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杞憂、自由、苦悩【博物館とディズニーランド④】

西村ひろゆきとディズニーランドの共通点は何か?
それは、「うそはうそであると見抜ける人でないと難しい」ことである。

ひろゆきの発言は、極限の状況を想定した思考実験や、細部を削ぎ落とした「要約」、現実世界に落とし込む際には調整が必要な割り切り思考が溢れている。
だから、発言自体はおもしろいし参考になるのだけれど、決して鵜呑みにはできない。

ディズニーランドも同じだ。アメリカや世界各国の文化をもとにした世界観を展開していながら、それらは小綺麗で魅力的に加工されており、厳密に正確ではない。

ただし、西村ひろゆきとディズニーランドには決定的な違いがある。
この違いから、ひろゆきが抱えているような危うさを、ディズニーランドに対して感じるゲストはほとんどいないのではないかと思う。
つまり、その違いとは──西村ひろゆきの視聴者(の一部)が彼の言葉を盲信するのに対し、ディズニーランドを訪れるゲストは物語に目を向けていないということ。

この記事は、『それは、魔法という名の漂白剤【博物館とディズニーランド③】』の続きである。
この記事では、博物館とディズニーランドを取り巻く2つの議論のうち、2つめを取り扱う。


ストーリーのないディズニーランド

能登路(1990)によれば、株式会社オリエンタルランドが行った1988年の調査の結果において、開園直後の東京ディズニーランドが歓迎された理由として「美しさ」と「広さ」があったという。

この回答は裏を返せば、日本の観光地がこれまでいかに「美しさ」と「広さ」と無縁であったかという事実を物語る。東京ディズニーランドのアトラクションがどんなストーリーを語り、何を伝えようとしているかといった内容よりも、まずは広い駐車場があって、美しく広大な環境で快適に遊べる空間を日本人は潜在的に待ち焦がれていた。

能登路雅子『ディズニーランドという聖地』233ページ

事実、日米両側の関係者が、日本人ゲストが東京ディズニーランドに求めたのは「ノスタルジア」ではなく「エキゾチシズム」だったと語っている。すなわち、足を一歩踏み入れるとそこを完全にアメリカと錯覚してしまうような、異国情緒を求めていたのだ。
こうした点から、東京ディズニーランド内の随所では、物語の理解に差し障るような重要なピースであっても日本語に翻訳することなく英語のままで輸入してくるようにした。
ある海外からやってきたディズニーファンは、東京ディズニーランドの「カリブの海賊」に疑問を持っていた。ボート乗船後に語りかけてくるジョリー・ロジャーの骸骨は日本語を話すのに、一旦海賊の世界にタイムスリップすると海賊たちは英語を話し始めるからだ。これは、冒頭の骸骨が安全上の注意事項を交えて物語を語っているという側面からなる。

「そんなの普通では?」と思われる方もいるだろうが、これは全く普通ではない。
フランスにあるディズニーランド・パリの「カリブの海賊」では、海賊たちはフランス語を話す。
東京ディズニーランドのアトラクション「プーさんのハニーハント」は『くまのプーさん』の絵本の世界に飛び込んでいくが、絵本の地の文はすべて英語である。一方、香港ディズニーランドには「くまのプーさんの冒険」というアトラクションがあるが、絵本の文字はなんと中国語だ。

『ディズニーランドの秘密』の序章、有馬哲夫は日本人をはじめとした(アメリカ人から見た)外国人の正直な気持ちとして、次のように問題提起した。

「なるほどディズニーランドと普通の遊園地の違いはストーリー性にあるのか。でも、正直なところ、私の頭にはなんのストーリーも浮かばない。これは私だけなのだろうか。ほかの人はみなちゃんとストーリーが浮かんでいるのだろうか」

有馬哲夫『ディズニーランドの秘密』9ページ

正にその通りだ。
敢えて極端な表現をすれば、東京ディズニーランドおよび東京ディズニーシーは、「物語を理解する必要のない唯一のディズニーテーマパーク」であるといえるのだ。

Disneyland is your land?

さて、おそらく、今日の東京ディズニーランドのイメージがここにはじまったのだと思われる。
つまり、「物語を理解する必要のないディズニーランド」としてスタートした東京ディズニーランドにとっての最善策は、キャラクターがメインのパーク作りとなったのであろう。

21世紀に入ってからは、ディズニーキャラクターを取り入れたアトラクションが急増した。キャラクターの登場しない「ビジョナリアム」「ミート・ザ・ワールド」「キャプテンEO」がクローズし、それぞれ「バズ・ライトイヤーのアストロブラスター」(2004)、「モンスターズ・インク“ライド&ゴーシーク!”」(2009)、「スティッチ・エンカウンター」(2015)が作られた。
「ビジョナリアム」も「ミート・ザ・ワールド」もトゥモローランドに位置し、未来への希望を感じさせるはっきりとしたメッセージが根底には流れていた。こうしたアトラクションはいずれも「キャラクターに会える」ことがアピールポイントのアトラクションにとって代わられた。

真実はいつもひとつ。

こうした傾向を指摘するのは、たぶん今更野暮だろう。日本国内全体がそうなっているからだ。

劇場版「名探偵コナン」は、「時計じかけの摩天楼」にはじまる初期の「こだま兼嗣監督作品」が高く評価されがちである。その後の山本泰一郎監督の時代、人気は別として作品クオリティがとやかく言われるようになる。劇場版「名探偵コナン」最弱と言われる「紺碧のジョリー・ロジャー」はこの時代だ。
続く静野孔文監督の作品作りはアクションが中心で、しばしば脚本と衝突することも多く、当たり外れが激しかった。
そして、立川譲監督の「ゼロの執行人」あたりから、コナンはキャラクター映画としての側面が強くなっていった。現在の劇場版「名探偵コナン」は、ミステリー的要素を残しつつも、その内外に織り交ぜられるキャラクターエピソードが楽しいというものになりつつある。
その極地が、2024年の「100万ドルの五稜星みちしるべ」だった。この作品は服部平次と怪盗キッドの物語を一歩進める一方で、現代を舞台にした現在進行形のミステリーというよりも、歴史謎解き的要素が強い作品だった。
まあ、そもそもキャッチコピーが「こういう謎解かけひきは得意だろ…?」だしね。

東京ディズニーリゾートのリニューアルも、こうした文脈の上に置けば自然に解釈できる。

杞憂、自由、苦悩

ここで、前回の記事で示した、博物館とディズニーランドの間の一つ目の問題を思い出してみよう。

ディズニーランドが語る物語は「真実」ではないにもかかわらず、「真実らしさ」という妖精の粉をまぶしてある。だから、博物館が好きな人々、博物館を支持する人々から見ると、ディズニーランドがゲストを「騙そうとしている」ように見えるのだ。

しかし、殊に東京ディズニーリゾートにおいて、こうした問題はあまり発生しない。なぜなら、これまで見てきた通り、パークを訪れるゲストのほとんどが、ストーリーを気にしていないからである。

ちなみに東京ディズニーシーのアトラクション「クリスタルスカルの魔宮」は、マヤ文明の神殿ピラミッドや石碑などをモチーフとしており、多くの日本人にとってまだ親近感の薄いマヤ文明の正確な理解を妨げている。
このような偏見に満ちた嘘の生産と消費は、マヤ系先住民の豊かな歴史・文化伝統に対する侮辱以外のなにものでもない。

青山和夫『マヤ文明を知る辞典』296ページ

前回紹介したマヤ文明研究者のこの言葉は、半分正しいが半分的外れなように思う。
そもそもほとんどのゲストは、「クリスタルスカルの魔宮」とマヤ文明を結びつけていない……どころか、ラテン・アメリカと結びつけてすらいないのではないかと思われる。
だから、そもそもこういった類の間違いは発生しないのである。

アトラクションのレビューを提供する「tdrnavi」というサイト。2024年4月現在、「中央アメリカ」で検索してヒットするレビューは55件中僅かに1件、「遺跡」でも1件となっている。
このアトラクションはどちらかといえば「インディ・ジョーンズ」「冒険」「絶叫」などと結びついている。つまり、具体性を骨抜きにされあくまでその物語の建て付けだけが抜き出されているのだ。

それから、前回の記事で紹介した「シンドバッド・セブンヴォヤッジ」を思い出して欲しい。
これ、動画を見て貰えばわかるのだけれどめちゃくちゃ不気味で怖かったのだ。おそらくそのことが原因で、「ア・ホール・ニュー・ワールド」でおなじみのアラン・メンケンが曲を書き下ろした「シンドバッド・ストーリーブック・ヴォヤッジ」になったのだと思われる。
ディズニーテーマパークが本物を提供しようとしても、ゲスト側からの拒絶反応でそれらが甘口に差し替えられる事例は枚挙に暇がない。

だからこそ

さて、ここで議論をさらに巻き戻し、シリーズの冒頭に提示した問題点を考えてみよう。

これから人々が取ることのできる選択肢は二つある。
一つが、ディズニーテーマパークを完全に文脈の中から外し、キャラクター万博として楽しむ方法。
これがおそらく、時代の流れとして適当だろう。

コラムニストの高成田享によるある対談での言葉が、全てを物語っている。

欧米社会と違い、日本はいつまでたっても大人になりたくない、子供でいたいといったピーターパン症候群が蔓延しているのでしょうか。それがディズニーランドの人気を下支えしているように思います。

天野祐吉・高成田享「日本人はなぜディズニーランドが好きなのか」『中央公論』2013年5月号

しかし、〈第四の勢力〉は、こうした状況においてこそもう一つの選択肢を提示し続ける。
つまり、ディズニーテーマパークを文脈の中に突っ込み、正しく理解し、批評することである。
そして、そのためには博物館をはじめとした学術的価値を持った施設の力が必要なのだ。

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