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またまた、、死ぬ権利

悲しい事だが、基本的に誰もが死ぬ権利は持っていると思っている。生きる権利と死ぬ権利は対の権利で、片方だけが存在すると言うのは違うと思う。

死ぬ権利を「是」とする側は「本人が望む」「自己利益」が柱となり、それに危険性を見出す側が「非」となるケースが多い。

「例えば安楽死の現実的なプロセスを考えてみましょう。本人の自己決定を尊重すると言っても、致死薬の処方・投与の際には医療者の判断が欠かせません。例えば、がん患者が安楽死を求めたとします。この患者がまだ初期のがんで、標準的な治療をまだ終えていないという場合、『それでも本人の意思を尊重しよう』という判断を下す医師はいないと思います」と言う方がおります。

そうです「死んでも仕方がない」と判断を下す医師はいない。

つまり「本人」が判断しているのではなく「医師」がその患者の生命を判断している訳です。医師は「患者を助ける」のが仕事、使命なのでしょう。当然医師は「助ける権利」を持っています。同時に患者は「生きる権利」と「死ぬ権利」を両方持っています。この発言は「医師が判断」してる「上から目線」的な内容です。

結局「本人利益」をどう見るのか?

例えば経験不足の子供達に「これはダメ」「あれもダメ」と教育をします。しかし経験値の少ない子供は「ウルセェ」「価値観を押し付けるな」と反発します。子供は経験不足のため、総合的な判断ができません、そして親は心配して「お前はまだわかっていない」と愛情を押し付けます。

この問題と全く一緒です。

親は「子供に嫌われようが、愛情もって強く指導し、最終的にその子の利益になるように努める」これが親側の「上から目線」的な思考の言動です。子供は未経験ゆえに危ない、将来必ず親の愛情を理解してもらえると信じ、それこそが親の愛情なんんだと主張します。

まさにこれが医師から見た「患者を救う」な訳です。

瞬間的に患者は感情の乱れから「死にたい」と言っているだけで、落ち着けば、治癒すれば、家族のもとに帰りさえすれば「生きててよかった」って笑えるんだと、信じて止まない訳です。だから「死ぬ権利」など認めてはいけない。医師は患者を救うべきだ!!

この手の親や医師に欠如している点は「癌に準じて死す」と言うことです。人間には「癌」を直して生きる利益もあれば「癌」とともに死んでいきたい利益もあります。つまり親が思う子供の幸福は損しない、傷つかない、平和で楽しい生活を描いていますが、そんなことより、危険で一か八かで荒れ果てた暮らしも良いなと思う短絡的な人生があると言う点を排除しています。

こうあるべき、楽しい人生、笑える人生、それが良いと信じて止まない事はとても良い事ですが、欠如しているのは一方の「そんな事どうでも良い」と思うダークで彼らから見れば「考えられない」「信じられない」世界を否定することです。

「他人を殺す」殆どの人間はできない事だし、望まない事ですし、恐怖ですし、否定する事です。でも他人を殺すと言う行為で性的興奮を覚える、最高の幸福感を覚えると言う人間もいると言う事実を認めなければいけません。そんなことをするのは「人間じゃない」と排除してはいけません。そんなことをするのも「人間」なんです。

愛情だから一方的に押し付けて良いのか??

答えは単純で良いも悪いもあります。

そして、もう一つ忘れていけない事は親も医師も「愛情、信念を相手に押し付ける権利」があります。子供が反抗しようが、患者が反抗しようが、親も医師も己の思う「愛や信念を押し付ける」権利があるのです。愛する権利というものです。誰もが持っている権利です。

その押し付ける責任、愛する責任として、その押し付けが裏目に出る時があることを自覚しておく必要があります。「癌に準じて死す」です。我が子のためと思い「愛情を押し付け、将来きっとわかってくれる」それが我が子のため、と言い聞かせ頑張って対応していても、その愛情を本当に苦痛と感じる子供いて自殺する、家出する、逃避する、などの現実があることを受け止めなければいけません。助けようとする患者で、どんなに生きてほしいと家族や医師が望んでも「どうしても死にたいと願う患者」がいる事実を認識すべきでしょう。

癌に準じて死ぬ利益もある。

殺人で絶頂感を味わえる人がいる。

生きることに興味のない人もいる。

平和が嫌いな人もいる。

無難が嫌いな人もいる。

結局人間は矛盾を糧に生きています。

死ぬ権利、生きる権利、共にあり、一方を排除してはいけません。そして愛する権利があります。つまり押しつけになる時もあり、それは愛する権利としてあります。

生きる権利、死ぬ権利の存在と他の問題と混在させてはいけません。良いのか悪いのか?の善悪の問題じゃないんです。善も悪もない世界なんです。生きる権利、死ぬ権利は、善悪で考えてはいけません。光と影のように存在するだけです。

何度も言いますが愛する権利を持ちますので、愛すれば良いのです。助けようともがけば良いのです。懸命に医師として助けようと努力すれば良いのです。しかし一方で「癌に準じて死す」と言う利益を否定はできません。自分が愛する権利を主張するなら、相手の「断る権利」も認めなければいけません。

好きな相手がいます。自分ともう一人の人間が、同じ人を好きなっています。自分は経済的、社会的、総合的に安定し、100%その人を幸せにできる環境を持っています。も一人の恋敵は貧乏で遊び人で、非常に勝手な人間です。愛されている人の家族は当然裕福で社会的に立派な人と結婚してほしい、それこそがお前の幸福なんだと推すでしょう。でも愛されている本人がどちらを選ぶのかは、本人次第です。貧乏で勝手な人についていき、結果泣かされ傷つき自殺する人生を選ぶとしても、それは本人が選ぶ事です。その悲しき人生がその人が望む事なんです。この悲しき事実は誰も排除できません。どんなに悲しくても排除できないのです。

人間は誰もが自由です。

人間の価値観は無数、無限回廊です。

人間は善悪の両方を求めます。

時に癌を怖がり、時に癌に準じて死ぬのです。

与える愛もあれば、惜しみなく奪う愛もあります。

お互いが信じた道を進み、それに伴ってお互いが責任をとっていくしかないのです。善は悪で悪は善です。光と影は絶対に切り離せません。

世の中にはルールがある、日本は日本の法律があります。そのルールに沿って裁かれる事は避けられませんが、本来人間は自由なのです。

「権利と責任」をよく理解し生きていくしかできない、それが自由を求める人間ができる得る事です。

全ては善悪を超越した世界です。誰も善悪は判断できません。想像以上に混沌と世界が存在します。良し悪しで議論するだけでは先に進まないのです。

身内に自殺などされた方がいらっしゃる方の心の苦しみは、経験者でしか見えない悲しみがあると思います。どんなに可哀想だと共感しても、自殺する権利は誰も排除できません。人間は誰もが自由だからです。悲しくても悔しくてもそれが人間社会です。

このブログで何度も切り口を変えて述べていますが、死ぬ権利の是非や死ぬ権利の否定をするのではなく、死ぬ権利を行使したいと思わせない社会を目指すべきなのです。

愛情が押しつけの苦痛にならない環境を考えるべきです。死にたいと思う人間が一人でも減っていく社会を目指すべきなのです。

善悪の議論は何千年の歴史の中で、無限回廊である事は明白の事実です。

殺す権利も死ぬ権利も搾取する権利も犯す権利も全て存在します。それは人間は誰もが自由を保証されているからです。一方を排除する事は絶対にやってはいけないことです。その認め難い権利を排除するのではなく、その「悲しき認め難い権利」を行使したくないと思える社会を我々は構築しなければいけないのです。




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