源氏物語 六条院の女楽から垣間見る月夜のおはなし
源氏物語 幻想女楽「花かさね」改訂初演に向けて
拙作・源氏物語 幻想女楽「花かさね」は、国文学者として源氏物語の音楽の研究に多大な功績を残された故・石田百合子先生のご示唆を受け、2008年の源氏物語千年紀に伶楽舎委嘱により作曲・初演した作品です。
紫式部がテキストというメディアを用いて描いた源氏物語の世界は、いわゆるVR体験以上に鮮烈に五感の働きを誘導する、質の高い情報に溢れています。そして私は、そこに記された音にまつわる情報を辿って試行錯誤を重ね、六条院に展開した御遊の幻の響きを浮かび上がらせることにチャレンジしました。このたび作品の改訂(2024年5月31日伶楽舎雅楽コンサートno.42『源氏物語を聴く』において改訂版初演)にあたって、あらためて原文に対峙し、二重三重に象徴性をもたせた言葉を読み解くほどに、六条院の女楽の場面は、光源氏の生涯の時間を圧縮したような、源氏物語全体のクライマックスともいえる重要な情景であることを再認識しました。
さて、古文の記述から具体的な時間の推移を読み取ることはなかなか難儀であると伺ったことがあります。しかしこの作品においては、私には、作曲という時間のデザインを司る立場で、この女楽の一夜を短い音楽の時間に濃縮することが命題です。
そこで、まずは六条院の女楽に記された時間に関する情報を拾い出すこと、すなわち黄昏時から深夜にかけての月のフェーズにフォーカスし、源氏物語が設定している年代の暦に照らし合わせてみることにしました。
源氏物語が著されたのは一条天皇の時代、著作が完成したのは1008年、物語はそこから遡ること半世紀から一世紀以前という設定で構想され、具体的には897~967年あたりということになるそうです。女楽は、公式行事として予定されている朱雀院の五十の賀の祝いに先んじて、光源氏の私邸である六条院に女君を集めての私的な宴で、原文の記述に「正月二十日ばかり」、かつ「臥待の月」とあることから、旧暦の一月十九日に催されたことがわかります。
次に、897年の旧暦一月十九日は、新暦の2月23日であることをWeb上の暦計算サイトで導き出しました。エビデンスとしては、「風ぬるく吹きて、御前の梅も盛りになりゆく」、「おほかたの花の木どもも、皆けしきばみ」などの記述からも時候の風情を探ることができます。
本文は「ゆゑあるたそがれ時の空に、」と続いて、夕霧がこのプライベートな集いに、準公式催事である試楽以上の緊張を感じながら六条院に参上し、箏の絃の調子を整える頃には日没を迎えていることがわかります。
ちなみに、天の暦をシミュレーションするプログラムによると、897年2月23日の日没は17:52です。
時間の経過を辿るための月についての最初の記述は「月心もとなきころなれば」ですが、“臥待の月”は空に現れる時間が遅いので、日没後の薄暗闇の中、御簾のうちでは「掻き合わせたまへるほど、いづれとなきなかに、」女君らの絃物による爪調べのような演奏から、合奏、歌唱が随時繰り広げられたのではないかと推察できます。薄暮から宵にかけて、聴覚を研ぎ澄ますには絶好の環境(時間帯)で演奏が進む場面設定をし、ここにそれぞれの上手についての描写を挟み込むところに、紫式部の音楽通としての感性の鋭さ、そしてリアリティある演出(筆さばき)が光ります。
視覚要素については「燈籠こなたかなたにかけて」と続き、女君たちの装いについて花によそえる描写で読み手の想像に色彩が添えられます。ここでも和歌や後の俳句に通ずるような五感をくすぐる詳細な形容が二重三重の比喩を伴って埋め込まれます。
「夜ふけゆくけはひ冷ややかなり。臥待の月はつかにさし出たる」897年2月23日の月の出は、20:31です。この日の月齢は18ポイント前後、満月より少し欠けた姿ですので、明るさは十分にありそうです。そして劇中の時間としては、御遊の開始から約2時間半の経過となります。
寝殿に月明りが差し込むこの頃から、光源氏と長男の夕霧による音楽談義が展開します。ここに光源氏の言葉として著される美学は、音楽が楽曲だけでも演奏だけでもなく、自然や環境との調和による総合的な芸術であること、さらには音楽を通じ、帝王学としての人の道を説くという、究極の伝授の場が設けられます。一説に、源氏物語は一条天皇を唯一のターゲット(読者)にした「千夜一夜物語」であると作家の高橋源一郎氏が発言されていますが、このシーンにその究極の目的が記されているとすれば、六条院の女楽こそ源氏物語の核心を成すクライマックスとも言えましょう。
光源氏の女三の宮に対する期待の言葉をもって、未来に向けた伝承の意義に触れたところで、明石の上が感涙し、六条院の夜の前半の景が結実します。
演劇の舞台であれば、このあたりで中入りがあったかと想像しますが、後半は身重の明石の女御が演奏から離れ、光源氏が和琴を、紫の上が箏に変えて演奏します。「気近き御遊びになりぬ」はくつろいだ演奏になったと現代語訳されていますので、それまでは人間関係的にも緊張感の漂う演奏だったのでしょうか?
さらに、「葛城(kaduraki)あそびたまふ。はなやかにおもしろし。」と源氏が繰り返し歌ったことから、楽に興じて、催馬楽の多少くだけた囃子歌でも楽しんだのではないでしょうか?
「御遊(おんあそび/ぎょゆう)」というキーワードは、国文学者・故石田百合子先生と私との最大の研究テーマでしたが、紫式部は六条院の女楽の場面にたびたび記載しています。
「月やうやうさし上がるままに」という描写と重なって、人々がさらに興に乗じて、「げにいと心にくきほどなり。」という優雅極まりない情景に至る様子が浮かびます。
この日の月が南中するのは、深夜午前1:28です。
この後、重ねて音楽論が語られたのち、光源氏が遅くまで笙や横笛を演奏していた若君たちを「ねぶたくなりにたらむに、」と気遣って、彼らが紫の上からのご褒美を賜って散会としますが、ここで光源氏がおふざけに自分への褒美を乞うたことから、女三の宮がいみじき高麗笛をたてまつります。光源氏が一節吹き鳴らすと、去り際の夕霧が立ち止まり、これに応えて横笛を吹くという光景が、この夜の美しい余韻として、六条院に集った物語の登場人物にも読者にも、印象深く心に刻まれるのです。
さて、劇中の女楽の終演時間はいったい何時だったのでしょう?
夕霧は、「月の澄めるにまかでたまふ。」(退出する)のでした。
光源氏の観た月、紫式部の観た月
ところで、紫式部の源氏物語執筆期間と想定される1001~1005年あたりの天行を調べると、1005年の旧暦一月十九日=新暦3月1日、日没が17:58、月の出が20:22、月の南中は1:13となり、著者は897年に近い月の運行を目の当たりにしていたことになります。
源氏物語の時代設定は執筆時より半世紀から一世紀前の897~967年に置かれたとのことで、いくつかの可能性をシミュレーションしてみましたが、897年を源氏12歳とした場合の女楽開催47歳時932年2月27日は日没が17:58、月の出が21:06、月の南中は1:45、967年の天行をシミュレーションすると、新暦では3月2日、日没が17:58、月の出が21:38、月の南中は2:04となり、また執筆期間の1001~1008年あたりの天行を調べると、日没時間はほぼ変わらないものの、月の出が21:06~22:09となり、催事の進行と場面の描写に照らして考えると無理があるように思えました。であれば、物語の場面は約百年前の設定となるでしょうか。
女楽の幕切に、「いづれもいづれも、皆御手を離れぬものの伝へ伝え」とあります。
六条院の女楽の情景は、光源氏の人生の時間を圧縮したような一夜ではないかと思い、これを音楽で表すことを試みました。2008年の初演版作曲の折には、女君たちの心情に意識をフォーカスしておりました。一方で、この場面に伝承というテーマが読み取れることから、今回の改訂にあたっては、私個人の人生を振り返って、これまで芝 祐靖師をはじめ多くの優れた師に導かれいつの間にか手のひらいっぱいに与えていただいた芸の宝を次代に渡すべき世代として、新たな感慨をもって臨んだ次第です。 東野珠実記
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