【感想文】戦争と平和(第三部)/トルストイ
▼戦争と平和のあらすじ(第三部)
【感想文(第3部第1編第1章~第23章)】
オススメの党派について
第9章では、ナポレオンのロシア侵攻を阻止すべく、ロシア軍では九つの党派が形成され指導権争いが行われる。要は「この戦争誰が仕切んねん」であり、そこで今回は九つの党派の特徴を整理した上で、我がオススメの党派を紹介する。
以上、合計九つの党派が生まれ、そらまあ九派閥もあれば議論紛糾するのは当然なのであって、で、オススメの党派を挙げる前に私が言いたいのは「感情があるから戦争は起こる」という事である。全人類の感情は千差万別であり、そのあらゆる思惑が思惑同士で衝突するのは避けることができない。もし、この世から争いを無くす手段があるとすれば、それは「全人類の感情を統一する」あるいは「全人類からロボットの如く感情を排除する」といった荒唐無稽な世界を夢想するだけである。そしてこれに通じる極論が、第二部の読書感想文で紹介した「それってあなたの感想ですよね?」という幼稚な発言であり、そのため、あの優しい私ですらこの発言に激怒したのである。では、それを踏まえてオススメの党派の話題に戻りますが、合計九派閥もあってジャマくさいので消去法で選ぼうと思う。まず、第一党派&第二党派&第四党派&第五党派&第六党派は感情の度合いが極端過ぎるので却下。そもそも僕はラブアンドピースとかいう言葉がキライなんですよ。で、第七党派は、過去に皇帝が軍を仕切ったら大敗したので却下。第八党派は、もはや戦争関係あれへんがな(却下)。で、残る第三党派と第九党派ですが、まず第三党派はアラクチェーエフが作中にあまり登場しないので明言が難しいが(アンドレイとの対話から冷徹な人間かと思われるが)、これは第九党派も同様、戦術と士気のバランスが期待できそうな気がする(将軍同士で内輪揉めの懸念もある)。以上のことから、私のオススメの党派は、第三党派と第九党派の合体、つまり「第十党派」である。
といったことを考えながら、九つの党派が最終的にどうなったかというと、第九党派が皇帝に受け入れられ、そのため皇帝は軍から去ることになり、(ここからネタバレになるけど)続く第2編ではバルクライが指導権を握るがバグラチオンが指示に従わないので戦局も悪化してバルクライは責任を取ってクビにされた為、安定と信頼と人望のあるクトゥーゾフが仕切ることになったのである。
以上
【感想文(第3部第2編第1章~第39章)】
ボロジノ会戦における鼻風邪との因果関係の有無について
第3部第2編第1章~第39章では、これまで優勢だったフランス軍だったが遂にボロジノの会戦で大打撃を受ける。これに関して著者は第2編第28章から第29章にかけて、鼻風邪を引き合いに出しながら、従来の歴史観について次の様に反対意見を述べている。
以上のことから、著者によると鼻風邪とボロジノ会戦は関係無いそうで、まあそうだろうなとは思う。では著者の歴史観についてだが現時点では不明(※エピローグで判明)であるものの、しかし、ここで上記②における「世界の諸事件の歩みは神の御意」および「人々の恣意の総和」という本書の引用部分に注目すると、まず前者の「神の御意」とは、我々人間にとって超越的な事柄であり知り得ないものということができ、これと同様に後者の「恣意の総和」についても、(一人の意志ではなく)各個人が勝手気まぐれに意図した結果、ボロジノで何が起こるかなんてのは人間には分かりようがない。これらは上記③④⑤が裏付けており、ナポレオンの命令を受けた兵士一同が何を思い、そしてどう行動するかなんてのは実際に戦争してみないと分からないのであって、例えば、第33章の末文においてフランス軍は、戦火の中で <<軍紀を失い、偶然の群衆の気分のおもむくままに駆けまわるのであった>> とあり、これはナポレオンの意志不在、といった著者の意図を思わせる描写である。いずれにしても著者が歴史なるものをどう捉えているのか、それはこの時点でやはり不明ではあるものの、もしかすると「人間同士の勝手な思い込み」とか「知らんもんは知らん」とかそんな事を当時の歴史学に見出していたのかもしれない。
といったことを考えながら、そんなことよりも私は、この先マトヴェーブナおばさんが再登場するのか、それともあの一回で終わりなのか、それはエピローグまで読まないことには誰にも分からないのだと言いたい。
以上
【感想文(第3部第3編第1章~第34章)】
歴史の微分積分について
冒頭の第3編第1章において、またしても著者は従来の歴史家に反論した上で歴史学のあるべき姿を次の様に語る。
【微分積分を用いた歴史分析の原理】
以上のことから、著者の主張は上記①に集約されており、その実現手段を数学における微分と積分に見出している。微分とは、数学的にはある瞬間における変化の割合だが、もう少し概念的に捉えると、全体を細分化して分析する方法である。一方の積分についても面積を求める手段として用いられるが、著者の言葉を借りると <<恣意の総和>> と言い換えることができる。このように著者は歴史を連続運動と考えているため、ある非線形な関数(つまり複雑な現象)が在り、その時間間隔を限りなく0に収束させたときの変化率を「恣意」、その現象に至る時間間隔も同様に0へと収束させて、その瞬間的な変化量から全体の総和を求めると「歴史」になるという理屈である。
【持論に関する所感】
こうした著者の持論について、これぞ完全なる歴史学かと言われれば、机上の思考実験にとどまっておりこの段階では現実味を帯びていない。というのも、まず「恣意」とは定性的な要素であることから数値といった定量化は難しく、何かしらの強引な一般化を要するからであり、また、微積は0ではなく「0への収束」である以上、連続運動ではない。とはいえこの手法が実現できれば現象における「確からしさ」は担保されるとは思う。もしかすると著者の意図はこうした実現手段を言いたいのではなく、歴史学が人間にとってどれほど困難な行為であるか、それを伝えたかったのかもしれないが、あ、そうそう、そういえば、さっき私はポンちゃんラーメンを食べた。それは本日18:00の事であった。遡ると私は18:00の30分前、つまり17:30にポンちゃんラーメンを無性に食べたくなった。そして家を飛び出した。急いでたから徒歩ではなく自転車でコンビニへ向かい、そしてポンラーを買って家に戻ると時刻は17:55。で、食べた。ポンちゃんラーメンを。以上が私という線形な個人からなる、恣意の、総和の、観察結果である。
といったことを考えながら、ぼんやりしていると「あなたの住んでる東京にはポンちゃんラーメンは売ってません、なんでウソつくんですか」という声が聞こえてきた。
以上
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