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さも「科学的」なことを信じてしまう危うさ

参考になった情報の共有からはじまり、自身の視点や考え、感想や思想、経験や教訓を発信する事は、多かれ少なかれいつの時代もあるもので、4万年前だか7万年前だかかでは壁画やら。紀元前3000年前では粘土板。それから墨文書、木簡・竹簡、羊皮紙やらを使うようになって、印刷技術が発達して云々。電子文書がここ30年くらいで極々一般的になって、SNSを使った情報の交換、そしてその文化がごんごん積み重ねられている訳ですね。

個々人の情報発信および、多くの人の耳目に届けるということが比較的容易になった今、情報一つ一つの重みは相対的に低下しました。わかりやすく言うと1990年代の月9のドラマの影響度と、Youtube,Netflix,Amebaにせよなんにせよ選択肢が格段に増えた今のそれとでは比較にならんよねって話ですし、権威性のない媒体に載せられた、そもそもどこぞの誰かわからんような人の言質なんて、どんなに立派なお話でもほぼほぼ誰もまじめに取り合わないよねって話です。

とはいえ、小さかろう個々人が適当なこと書いていいかって言うとそうではなくて、それは倫理的なことでもあろうし、自身のいわば美学的なものでもあろうし。極力確かなエビデンスをもとにした情報であり、視点であり、感想でありをつづりたいと思う訳です。これは多くの場合に。

では「確かなエビデンス」ってなんやねんって話が今日のひとつポイントですね。

自身の場合、ネット情報なんて玉石混合なんで、そこで見聞きした記事を盲目的に信じるのはあまりに危険ですから、一つ見つけて、それがどんなに興味深くとも、ぐっと抑えて、論拠を補強する為にいくつか信用に足るような周辺情報を、確かになりうるエビデンスをあさりに行きます。

科学的な知見が求められる時は、極力なにがしかの論文やら、一次情報として公開された数値に根拠を求めたり、できる限り多くの目に触れている媒体の情報と照らし合わすようにして、時間がなく雑なこともあろうけれど、書くならば、少なくとも自身が納得する文のまとまりを心がけます。


心がける…のですが、結構ね、こういうことがあるんです。

元ネタ、まちがってましたー

的なね。


小学生の頃、クラスで出たごみは運動場の端っこにある焼却炉で燃やすのが善とされていましたが、ダイオキシンが問題となって廃止されたって。学校教育だって正しかったり間違ってたりふわふわと。

とはいえ、ダイオキシン問題が嘘だって言う博士がいたり、最近ではダイオキシンについてあまり取りざたされることが多くなかったりしてよくわからんですし。


一時期ね、ダンバーさんという研究者によって発表された、ダンバー数って言葉が流行って、人間仲良くできるのって150人くらいなんだよーって言われてて、ここぞとばかりにいろんな記事がその数字を取り上げたんですが…

最近だと、あれって間違ってたみたいよという記事が上がって「ああ、まあそりゃそうか、一概には言えないね」ってなりましたし。


マズロー!帰属、承認、自己実現!!なんて声高らかに言う人は減りましたが「あれ、間違ってっから」って意見も同じくらいよく見ます。欲求の分類としては分かりやすいので重宝しますけれど、たとえ有名なお話であったとしても、手放しに賛同してたらえらい恥かきまっせといういい例の一つとしても挙げられますね。


ダーウィンが言ってたとされた「変化できたものが生き残る!」なんて言葉は、もはや誤用・誤解であることの方が有名になったし。


「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らず」って、福沢諭吉さんが言いたかったのは、「そんなこと言うてるけど貴人も下人もおって、勉強して努力しないと貧しくなりまっせ、勉強しーや」ってことはちょっと原文読めば知れるんですけども、多分に漏れずこどもの頃は勘違いしていましたし。恥ずかしい。


正しいことを正しく理解して、何かの正しくを自分の書きたい欲と共にしたためたいとは思うものの、出発点がそもそもずれていることってしばしばありまして、それを仕方ないとするのか、いや、そういうことも含めてしっかり調べろよ、とするのか。あるいは、そんなふわふわしたもんは記事にするんじゃないわよってスタンスを取るのか。

人それぞれ好きにすればいいんですけども、一つ言えることは、適当なことを言わない人って善人であるからそうなのではなくて、間違ってたら恥ずかしいという気持ちが強かったり、後から撤回するのが面倒だからであったりすることの方が多いよねーってことです。

善人の方がついつい適当なこと言ってしまいがちっていうね。

そういう危うさ。

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いわんや、ですよ。


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