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【感想文】戦争と平和(第三部)/トルストイ

▼戦争と平和のあらすじ(第三部)

【第3部第1編第1章~第23章】
ロシア皇帝の側近バラショフがナポレオンに「戦争やめへん?」と提案したけど拒否られて戦争勃発、ロシア側の作戦会議では様々な党派が生まれたけどこれに対してアンドレイは「事件は会議室で起きてるんじゃない。現場で起きてるんだ」的な発想で野戦部隊を志願してる隙にニコライが勲章をもらってナターシャも回復してペーチャもロシア軍に入った……的な話。

【第3部第2編第1章~第39章】
アンドレイの親父が死んで娘マリヤがフランス軍に占領される前に村を出ようとしたけど百姓たちに断固反対されて番頭アルパートゥイチも役立たずだしヤベーよヤベーよと焦ってたらニコライが助けてに来てくれて一安心かと思いきやボロジノの会戦が勃発してピエールが野次馬根性で戦争に参加してアンドレイが負傷してロシア軍はド根性でフランス軍と善戦してナポレオンはこっそり鼻風邪をひいていた……的な話。

【第3部第3編第1章~第34章】
エレンがピエールと離婚して高級官僚的なおじさんと結婚した隙にフランス軍がモスクワまで攻めてきたけど市内は既にもぬけの殻になっておりアンドレイも死んだけどやっぱり生きていてナターシャと偶然再会した一方でモスクワに残ったピエールはナポレオン暗殺計画を企てるが放火魔として逮捕された……的な話。

【感想文(第3部第1編第1章~第23章)】

オススメの党派について

第9章では、ナポレオンのロシア侵攻を阻止すべく、ロシア軍では九つの党派が形成され指導権争いが行われる。要は「この戦争誰が仕切んねん」であり、そこで今回は九つの党派の特徴を整理した上で、我がオススメの党派を紹介する。

【第一の党派】
 プフール率いる戦争理論家集団。戦争を科学的に分析の上で「軍学」なるものを駆使してナポレオンをやっつけろ。

【第二の党派】
 バグラチオンおよびエルモーロフを中心とする民族主義集団。戦争は軍学よりも「やる気」でナポレオンをやっつけろ。

【第三の党派】
 アラクチェーエフも在籍。第一党派と第二党派の中庸を取りつつナポレオンをやっつけろ。

【第四の党派】
 アウステルリッツの戦いでナポレオンに圧倒されたことで戦意喪失、そのため戦争反対ラブアンドピースを謳う集団。

【第五の党派】
 バルクライ信望者集団。有能なバルクライに権力を与えるべきであり、無能なベニグセンでは司令官は務まらない。

【第六の党派】
 ベニグセン信望者集団。有能なベニグセンに権力を与えるべきであり、無能なバルクライでは司令官は務まらない。

【第七の党派】
 「ぶっちゃけ皇帝が軍を仕切ったらええがな」を主義とする、将軍や侍従武官による集団。

【第八の党派】
 己の利益の為に戦争を手段として用い、一貫した主義の無いいわゆる「風見鶏」的な集団、かつ、最大勢力。

【第九の党派】
 皇帝は軍へ介入するのではなく国家統治(国民精神の鼓舞)をすべきである、と主張するシシコフを筆頭とする集団。

以上、合計九つの党派が生まれ、そらまあ九派閥もあれば議論紛糾するのは当然なのであって、で、オススメの党派を挙げる前に私が言いたいのは「感情があるから戦争は起こる」という事である。全人類の感情は千差万別であり、そのあらゆる思惑が思惑同士で衝突するのは避けることができない。もし、この世から争いを無くす手段があるとすれば、それは「全人類の感情を統一する」あるいは「全人類からロボットの如く感情を排除する」といった荒唐無稽な世界を夢想するだけである。そしてこれに通じる極論が、第二部の読書感想文で紹介した「それってあなたの感想ですよね?」という幼稚な発言であり、そのため、あの優しい私ですらこの発言に激怒したのである。では、それを踏まえてオススメの党派の話題に戻りますが、合計九派閥もあってジャマくさいので消去法で選ぼうと思う。まず、第一党派&第二党派&第四党派&第五党派&第六党派は感情の度合いが極端過ぎるので却下。そもそも僕はラブアンドピースとかいう言葉がキライなんですよ。で、第七党派は、過去に皇帝が軍を仕切ったら大敗したので却下。第八党派は、もはや戦争関係あれへんがな(却下)。で、残る第三党派と第九党派ですが、まず第三党派はアラクチェーエフが作中にあまり登場しないので明言が難しいが(アンドレイとの対話から冷徹な人間かと思われるが)、これは第九党派も同様、戦術と士気のバランスが期待できそうな気がする(将軍同士で内輪揉めの懸念もある)。以上のことから、私のオススメの党派は、第三党派と第九党派の合体、つまり「第十党派」である。

といったことを考えながら、九つの党派が最終的にどうなったかというと、第九党派が皇帝に受け入れられ、そのため皇帝は軍から去ることになり、(ここからネタバレになるけど)続く第2編ではバルクライが指導権を握るがバグラチオンが指示に従わないので戦局も悪化してバルクライは責任を取ってクビにされた為、安定と信頼と人望のあるクトゥーゾフが仕切ることになったのである。

以上

【感想文(第3部第2編第1章~第39章)】

ボロジノ会戦における鼻風邪との因果関係の有無について

第3部第2編第1章~第39章では、これまで優勢だったフランス軍だったが遂にボロジノの会戦で大打撃を受ける。これに関して著者は第2編第28章から第29章にかけて、鼻風邪を引き合いに出しながら、従来の歴史観について次の様に反対意見を述べている。

フランス軍の敗因は「ナポレオンが鼻風邪を引いたことで指導や命令が冴えなかった」という従来の歴史家の考えは誤りである。こうした考えは、国が一人の人間の意志で形成され、戦争が一人の意志で始まったという発想に端を発するものである。

一方で、<<世界の諸事件の歩みは神の御意(みこころ)によってあらかじめ定められており、その事件に参加するすべての人々の恣意の総和によって決せられるもの>> であり、ナポレオンの影響は虚構に過ぎない。

事実、ロシア兵はナポレオンに殺されたのではなくフランス兵に殺されたのである。これはナポレオンの命令の結果ではなく、<<それが彼ら(私注:フランス兵)に必要だったからである>>。

会戦の進行を指導したのもナポレオンではない。なぜなら彼の作戦は何一つ実行されず、前線の戦局も知らなかったから。

会戦におけるナポレオンの作戦は他の戦いと比べて劣っておらず、彼はいつも通り任務を果たした。

以上のことから、著者によると鼻風邪とボロジノ会戦は関係無いそうで、まあそうだろうなとは思う。では著者の歴史観についてだが現時点では不明(※エピローグで判明)であるものの、しかし、ここで上記②における「世界の諸事件の歩みは神の御意」および「人々の恣意の総和」という本書の引用部分に注目すると、まず前者の「神の御意」とは、我々人間にとって超越的な事柄であり知り得ないものということができ、これと同様に後者の「恣意の総和」についても、(一人の意志ではなく)各個人が勝手気まぐれに意図した結果、ボロジノで何が起こるかなんてのは人間には分かりようがない。これらは上記③④⑤が裏付けており、ナポレオンの命令を受けた兵士一同が何を思い、そしてどう行動するかなんてのは実際に戦争してみないと分からないのであって、例えば、第33章の末文においてフランス軍は、戦火の中で <<軍紀を失い、偶然の群衆の気分のおもむくままに駆けまわるのであった>> とあり、これはナポレオンの意志不在、といった著者の意図を思わせる描写である。いずれにしても著者が歴史なるものをどう捉えているのか、それはこの時点でやはり不明ではあるものの、もしかすると「人間同士の勝手な思い込み」とか「知らんもんは知らん」とかそんな事を当時の歴史学に見出していたのかもしれない。

といったことを考えながら、そんなことよりも私は、この先マトヴェーブナおばさんが再登場するのか、それともあの一回で終わりなのか、それはエピローグまで読まないことには誰にも分からないのだと言いたい。

以上

【感想文(第3部第3編第1章~第34章)】

歴史の微分積分について

冒頭の第3編第1章において、またしても著者は従来の歴史家に反論した上で歴史学のあるべき姿を次の様に語る。

歴史とは、人々の全ての恣意の総和の連続運動であり、歴史学の目的は <<この運動の法則を究めること>> である。

上記①にも関わらず、従来の歴史家は任意の事件を取り上げて他から切り離して考察するだけでなく、一人の人間、皇帝、軍司令官の行動を、人々の恣意の総和の適用結果として考察しており、この二点が誤りである。

上記①を解説すると、<<観察の対象に無限小の単位──歴史の微分、すなわち人々の同種の渇望を認め、積分(これらの無限小の数値の総和を得る)方法を発見してはじめて、我々は歴史の法則を究める希望を持つことができる>> という。

上記③の方法にのみ、歴史の法則を理解する可能性があり、ほとんどの歴史家は実践していない。

【微分積分を用いた歴史分析の原理】
以上のことから、著者の主張は上記①に集約されており、その実現手段を数学における微分と積分に見出している。微分とは、数学的にはある瞬間における変化の割合だが、もう少し概念的に捉えると、全体を細分化して分析する方法である。一方の積分についても面積を求める手段として用いられるが、著者の言葉を借りると <<恣意の総和>> と言い換えることができる。このように著者は歴史を連続運動と考えているため、ある非線形な関数(つまり複雑な現象)が在り、その時間間隔を限りなく0に収束させたときの変化率を「恣意」、その現象に至る時間間隔も同様に0へと収束させて、その瞬間的な変化量から全体の総和を求めると「歴史」になるという理屈である。

【持論に関する所感】
こうした著者の持論について、これぞ完全なる歴史学かと言われれば、机上の思考実験にとどまっておりこの段階では現実味を帯びていない。というのも、まず「恣意」とは定性的な要素であることから数値といった定量化は難しく、何かしらの強引な一般化を要するからであり、また、微積は0ではなく「0への収束」である以上、連続運動ではない。とはいえこの手法が実現できれば現象における「確からしさ」は担保されるとは思う。もしかすると著者の意図はこうした実現手段を言いたいのではなく、歴史学が人間にとってどれほど困難な行為であるか、それを伝えたかったのかもしれないが、あ、そうそう、そういえば、さっき私はポンちゃんラーメンを食べた。それは本日18:00の事であった。遡ると私は18:00の30分前、つまり17:30にポンちゃんラーメンを無性に食べたくなった。そして家を飛び出した。急いでたから徒歩ではなく自転車でコンビニへ向かい、そしてポンラーを買って家に戻ると時刻は17:55。で、食べた。ポンちゃんラーメンを。以上が私という線形な個人からなる、恣意の、総和の、観察結果である。

といったことを考えながら、ぼんやりしていると「あなたの住んでる東京にはポンちゃんラーメンは売ってません、なんでウソつくんですか」という声が聞こえてきた。

以上

最終・第四部へつづく

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