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危機、、末期、、不安、、

英国の教育システムの感想を記した記事を読んだ。あくまで個人的感想が、この20数年の日本がなぜこの様に変化してきたのか再認識できたと思う。

記事は英国教育は、冷淡で厳しいものであると記していた。

「イギリスは日本の幼稚園年長組に当たる年齢から全国統一試験があって、偏差値が出てきます。」記事抜粋。
実は英国だけじゃなく、世界では特に珍しいシステムではないんです。
恐らくこの方、幼稚園などと言う幼子の時期に、人生を決めてしまうくらいの能力テストなんかやってしまって、それは良くないと言う認識なんだと思いました。まず認識の違いですが、こう言った能力テストは、大学生じゃ意味がないんです。能力は持って生まれた才能です。知識を得た後では、持って生まれた才能をカバーし切っているからです。知識がない幼稚園児だからこそ、持って生まれた才能がどうであるか、分かり易いのです。なので世界では幼いうちに能力テストで振り分けられるなんて珍しくないのです。
個人的にはそうであるべきと私も認識しています。能力がある者が担うべきだと思います。

「しかも資源は優秀な層に配分し、見込みがないもの、ダメな地域や学校は予算をどんどん減らすのが日常的だというのです。かなり現実主義で、冷徹なイギリスという国の一面がよくわかります。決して平等主義ではないのです。」記事抜粋。
この方の認知している平等は「横並びの平等」を指していると思いますが、確かに「横並びの平等」も大切ですが、同様に「縦の平等」も重要です。その「縦の平等」においては、できる者に資源を多く分配することは非常に公平公正の平等なんです。資本主義は「縦の平等」ですよね?社会主義は「横の平等」に近いイメージです。ですので、「平等主義じゃない」と決めつけるには少々誤認があるような気がしました。

「有名私立、進学校系私立の場合はこういった統一試験での足切りがあり、なんと希望しても試験の結果が悪いと入試を受けさせてもらうことすらできないのです。これに関して保護者が文句を言うことはいっさいできません。なにしろ私立の学校なので独自の運営方針があるからです。」記事抜粋
この点も、足ぎりや、希望が通らない、父兄は文句も言えない、と少々苛立ちの表現にみて取れましたが、海外ではそれが普通ですし、学校運営や方針に父兄が口出しをすること自体が、海外視点では珍しいです。日本は学校運営に一緒に参加してより良い環境づくりをなんて普通なんでしょうが、海外では基本的に見受けられません。方針に合わないなら学校を変えるだけですから。この基本姿勢も日本は独特です。能力者、リーダーが主導する社会と、協議性で皆で決めていく社会の違いですよね。

「日本と異なり、学校が生徒の面倒をみるという感じではなく、生徒は良い実績を挙げ、学校に貢献する人間でないと残してもらえない仕組みになっています。」記事抜粋
この点もそうですが、現代日本は「やってもらう」「与えてもらう」が基盤に陥った社会を象徴しているように思いました。基本的に家族は家庭に貢献し、住民は地域に貢献し、社員は企業に貢献し、国民は国へ貢献するのがごく普通の社会構造なはずですが、日本はいつの間にか「やってもらう」のが当然の国と化していると思います。客だから当然、子供だから当然、弱者だから当然、、全てがやってもらうばかりで、誰も自らカゴを担がない国へと変貌したように見えます。
国も企業も地域も家庭も、一人ひとりの構成員が税を納めたり、労働で貢献したりと、支え合うから成り立っているのですから、学校は子供の面倒を見るのが本分の場所ではないのです。学校は自ら学びたい子が積極的に働きかけて利用する場所なんですから、先生の気遣いが薄いとか、学校の気配りが足りないとか、元来教育に無関係な事まで文句を言っている環境の方が珍しいと思います。与えられそれが当然となり過ぎた弊害なのかもしれません。勿論海外でも先生と親御さんの会話は普通にありますよ、但し日本の趣旨とは違っていますよね。

「良い人間を早期に選抜し、ダメな人間は合理的な理由で組織の外に出す。決断は実に早く冷酷です。感情ではなくデータでそれをやるのです。」記事抜粋
この点も、感情で評価する方が判断を間違えると思いますね。評価とはあくまで客観的なものでなければいけません。人一倍努力したのに可哀想だから、「出来ていない」のにOKと評価をしたら評価の意味がなくなります。今の日本は自分を認める事を怖がっているように見えます。自分はこれも出来ないあれも出来ないと認める事を怖がっている様に見えます。妬みでしょか?「できる人間」への妬みなのか、自己卑下なのかわかりませんが、自覚を持つ事を怖がっていたのでは、いつまで経っても自立はできませんよね。ましてや能力や知識の成績など、感情で評価する方がおかしいと思います。

「日本の「欧米は試験や詰め込み型教育を否定している」という報道はいったい何だったのかと感じていますが、このような初等教育における徹底的な現実主義、優秀者を早期選抜して資源を集中させることがイギリスの強みの源泉だと感じた次第です。」記事抜粋。
この方の言うように、海外での教育環境は「できる者ができれば良い」です。決して「出来ない子」にスパルタ的な押し込みは行いませんよ。つまり貴方はできる子です、出来ない子です、と明確に線引きは行いますが、押し込んだり、詰め込んだりしませんので、報道は合っていると思いますよ。
逆に、日本は「出来ない子を、なんとかできる様にしてあげる」が教育環境なので、押し込んで詰め込んで行くことになります。間違いなく詰め込み教育を行なっているのは日本の方です。海外の教育環境は非常にのんびりで、ゆったりです。はなから「出来ない子」に期待してませんから!!「出来ない子」ができる様になりたいと思うなら、自分で這い上がっていくしかないのです。いずれ能力の壁にぶつかりますけどね。「出来ない子」が足掻くから苦しいんですよ!「出来ない子」は自分には無理だなぁと、容認して仕舞えば気楽に海外は過ごせるんです。学校でもなんでも。理解が難しかもしれませんが「出来ない=だめ」じゃないんです。「出来ない」と言うそれだけの事です。ですので卑下も妬みも薄いです。ここが日本と海外の大きな差ですね。

こう言った能力主義的な環境に住んでいると、なぜ日本は能力主義、エリート主義を毛嫌いするのかといつも思います。やはりそこには「横並び」の価値観しか存在してないんだと思います。

「出来ない子」と聞くだけで非常に悪いイメージしか、日本では生まれてこないのでしょう。「貧乏」と言えば悪いイメージしかない。日本は全て「金太郎飴」「皆一緒」じゃないと気が済まないために、「あの子ができて、自分ができない、」は許せないんでしょう。海外は「金持ち」を崇拝もしてませんし、「貧乏」を見下していませんよ。「賢い」から偉いわけじゃないし、「美人」だからモテるわけじゃない。そう言った物事の価値観に多様性が存在しています。
当然、どの国でも個々の価値観はバラバラですでの、人種差別主義もいれば、偏向的な能力主義者もいますので、各論では多々あります。
言葉の表現として敢えて記しますが「馬鹿」は「馬鹿」として立派な価値を持っているんです。実は日本も昔はそうだったんですよ。仏教でもそうですよね、「木偶の坊」と言う言葉ですが、社会に不要と評された木が最終的には長生きをして徳を得る。結局価値観や評価や能力と言ったものは無数に存在し、どれが良くてどれが良くないとは、人間誰も決めることはできないのです。

足が速い子は走ればいいじゃないですか?頭が良い子はアカデミックな世界へ進めばいいのです。おしゃべりが好きな子は、それを活かせる世界へと進めばいいのです。海外は大人も子供も、それで良いと認知している人たちが多いのです。
日本は大人も子供も「お金持ち」「裕福」これしか、価値観を持ち得ていない様に見えます。だから「できない」では済まされないんです。必死こいて追いつこうとするわけです。親が子供に「レギュラーじゃなくても良いじゃん」「成績が悪くても良いじゃん」「大学どこでも良いじゃん」「通信簿で1だけじゃなんだけど、別に気にしなくてもいいよ」と笑って子供に接することができたら、子供は自ずと笑ってその様に育ってきます。親がピリピリして画一的価値観で、「これしかダメ」「それ以外はダメ」と正解は一つと子供に接して行けば、自ずと子供もその様に育ってきます。

どうして「出来る子」に対して素直に「凄いよね」と思えないのか不思議です。
どうして「できない子」がダメなのか、ここも理解が難しいです。
きっと「お金」「経済」と言う基準値だけしかない環境なんだろうと想像します。なんのかんのと言っても、お金がないと、ある程度裕福じゃないと、これしか生きる意味がない環境なんだろうと思います。どの世界へ行こうと、お金の問題は付きまといますし、霞だけじゃ生きて行けませんので、そう言った画一的な思考に陥り易いのも現実なのですが。だからこそ、個々が個々の調和を図り、色んな生き方ができて、色んな人が色んな能力を出し合って支え合えたら、多くの方々は自立した人生になり易いと思います。

少なくても自分が育った日本は、海外同様能力主義の環境でした。学校のテスト結果など廊下に貼られるし、スポーツも出来る子は壇上で表彰されるし、先生もコイツはこれが得意、あいつはこれが得意と明確に子供達にわかる様に接していました。ですので自ずと自他ともに自覚を小さい時からしっかり持たされていました。
そして最も大事な教育は「成績が良いから全て良し」ではない点も徹底して教育されましたね。足が速い、喧嘩が強い、頭が良い、それはそれだけであって、そう言った色んな能力を個々が持ち得て、その能力を活かし共同生活、支え合う事で社会は成り立っていると教わったものです。子供ですので成績が良ければ天狗になったり、運動会で目立てば天狗になったり、喧嘩に勝てば天狗になったりと子供達は都度色々意識変化を見せますが、最終的には誰もが自分1人じゃ何も出来ない、いろんな人間がいて社会が成り立っていると学んだものです。
一つの能力や一つの角度尺度で測れば、縦の上下はありますが、相対的且つ総体的な能力、尺度で見れば、皆各自の能力を持った横並びの関係になります。非常に単純な社会です。そこには他者と比較して自己卑下する様な環境は、非常に少なかったと記憶します。勿論、子供の成長過程においては、他者比較による妬みや嫉妬はあり、通過点として通ってきますが、最終的には結局、皆一緒だなと認知できる様になりますし、実際皆が其々の能力を活かし、社会を支えていたと思います。

社会の価値観が昔は多様性に富んでいたと思います。当然貧困格差も当時はあったと思います。それが高度成長、バブルと過ぎて来る間に1億総数中流階級となり、格差が減り皆が同じような暮らしに陥った瞬間に、価値の多様性も消えて、価値観までも皆一緒の環境が出来上がってきたんじゃないでしょうかね?
平等、公正、公平と言っても、それは縦社会もあれば横社会もあれば、ミクロ視点もあればマクロ視点もありで、色んな姿形の平等、公正、公平が存在します。
昔から言うように「上を見ても、下を見てもキリがない」
全てにおいて、光と影は同時に存在します。誰かが都合よければ、誰かが不都合になるって事だし、誰かが損すると言うことは誰かが得すること、誰かが不平等と感じれば、一方は平等と感じるものなのです。

だから教育が大事だし、個々の自覚も大事だし、社会の価値観の多様性も大事だし、多くの方面で多くの方々が、持ち得ている能力を活かしながら、支え合っていくものなのです。良い大学を出たら良い、お金に困らなかったら全て良い、なんて人生や社会は単純なものではないのです。知識としては誰もが知り得ていることなのですが、一歩が踏み出せない方々が多いのは、横並びの比較評価で思考するからじゃないでしょうか?

横並びの比較評価に怯えないためにも、自分自身が誰なのか、何を求めているのか、何が出来て何が出来ないのか、そう言った自覚をしっかりと持つことがとても大切な事だと思います。


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