より良い正解のために美学を使う
花は生きる為に必要かと問われれば、あってもなくても、どちらでも良いと答えるでしょう。花の世界に生きている私でもそう思います。
そして、習い事の殆どは、すぐに正解にたどり着けない。時間をかけてそれらを習得して行きます。
すぐにわかった様に思っても、それは全体の5%に満たないもので、残り95%以上もの潜在的な智慧にまで到達するには鍛錬が必要だからです。
さらけ出す勇気
わからない事をすぐにググって正解を求めるのは効率的で、私もググっています。それでも、言語に関しては辞書派なもので、フランス語を調べる時は、仮説を立てながら正解へ辿り着くステップを踏むのが好きなんですよね。
多分それは、自分で正解を選ぶ必要があると思っているからなのだと思います。辞書に書いてあるそのままを当てはめることができないと知っているから。
花をアレンジするステップもまるで同じ。これがたった一つの正解というものがないので、仮説を立てながら自分なりの正解へ辿り着く必要があります。
自分が目指す、より良い正解を求めるしかない。
その指針は、何を美しいと感じるのか。美とは何かの問いを持っているか。美学が備わっているかが問われます。
言葉を選ぶセンスや、花を選びアレンジするセンスの中に、その人の美学が透けて見えるはずです。だから、そこはググってはいけない気がします。
怖いですよね。自分が出した正解をさらけ出すなんて。他の目から見たら、自分がどう評価されるか、私はずっと怖かった。
生死に直結しない、あってもなくても良いもの。その中で自由に思考を遊ばせて、残り95%の潜在的な智慧に到達する。
人間らしい成長が必ずそこにはあります。
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