見透かし、決して評価してくれない。人が評価してくれなければ、私は自信を持つことができない。

「ああ、自信を持つことができれば、人にも優しくなれるんだよ。」
心でそう呟いたとたん、ハッとしました。
ひとつ見逃していた、というより自分自身に見逃してほしいと思っていたことを、見逃せなかった。
それは、「私は成果を出すためにいばらの道を歩むことから逃げている」という事実。つまり、自分に厳しくありたくない、自分を甘やかしていたいという「甘ったれた」気持ち。

もし、これを無くしてみるとどうなるのか。

自分に厳しく行動し、成果を出すことができれば、私の行動を見ている人は評価をしてくれる。評価してくれれば、自分に自信ができ、人に対しては寛大であることができる。人に対して寛大であれば、人は私に心を開き、私はさらに評価されるかもしれない。

それ以外にもルートはありそうです。
自分に厳しく、人に寛大であり続ければ、人は私に心を開き、私を評価する心の準備ができる。つまり評価のハードルが下がり、私の行動が道半ばでも、成果がささやかであっても評価してくれる。そしてその小さな評価の繰り返しが私の自信を少しずつ深めてくれる。

ああ、自己肯定感って、こうやって作っていくものかもしれませんね。
よく「自己肯定感を持ちましょう」と言うけれど、持ってない奴に持ち方わかるはずないやろ乱暴やなと思ってましたが、そういうことなのかもしれません。

思春期の息子にこのことを、いつか伝えられたらなと思います。

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