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陽光底光

春光に包まれた季節頃、コイン精米所が大活躍しているような田舎に伸二は生を受けた。ごくごく一般的な家庭に迎えられて。(大人になってこの一般的な家庭というのが、どれだけ恵まれた環境なのかに気がつくのだが。)両親がいて、祖父母がいて、兄弟もいた。家の近くの小学校、中学校に通った。高校は進学校に通い、そのまま関西の大学に進学し、無難な会社に入社した。ごくごく平凡な青年だ。

そんな伸二の人生も、かの太宰治程では無いが、女と共にあった。

これは伸二の人生に現れた女たちとの物語であり、記録である。

■小学生の頃の伸二

小学生の頃の伸二は、本を読むのが好きな少年だった。本と言っても絵が添えられている、所謂マンガってやつだ。教養も同時に身につくファーブル昆虫記、世界の偉人、日本の歴史漫画を好んで読んだ。知的好奇心に溢れていたから、勉強が楽しかった。また伸二は相手の気持ちに寄り添うことのできる少年であった。ある時先生に、あなただけがライオンの気持ちにまで立てていて、先生、感動したと言ってもらえたことは今でも鮮明に覚えている。嬉しい出来事だった。さらに伸二は詩を書くのも得意だった。書いた人を伏せて投票で気に入った詩を選ぶ授業では、いつも大賞に選ばれていた。(友人曰く、これをお前が書いただなんて信じられなかったらしい)

運動面においては、サッカークラブと、卓球クラブに所属していた。サッカーではいつも補欠だったが、どちらも楽しかった。昼休みになる度に何故かいつもコーナーキックの練習ばかりしていた。

特に好きだった運動動作は自転車、縄跳び、マラソンであった。どれも伸二にこれならできるぞ、という自信を与えた。自転車に乗れるぞ。いつまでも走れるぞ。どんな技でも飛べるぞ。(サッカーも野球もそこまで上手くなかったが、何故か縄跳びだけは人一倍上手かった)二重飛びはもちろん、三重飛び、四重飛び、五重飛びまでできた。実際には数センチしか地面から離れていないのに、空の彼方にまで翔んだ気分だった。できる、できるぞ、という自信が漲っていった。

自信を身につけながらも、一方でこの小学生の頃に、伸二の性格を偏らせる事象が起こった。

兄の家庭内暴走だ。

当時、父親は単身赴任中で家には母親と妹しかいなかった。兄は母親にも、伸二にも、妹にも暴力を振るった。家中のガラスというガラスは割れた。本来であれば、唯一の男である伸二が力で対抗すればよかったが、その時の伸二に兄に対抗する勇気などなかった。だからどうしたか。

伸二は泣くのをやめた。

母親を心配させない為だ。辛くても、いつも笑顔でいることを決めた。そして家でも学校でも良い子でいることに努めた。この時の決心のせいで、青年になっても、感情表現が苦手になった。怒られているのに、ヘラヘラしてしまうことがあった。無表情でいるつもりなのに、辛くても笑うことが身につきすぎていたのだ。

兄を憎んだが、今は憎んでいない。兄も苦しんでいたことを知ったからだ。その時、兄は学校でイジメなるものにあっていたことを、大人になってから母親から教えてもらった。兄もぶつけようのない怒りに苦しんでいたのだ。憎むべきは、イジメをした奴らだ。

だけど、この一件のおかげで伸二はより一層、人の心に寄り添う術を身につけることができた。卒業時の文集で皆が学校生活での思い出や成し遂げたことなど、自分のことを書いている中、伸二だけは四年生の時に引越してしまった友人の竹川くんのことを想い、その想いを綴っていた。当時は友人になんでこんなの書いてるんだと笑われたが、人一倍、人を想えていた、この頃の自分を誇らしく思う。



■初恋

そんな伸二が初めて恋をしたのは小学三年生の頃だ。東京から引っ越してきたアカリちゃんは、容姿端麗で明るい子だった。同じ団地に住んでいたから、帰り道にその姿を目撃することが稀にあった。同じ団地なら一緒に帰ればいいのに、と今なら思うが、この時の伸二は女の子と話など到底できないウブな男であった。だから会話ではなく、ケイドロをして追いかけ、追いかけられるのがアカリちゃんとの唯一のコミニケーションであった。風を介して会話した。

ある年のバレンタインデイに、アカリちゃんからチョコを貰った。その数日後のやり取りを鮮明に覚えている。いつもの帰り道にアカリちゃんの後ろ姿があった。伸二はこの時だけ何故か大胆だった。彼女の元に駆け寄り、共に団地までの道を歩いた。その途中で唐突に、伸二は聞いた。

「あのチョコは義理チョコだよね?」と。

当然義理チョコだと思っていたから聞けたのだろう。

だがアカリちゃんからの返答は意外なものだった。

「ううん、本命のうちの1人だよ。」

なんとも絶妙な返しだ。本命が何人もいることに戸惑ったが、本命の内の1人であることが嬉しかった。あの時のアカリちゃんの小悪魔な表情は印象的だ。女ってのはいつでも男より先に大人になる。

ホワイトデイの日にお返しのクッキーを持って家まで行ったのだが、アカリちゃんは留守だった。それでアカリちゃんのお母さんにクッキーを渡した。そう、伸二は直接お返しを渡すこともできないような、ヘタレだった。その数日後にアカリちゃんはまた東京に引越してしまった。

切なさよりも、直接クッキーを渡さなかった自分の勇気の無さを嘆いた。



■中学生の頃の伸二

伸二が中学生になる頃には、兄の家庭内暴走はかなり収まっていた。兄は不良というものになったが、そこで信頼できる友人を見つけ、没頭できるバンドというものを手に入れたからだ。唯一の障害は毎日毎日鳴り響くギターの音がうるさかったことくらいだ。

兄は部屋にいつも不良の友達を連れていた。その頃の兄はモテていた。部屋によく女を連れ込んでいた。同学年の可愛い子が伸二に話かけてくることがあったが、決まって兄の連絡先を教えてほしい。という案件だった。そんな兄に伸二は少し憧れていた。

だが母親を安心させたい想いのほうが何倍も強かったので、小学生の頃から引き続き良い子でいることに努めた。

部活にも精を出した。小学生の時に所属していたサッカーと、卓球のどちらを続けようか悩んだ結果、卓球部に入部した。この時の選択は正しかった。中学のサッカー部の大半は不良だったからだ。案の定、不良の先輩に影響されて仲の良かった友達がどんどん不良化していった。そんな中に入ってしまっていたなら、すぐに周りに影響される伸二も不良になっていたに違いない。

卓球は非常に面白かった。サッカーよりも如実に自分の実力が勝敗を左右するからだ。その一方で自らの勝利が団体戦の結果に影響を及ぼすチームスポーツでもあった。自己の鍛錬が自分の結果にも周りの結果にも良い影響を与えられることが嬉しかった。勝ち負けに拘る部分もあったが、何より体育館に木霊する

ピン

ポン

の音が心地良かった。まだまだ会話下手な伸二にとって、ラリーのやり取りによって会話している気分になった。そして試合時に体育館で皆で食べる鶏弁当が美味くて美味くて堪らないのだ。

勉強面では、相変わらず好成績であった。クラスの中で1番になったこともあった。この時の伸二にとって勉強は、まだ楽しいものであった。

塾にも通っていて、そこでサトシと仲良くなり親友になった。サトシはクラスの超人気者であった。勉強もできるし、スポーツも万能、かのサッカー部に所属しながらも不良に流されず、その爽やかさを維持している。性格も飛び抜けて明るい。女からもモテに、モテた。

そんなサトシとなぜ陰湿な卓球部(この時の卓球のイメージはこんなもんであった)のどこのどいつかも分からない男が仲良しなのかと周りは不思議に思っただろう。だが彼は人を部活や勉強ができるできないで判断しなかった。おそらく彼が評価してくれていたのは、伸二の、人を人一倍想える心だったのだろう。

サトシとはよく自転車で旅に出た。山を越えて隣の県まで行ったこともあるし、目的地も決めずに行き止まるまでただ真っ直ぐに進んでみたこともあった。

だが、ふとした時思い出すのは、こうやって特別な場所に行った思い出よりも、塾の帰り道に一緒に帰った記憶だ。将来の事、夢、好きな女のことなどなんでもかんでも語り合った。語り合い尽くすと、その時流行っていた曲を2人で熱唱しながら自転車を漕いだ。あの日々が尊い。

ある日の塾の帰り、サトシが唐突に質問を投げかけた。

「伸二、パンドラの匣(ハコ)って知ってるか?」

「うん、知ってるとも。この世の全ての災い、病苦、悲哀、嫉妬、貪慾、猜疑、陰険、飢餓、憎悪などが詰まった匣だろ?」(太宰治作、パンドラの匣で用いられた解釈だ)

「そうそう、それだ。伸二はさ、もしパンドラの匣と玉手箱のどちらかを必ず開けなければいけないって言われたら、どっちを開ける?」

「そんなの決まってるではないか。パンドラの匣を開けるさ。玉手箱なんてものを開けたら一気にジジイになって、死を待つだけになってしまうだろ。それよりもこの世の全ての災難を纏わりつけてでも生きていたい。」

「ふーん、意外だ。伸二は死に近づいていきたい人間なのかと思ってた。」

「なんでだよ。誰だって長生きしたいだろ。」

「そうだな、こんな楽しい人生だもんな。長生きしような。」

普段はユーモア溢れる話をしているサトシだが、時たまこの様に人生の哲学的な話を投げかけてくることがあった。このギャップというやつが、サトシの最大の魅力であり、伸二が一番好きな部分であった。

ああ、ここまでサトシをベタ褒めしたが、一つだけ欠点があった。これは今後の伸二の親友ほぼ全員に共通する欠点でもある。

皆がみな、当然のように浮気していたのだ。

自然すぎて浮気というものが悪いことなのかどうかもわからなくなるくらい、ナチュラルに浮気していた。伸二はその表面しかみず、平然と浮気できる親友の姿に憧れてしまった。

このことが後に伸二に最大の罪を背負わせることを知らずに。

だが、それはもっと後の話。この時はまだ何にも染まってないピュアそのものであった。そんなピュアでウブでヘタレな伸二に初めての彼女ができた。



■初めての彼女

彼女の名はサエコ。サエコはクラスで特に目立った存在では無かった。伸二も同じく目立たない存在で、所謂イケテナイ方のグループに所属していた。この時の伸二はまだまだ女と話をすることさえできない男であった。だからサエコとも一度も話をしたことがなかった。それなのに、ある日唐突にサエコから手紙を貰った。(この時代まだギリギリ携帯なるものが無い時代だったので、クラスの女達の間でのやり取りは手紙が主流だった。彼女らは、授業中にも何やら楽しげに手紙を交換していた。)

その手紙には、ツラツラと伸二への想い、好き、そして付き合ってください。の文字が並べられていた。伸二はそれまでサエコのことなど気にもかけていなかったが、好きと言われると好きになってしまうような、しようもない男であった。ゆえに手紙に僕も好きです。付き合ってください。と書いてサエコに手紙を返した。それで伸二に初めて彼女ができた。

伸二はサエコのことを最初は好きではなかった。異質でもあった。付き合ってからも、そのほとんどのやり取りは手紙だった。半年程付き合っていたが、その間実際に言葉を交わしたのは手で数えられるくらいだ。同じクラスなのにだ。

2人共シャイすぎた。

純粋すぎた。

処女すぎた。

だからこそ、今でも一番綺麗な想い出として刻まれている。三回だけ、一緒に下校してサエコの家まで送っていったことがある。この三回の下校が、彼らの唯一したデートであった。何を話したかは覚えていない。ただとんでもなく尊い時間だった。何も知らなかったからだ。どんなに望んでももうこの時には戻れないのだ。ただ一緒に下校したことが、今でもどんなデートよりも美しく頭に刻まれている。

その美しさは、かのメロスが絶望の淵にたどり着いた、あの何にも染まっていない純粋無垢な清水の泉のようである。



■初めての告白。初めての好きだけど付き合えない

中学二年になると、伸二はマキという女に恋をした。同じクラス、同じ部活。ハムスターのようにコロンとした可愛さを持つ女だった。この頃になって伸二はようやく少しなら女と話ができるようになっていた。しかしまだ顔は真っ赤だ。

好きになったのは席が近くになった時だ。伸二の席の前がマキだった。給食の時間になると近くの席同士、六つの席を固めて給食を食べた。必然的に給食時だけは隣にマキがいた。マキとは比較的話がしやすかった。給食の時間を通じて、どんどん二人の距離が近ずいているのを感じた。

そして好きな気持ちが増してきたから、伸二は人生で初めて告白をした。伸二は良い奴ではある。だがどこか抜けている。告白などは体育館裏に呼び出してこっそりするのが相場だ。なのに伸二は昼休みの渡り廊下(そこには沢山の人がいる)で告白した。場を考えろと言いたい。しかしその時は伸二も必死だった。想いを伝えたい気持ちでいっぱいだったのだ。だから皆が見ているのも忘れて告白した。

「好きです、付き合ってください」

内心必ずオッケイしてくれると思っていた。

でもマキの答えは、

「ごめんなさい。。。」

かなり動揺した。

マキはもっと動揺していた。そりゃそうだ。あんなにも大勢の前で告白などされたら、恥ずかしい気持ちでいっぱいだ。それにマキにはもう一つ破れないものがあった。

それが時に恋愛よりも大切な友情ってやつだ。

この時もまだまだ女達の間では手紙のやり取りが流行っていた。ある時お節介な女が伸二に、マキからその女に当てた手紙を横流しにしてきた。そこにはこう書かれていた。

伸二くんのことは好きだけど付き合えないよ。だってあの子と私は親友だから。

給食時に固める六個の席。隣にはマキ。真正面にはリナがいた。マキとリナは親友だった。伸二とリナは同じ小学校出身の友達でもあった。リナは小学生の時から他の男子のことを好きなんだとばかり思っていた。だけど実際にはリナも伸二に好意を抱いていたのだ。しかも何年もの間。そのことをマキは知っていた。だからあの時、ごめんなさいと言いながらも泣いていたのだ。

今も続く伸二の時たま見せる突拍子も無い行動によって、2人の女性を傷つけてしまったのだ。その手紙を読み愕然としたことをよく覚えている。

人を好きになることは、同時に人を傷つけることがあるんだと深く学んだ。

そして少しの自己嫌悪がこの時蓄積されたのだ。



■中学三年生 初めての一目惚れ 初めての喪失感

中学三年生の時もまた同じクラスの女を好きになった。リエという名だ。リエも初恋相手のアカリちゃんと同じように、中学二年の時に横浜から引越してきた子だった。新学期が始まりリエをクラスで見た瞬間、衝撃が走った。その容姿は美を超えた美美たるものであった。しまむらの服でさえお洒落に着こなしてしまいそうなセンスも漂っている。ショートヘアがどんなアイドルより似合っている。そんなリエに一目惚れした。

容姿だけではなく性格も良かった。シャイな伸二にも目が合うと微笑んでくれた。リエの近くにわざと消しゴムを落としたことが何回かある。その度に即座に消しゴムを拾って、「また消しゴム落として、おっちょこちょいなんだね。」と言いながら伸二の手に消しゴムを渡してくれた。

リエに夢中だった中学三年時、ついに携帯電話なるものを手に入れた。そして何人かの女とメールのやりとりをするようになった。その中にリエは含まれていなかった。なぜなら、まだリエは携帯電話を持っていなかったからだ。

とある女子とメールしている時に、伸二は今誰か好きな人いるの?と聞かれて、リエのことが好きなんだと返信したら、じゃあリエに家の電話番号を伸二に教えていいか聞いてあげようかって言われた。こういう面倒見の良い女に伸二は何度も助けられた。ヘタレな僕は直接電話番号を聞くような勇気を待ち合わせていなかったのだ。(因みにこの時は好きではない女子とは普通に会話できる程度にはなっていた。)

その日の内に、その子はリエの電話番号を僕に送ってきてくれた。リエも伸二と電話してみたい。って言ってたよ。というコメント付きでだ。

電話番号を手に入れて伸二はすぐにリエに電話した。リエのお爺さんが出たらどうしようと思いながら電話が鳴る、

プルルルル、プルルルル、プルル、、、

3コール目くらいで、

「、、、もしもし、、、」

とリエの声がした。そのもしもしが可愛いすぎて舞い上がってしまった。平然を装っていたつもりだが、隠しきれてはなかったはずだ。舞い上がってはいたが夢中で話をした。学校の行事のこと、どんな歌が好きか、休みの日は何をしているのか。取り留めのない話をしていたはずなのに、

気がつけば、伸二は電話越しに告白していた。伸二はてんで告白のタイミングが悪い。電話越しでの告白など失敗する典型例だ。

だか、答えは、

「うん。」

だった。信じられなかった。

舞い上がっていた気持ちは更に舞い上がった。あれほど喜びに満ちた瞬間は伸二の人生においてもそう多くは無い。壁に飾っていたポルノグラフィティが祝福してくれているようにさえ錯覚するほどに思えた。

伸二はそれから別れるまでずっと舞い上がっていた。リエが自分には到底付き合うことなどできないほどに美しく、人気者だったからだ。そんなリエと付き合えたことを自慢げに思っていたのだろう。

ひとりよがり。

ちゃんとリエと向き合ったことなどなかった。

それにリエも後悔しているようだった。お互いの親友意外、付き合っていることは知らなかったし、知られたくないようだった。おそらく電話の雰囲気の勢いで付き合うことに了承してしまったのだろう。付き合っていることを公言するのを恥ずかしいとリエに思わせてしまった。それなのに伸二は舞い上がったまま。

塾の帰り、遅い時間に、会いたいと電話しリエの家の前で話をした。伸二はリエが愛おしすぎて、この人と初めてのキスをしたいと勝手に思っていた。

そんな時にリエの家の玄関が開いた。中からお爺さんが出てきた。リエの家は複雑で、その時はお爺さんがリエを預かって育てていた。

こんな夜遅くに何してるんや。と怒られた。

伸二も黙ってはいなかった。

ただ話をする事の何が悪いんですか。(愛を邪魔するなとばかりに言い返した)

熱くなって言い返したもんだからお爺さんは更に怒った。すぐに家から追い出された。その後のことは容易に想像がつく。リエも散々怒られたに違いない。

そして翌日振られた。クラスに入る扉の前で。もう別れよう。その一言で全て終わり。リエはクラスへの扉を閉めた。

バン!!

それまでのリエからは想像できないくらい決意に満ちた音だった。その扉はリエの心を如実に表現していた。伸二への心を固く閉じたのだ。決して二度と開くことのない南京錠と鎖でガチガチに固められた牢獄の扉のようだった。(その後すぐに担任の先生が来て易々とその扉を開けるのだが。伸二!そんなとこ突っ立て何してるんや、授業始まるぞ。はよ、入ってこんか。はーい。って感じだ。もうちょい浸らしてくれよと思いながらも席に戻った。)

伸二はこの時初めて振られることの喪失感を味わった。授業中、泣きたくないのに、涙を堪えきれず、寝たふりをして涙を拭っていた。

この時もっと戒めるべきだった。伸二は人を愛しすぎると行きすぎた行動をとってしまうことを。



■中学三年生 初めてのキス

中学を卒業してから、同じクラスのリエとは違う女と一瞬だけ付き合った。ナツミだ。彼女の家の前でキスをした。初めてのキス。大袈裟ではなく、レモンの味がした。キスをした帰り道はどこまでも真っ直ぐだった。それにも関わらずナツミとの思い出はそれだけだ。お互い違う高校生活が始まると意図も簡単に別れてしまった。付き合うことへの軽さが目立ち始めた。伸二にある欲が纏わりついてきたからだ。それは性欲だ。



■高校生の頃の伸二

高校は県下の進学校に入学した。この時から勉強が楽しいものではなく、しなければいけないものに変わっていた。どこの大学に入って、将来何がしたい。というのを見つけられなかった。全クラスでワースト3位に入ってしまうこともあった。これでは駄目だと思う気持ちはあったので、そこからそれなりに勉強して、クラスの真ん中くらいの成績を維持できるようには努めていた。

部活にも入った。サッカー部だ。中学三年生の球技大会の時、サッカー部が多く所属するチームに勝利したことで、サッカーの楽しさを思い出したからだ。

高校でサッカー部に所属していたことで、体力面でも人間面でも大きく成長できた。体力面では何より家から練習場までの移動で、自然と体力がついた。伸二の家はどの駅からも遠く、自転車通学を余儀なくされていたのだが、家から練習場まで往復2時間かかった。それを毎日毎日、せっせと自転車を漕いで通いつめた。これがどんなトレーニングより体力アップに貢献した。

高校のサッカー部は中学の時と違い、ほとんどが好青年ばかりで、かけがえのない友情を育んだ。

特にサガワとは親友になった。

伸二の親友らの中で、唯一浮気もせず、真っ直ぐな好青年であった。

サガワも含めて色んなことをして遊んだ。グラウンドの横がすぐ海だったから、よく練習後に海で泳いだ。学校から練習場への道にあるコンビニでいつも1リットルの紙パックの飲み物を買ってワイワイした。学校の近くのデパートのフードコートで腹ごしらえして、取り留めのない話に花を咲かせた。絵に描いたような青春を謳歌した。

サッカー自体は相変わらず下手であったが、当時尊敬していたイタリアの名門ACミランのインザーキのように、決めるべきところは決めた。(インザーキを尊敬してしまったのも駄目だった。彼もまた仕事は完璧だが、女を抱くことにもストイックな選手であったからだ。当然伸二もその姿に憧れてしまった)

最後の試合に出ることができなかったが、

サガワ達チームメイトの、

「お前を最後の試合に出してやれなくてごめん。」

という言葉だけで充分だった。楽しいことばかりではなかった。一度本気で辞めようとも思った。だけど3年間続けられた。この3年間やり遂げたことが何よりの自信になった。

卒業式の後に渡された色紙に、コーチから、

お前は素晴らしいものを持っている。だから自信を持って歩んでいって欲しい。

との言葉が記されていた。この言葉が伸二が鬱で苦しんでいた時の救いの一つになった。

部活で青春を謳歌したように、クラス活動でもキラキラした思い出が沢山できた。特に高校一年生の時。高校では学園祭で歌合戦があった。自分達で振り付けも曲も決める。その時の曲は当時流行っていた曲だ。

歌詞もよく覚えている。

希望の光 どんなに落ち込んでいても 君を照らし続けてくれるよ 

この曲に合わせて伸二は人一倍懸命に練習した。皆で歌って踊るのが何より楽しかった。結果も三位入賞と良い成績だった。進学校なので、高校二年から受験モードだ。

だからこの高校一年の皆で踊った歌合戦に青春が濃縮されている。


ここまで見ると、伸二は実に好青年に育ったと思うだろうが、そうでもない。携帯電話という最強の武器と、兄が上京して使わなくなった広く、どことなく色気の香りが残る部屋を手に入れた。そこに性欲が徐々に纏わりついてきた。



■高校一年生

だが、まだ高校一年生の初めの頃は純粋な恋をしていた。付き合った期間が短すぎたが。1人とは一週間、1人とは一か月で付き合いが終わった。一週間の子には、パソコンルームに入る時にスリッパを用意してあげた。皆の前で。その姿が痛々しく映ったのだろう。その後すぐに振られた。

一ヶ月の子とはデートをした。初めてディープキスなるものもした。ただ壊滅的にデートがつまらなかったのだろう。そして私服がダサすぎた。ダサい服を着た男と、恐竜の映画を見て、対して話も盛り上がらず、おまけにキスまで慣れていないときちゃあ、そりゃあ振られるのも仕方ない。


その二人との付き合いが終わった後、完全に性欲に支配された。


中学の時の友人に紹介してもらった、隣の学校のギャルを部屋に連れ込んだ。あれは高校二年の夏だった。部屋ですることは一つしかなかった。二人は見様見真似にし始めた。

いざ交わらんとした時、重大なミスを犯していたことに気づく。ゴムを用意していなかったのだ。ゴムを売っている場所なら知っていた。近くのゲームセンターの前の自販機で売っていたのを認知していた。だから急いでゴムを買いに行ったが、爽やかに照らされた空の下に出ると、もう2人共にそういう気分ではなくなっていた。伸二の童貞卒業とはならなかった。

童貞卒業の仕方も全く誇れるものでない。

同じく高校二年の夏、この時伸二はモバゲーにハマっていた。モバゲーでアバターを作成し、知らない人とチャットをすることができた。ある女性と意気投合した。彼女の名はマヤ。マヤはシングルマザーの24歳。高校生の伸二からすると憧れのお姉さんだ。最初はチャットでやりとりしていただけだったが、自然な流れで会う約束をした。

マヤは三県も向こうの所に住んでいたが、電車を乗り継ぎマヤの住む街に行った。顔も知らなかったが、想像していたような綺麗でどこか儚さも兼ね備えた女であった。それから、どこをデートするわけでもなくすぐにマヤの家にいった。この日はマヤの子供は留守だった。(どこに預けたとか深いことは聞かなかった)

マヤには正直に自分が童貞であることを伝えていた。だからマヤは優しく仕方を教えてくれた。途中までは丁寧に教えてくれていたが、高校生のみなぎる性欲に途中からマヤはただ快楽に溺れているようにみえた。あの件もあったのでゴムも一応用意していた。だけどマヤはピルを飲んでるから、ナマでいいよ。という。

伸二は責任など取れないのに、もし子供ができたら一緒に育てるからと、一丁前にかっこつけた。そしてマヤの言葉に従い、ナマで交わり童貞を卒業した。こんなものかと感じながら、マヤが何度も求めてくるので、何度もイキは出して突いてイキは出して突いた。

これが伸二の童貞卒業した日だ。好きな人と愛しあいながら童貞卒業するもんだと思っていたが、伸二は欲望のまま、童貞を捨てた。

マヤとはその日以来会っていない。

それ以降、性に狂ったかというとそうではなかった。その後の高校生活では誰ともすることはなかった。その後付き合った彼女がすることを恐れたからだ。部屋でキスや交わる前まではするが、それ以上はしなかった。



■大学生の伸二

高校3年間でも結局したいこと、将来の夢ってやつは見つからなかった。それでも勉強はそこそこにしていたので、浪人することなく大学に入学した。関西の大学だ。改札機が無いような田舎に住む伸二にとって関西は大都会だった。しかも大学自体は自然に囲まれた場所にあり、なんだかしっくりきた。ここに来るべくして来た感覚だった。

大学は化学科だった。そして高校一年生の時の歌合戦の思い出が忘れられなかったので、学園祭実行委員会にも入った。

入学当初、何個か新歓に行った。新歓で2人の女と出会い、同じ学科で1人の女と出会った。そして同時期に言い寄られる。所謂モテ期というやつだ。

3人共と遊んだが、伸二の心は決まっていた。学科の女だ。名をカヤと言う。カヤとは大学生活のほとんどを共にした。すぐに付き合いだし、三回生の途中まで付き合った。カヤも下宿していたので、自然と半同棲のような形になった。

カヤの束縛はきつかった。女と連絡先を交換することはもちろん許されなかった。男と遊んでも不機嫌になった。聞く音楽や趣味にも制限をかけられた。それでもそれが心地良いと感じるほど伸二はカヤに惚れていた。

そしてすぐにカップルの関係では無く、共依存の関係になった。

この時から伸二は浮気をするようになる。1回目の浮気でバレていれば良かった。だが浮気はバレなかった。それに味を占めて2度、3度と浮気を繰り返した。

罪悪感も無かった。

親友のサトシが平然と浮気をしていたように、兄が部屋に女を連れ込んでいるように。むしろそこにやっと辿り着けたと誇らしくさえ思っていた。

阿呆だ。

浮気はバレなかったが、すぐに報いを受ける。カヤも浮気したのだ。そしてそのまま捨てられた。

伸二の心のどこかが少しずつ欠落していった。

目に見えて無くしたものは友達であった。カヤのことばかりに必死だった。気づけば学科に友達は1人もいなくなっていた。休み時間に話す相手もいないので、わざと少し遅刻して授業に参加して、終わればすぐに図書館に逃げこんだ。惨めだった。



■大学4年生の伸二

大学四年生になり、研究室への振り分けがあった。伸二は田中教授の研究室に入った。田中教授は他施設での研究も受け持っていた。そしてそこで研究してくれる人員を募集していたので、伸二はすぐに手を挙げた。

伸二はいつもそうだった。

解決できないくらいに、問題が絡まってくると、全てを投げ捨てて逃げる選択を取る。逃げる癖がついてしまった。それでもこの時は逃げるしかなかった。もうこの街には何も残っていないと考えてしまっていたから。

そしてその研究施設がある大阪に引っ越した。その研究施設自体は神戸寄りの所にあったのだが、まだ授業や学園祭の準備のために大学の方にも行かないといけなかったので、交通の便が良く、住むのにもオススメと言われた江坂に新天地を構えた。

大阪のええとこ、そこが江坂やで。

と誰かに言われたのを今でも覚えているし、実際江坂は良い場所であった。御堂筋線もあるし、少し自転車で走れば新大阪駅までもすぐだ。だからその気になれば、どこにだって行ける街、それが江坂だった。


そして伸二は新大阪駅の近くのカフエでアルバイトをし始める。これが伸二にとって初めてのカフエでの仕事だったが、カフエで働くことは伸二の天職であった。

当時は珈琲が特別好きな訳では無かった。だけど珈琲と煙草の香りが混ざったあの何とも言えない匂いが好きだった。文豪達が嗅いだ匂いを体験できているのが嬉しかったし、香ばしくて苦い香りが好きだった。その中で仕事をし、そして目の前でお客が喜んでくれる様がなんだか嬉しかった。

彼ら彼女らは伸二が組み立てたサンドイツチを食べ笑顔になったのだ。自分が作り出したもので人が喜ぶ姿に感動した。だからカフエで働くことはとても居心地が良かった。

ただ伸二にとっての問題があった。

カフエには女が沢山いた。

この時伸二は研究室で出会った女と付き合っていた。天真爛漫を具現化したような女だった。名をモエと言う。今になればわかるがこの時期の伸二は振り回されるくらいの女が好きだった。巧みに心を揺さぶってくるモエに、どんどん夢中になっていった。

時たまこちらに向き合って愛を与えてくれるのが嬉しかった。

しかしだいたいが不安で満たされない。モエは悪気もなく、今日は他の男と遊んでくるね、と言うような女であった。

だから、だからと言い訳をして、伸二もカフエの女と浮気をした。モエのことを相談しながらも、そのままその相談相手の女と一夜を共にしたこともあった。満たされない思いを満たそうとして、心の何処かの部分を自ら削っていっていた。

モエとはしばらくして別れた。モエはすぐに他の男と付き合いだした。だが何故か江坂に越してきた。狙いはわかる。江坂には都合の良い男、そう伸二がいたからだ。案の定モエが寂しい時にだけ呼び出された。伸二も利用されているとわかっていたが、断れるほど強くなかった。

こうやって女関連は破綻していったが、この時また友情関連は復活していた。

少しだけ話が逸れる。四回生でなんとなく就活していた時だ。高層ビルでテストを受けていた。その時ビルがぐらっと揺れる気がした。テストを受け終わってスマホ(この時携帯からスマホなるものにグレードアップされていた)を開くと、親から地震あったけど大丈夫か?とのメールが入っていた。この程度の地震でどうしたのかと思って、家に帰り、テレビをつけるとそこにはドラマでも有り得ないような惨たらしい映像が流されていた。そう東日本大震災だ。親は伸二が東京にでも就活しにいっていないか心配してくれていたのだ。関西にいる伸二にとっても他人事ではなかった。現に後輩がちょうどその時あの津波で流されている飛行場の空港にいたからだ。

沢山の人が沢山の動物が沢山の心が死んだ。

同じ年、祖父も亡くなった。

初めて人間が焼かれて骨になる所を目の当たりにした。

初めて人間が死ぬというのはこういうことなのかと体全身で理解した。


そんな年だったので、就活をするのは辞めた。元々大学院に進学するか迷っていたからだ。この時もまだしたい事すら見つかってはいなかった。


■大学院の頃の伸二

そして大学院に進学した。同じように同じ研究室の3人の男が大学院に進学した。その3人とひと時の青春を謳歌した。大学院に進むと学会に参加する事も多くなる。その度に東京に行った。半分以上は旅行気分だ。旅を通じて、団結力は増していった。合コンなるものも何度かした。

そんな3人のうちの1人、リョウと特に仲良くなった。リョウの家にはよく遊びに行った。リョウにはモエのことも相談した。その後の就活でも励ましあった。(震災を避けて2年経った時リーマンショックが起き、結局就活は大変なものだった。皆なんでや!と世間につっこんでいた。だがその分、より団結し、励まし合って前に進んだ)

およそ時を同じくして伸二を含め4人共が内定をもらった。一番遅かったのはリョウだった。リョウの内定が決まった時に4人で呑んだビイル程美味しいものは無かった。忘れられない味。青春の味だ。

その後リョウと伸二だけが東京の会社に勤めることになった。(後の2人は関西で勤務が決まった。)その時の東京は見知らぬ地だったので、親友が同じ地にいてくれるだけで心強かった。


■社会人の時の伸二

リョウも伸二も営業職だった。伸二は医者や看護師に医療情報を伝達する所謂MRという仕事に就いていた。リョウは営業に向いていた。ひょうひょうとしているが憎めないその性質を発揮し、先輩からも顧客からも愛されていた。

一方の伸二は営業に全く向いていなかった。カフエのように、沢山のお客と短い話をするのは得意だった。それで人と話をするのが得意だと伸二自身も勘違いしていた。だが伸二は根本的に人と長く話をするのが苦手だった。その事に気づいた時はもう遅かった。どんなに上手くやろうとしても顧客との話が続かない。続かないから話をしにいくのが嫌になる。成果も上がらない。それどころか仕事が無い。事務的な話をするだけなら10分あればその日の仕事が終わってしまうことがザラにあった。だけど、それでは上司に怒られるから相談もしなかったし、誤魔化した。空いた時間は何処かの駐車場やデパートの屋上でただ眠りについた。そうやって自尊心がどんどん無くなっていった。仕事ができない自分のことを憎み嫌った。

リョウにすら打ち明けられなかった。恥ずかしかったからだ。伸二は大手と言われる会社に勤めていたから、リョウも伸二は立派に仕事しているんだと信じてくれていたからだ。

ちっとも仕事できないんだ、どうしよう。

この一言を誰かに言えていたら、また違った人生になっていたはずだ。

だが実際にはリョウにもその時の彼女にも同期にも親にさえも本当の悩みは相談できなかった。誤魔化し、逃げ、心が擦り減り、変わりに邪悪な心が纏わりついた。

その結果、伸二はこの時、一生償っていかなければならない罪を犯す。

その時の彼女の名はアヤカと言う。研修先で同期の紹介で知り合った。研修先は新幹線で何時間か揺られて辿り着ける場所であった。初めての遠距離恋愛だ。

この頃の伸二は最早浮気が悪いことなどと思えなくなってしまっていた。当然の如くこの時も浮気していた。その浮気相手とはリョウが開催してくれた合コンで知り合った。

その時のメンバーはリョウと伸二、そして浮気相手のマコ、そしてカエ。

リョウも浮気性だった。リョウの浮気相手がカエだった。

伸二の浮気相手のマコは看護師を目指す学生であった。浮気相手ということを除いてマコは素晴らしい人間であった。伸二の誕生日にはサプライズケーキを用意してくれた。病気になる前の段階で人を救いたいんだ。と強い意志も持っていた。

ある日急にマコが家に来た。

他愛もない話をし、テレビで映画を観、いつものように行為に及んだ。

だが挿入しようとした瞬間にマコが急に泣きだした。

伸二は困惑した。

そしたらマコが泣きながら答えた。



今日お母さんが死んだ










時が止まった。



頭の中がぐちゃぐちゃになった。

お母さんが死んだ??

お母さんが死んだのに俺に会いにきたのか?

なぜ?なぜ?なぜだ?なぜ俺なんかのところに来た?

お前は、お前、お前は俺に何を望んでいるんだ

そして伸二はマコを優しく抱きしめるどころか、冷たく突き放してこう言った。

帰れよ。

背中越しにそう言ってマコを追い出した。

それだけでもマコの心をズタボロに傷つけたのに、伸二は追い討ちをかける。

次の日伸二は仕事に行けなかった。沢山の闇が伸二に覆い被さり起き上がることができなかった。

そして鬱になった。この鬱になったのを全部マコのせいにした。

マコに電話し、

「お前のせいで俺は鬱になったんだ。会社も辞めることになるだろう。お前のせいだ。どうしてくれるんだ。」と。

伸二はその時、人を殺した。マコの心を殺したのだ。

マコは

ごめん。。。


とだけ言って電話を切った。

同じ電話で親友のことも裏切った。

「リョウがカエと浮気してるのを知っているのか?リョウには彼女がいるんだぞ。リョウは最低な男なのを知っているのか!!」

と叫んでいた。

それだけでは終わらない。彼女のアヤカにはこの一部始終を隠し、そして鬱になってしまったから少しだけ療養したいと言い部屋に転がり込んだ。アヤカは献身的に尽くしてくれた。そんな献身さにイライラし、ひと月程で自分のアパートに戻った。

そしてアヤカも必ず見るであろうSNSを通じて、

俺が愛したのは大学時代の彼女だけだ。あの時だけが幸せで、今は全くもって幸せではない

と発信した。

その後すぐにアヤカから泣きながら電話がかかってきた。

「今日の投稿見たよ。私は伸二が浮気してるのも知ってたよ。鬱になったって支えていきたいと思ってた。でもこの投稿はひどいよ。もう無理だよ。」

アヤカの心も殺した。

2人の女の心を殺し、1人の親友を裏切ったのだ。

どんなことをしても許してなど貰えない罪を犯したのだ。

人間、失格。

そんな罪を犯してしまった罪悪感が更に伸二自身の心に重くのし掛かった。


ふとサトシとの会話を思い出した。

パンドラの匣。

この世の全ての災い、病苦、悲哀、嫉妬、貪慾、猜疑、陰険、飢餓、憎悪などが詰まった匣。

ああ、俺はあの時、マコに帰れよ。と言った瞬間に、パンドラの匣を開けてしまったのだな。

全ての災いを纏ってでも生きていきたいと、中坊の俺は言ったが、なんてことを言ったんだ。

パンドラの匣を開けて迷惑を被るのは自分ではなかった。周りにいる人達だ。

パンドラの匣を開けてしまうような迷惑な奴は死んだほうがマシだ。


だけど伸二は死ぬ勇気さえ持ち合わせていなかった。死ぬことができないから、死んだようにして生きた。誰にも気づかれないように。夜にこっそりと起き、たまにコンビニに行き数日分の食料を買い込む。そしてただ食べ、寝る。その繰り返し。

ある時、いつものようにコンビニで買い出しをした帰り道に、警察官から職務質問された。

「すいません、お話よろしいですか」

ビクッ。伸二の体は硬直した。

「、、、はィ、なンでしヨうか」

「身分証を確認させていただいてもよろしいでしょうか」

「、、、ハえ、どオヅ」

警察官は伸二の免許証に移った顔と伸二の顔を見比べ、どこかに連絡して何かを確認している。何を確認しているというのか。伸二という人間がこの世に存在しているのかを確認しているのだろう。

居ないと言ってくれ。そんな人間はこの世にいない。お前は誰だ。身分もわからぬお前など牢屋にぶちこんでおこう。と言ってくれ。

そう願ったが警察官の答えは

「はい、身分証の確認ができました。こんな夜中だと物騒ですからね。早く家に帰ってくださいね。」

だった。

その後、なんとも言えぬ絶望感が襲ってきた。こんなにも姿を闇に溶け込ませようとしているのに。死んだように生きているのに。

確かに俺はここに、この世に存在してしまっている。

そのことが憎い。悪い。罪い。

外灯や都会の空に薄っすら光る星も憎い。誰にも気づかれたくないのに。

暗黒に染まれるはずの夜闇なのに。

なぜお前たちはテラス。なぜ一方的にまだそこに「希望」があるよと照らすのだ。

陽光底光。

陽の光をどんなに避けても闇の底にも光がある。

どんなに闇に潜ろうとお前を逃したりはしない。 

陽光底光。

どこへ行っても俺を照らし続ける「希望」の光。



辞めてくれ。

もう照らすな。

やめてくれ、、

、、、ヤメテクレヨ



そうやって嘆き、憂い、昼夜逆転の生活を繰り返しながらも、生き続けた。

しばらくすると考える力は戻ってきた。それにカネも底を突きかけていた。このままでは駄目だ。働かねばいけない。しかし親にもこの状況を報告していないから実家に帰るわけにもいかない。

そうやって表面上ではあれこれ考えるのだが、問題の確信部分からは逃げ続けた。

そして「夢」を盾にして東京に居座ることを決めた。偽りの夢だ。

将来自分の喫茶店を開きたいんだ。という偽りの夢だ。

聞こえは良い。だからそれを聞いた人たちの中には関心してくれる人すらいた。

それに東京には同じように「夢」を盾にして現実から目を背けている同志が数多くいた。

なるべく考えることをしたくないから朝から晩まで働いた。朝の5時には起き、一つ目のカフエで働き、そのまま次のカフエで23時まで働いた。夜ご飯は帰り道のコンビニで、疲労回復に良いと何かで見たから、グレエプフルーツジュウスとパンかおにぎりを買った。それを帰りながら食べ尽くし、部屋に着くなり、死んだように眠りについた。そうやって必死に考えることから逃げ続けた。

夢を盾にしている時にカナダにも一年程行った。(ワーキングホリデー、ワーホリってやつだ)喫茶店を将来したいからカフエの本番のバンクーバーで働いてみたい。もっともらしい理由で「夢」という盾はさらに強固なものになっていった。確かに得たものもある。だが問題から逃げ続けているから、根本的な解決にはならなかった。当時大麻が合法化間近のバンクーバーにおいて、大麻は合法なんだぞ、と訳の分からぬ理由で大麻を吸っていた痛いニッポン人と同じ、もしくはそれ以上に痛い奴に成り下がっていた。

だから海外から戻って就いた仕事もすぐに辞めてしまった。

また絶望感が襲ってくる。

だがこの時やっと

やっと

やっと人を頼ることができた。

やっと母親に電話し、

「実家二帰ツてィいかナ」と尋ねた。

母親は理由も聞かずに、

「帰っておいで。」

と言ってくれた。

実家に戻っても、まだ考えることから逃げていた。しかし何かを取り戻したくて、愛に満ちたホームドラマ、フルハウスやフレンズを何度も観た。

そしてある時、少しだけ顔をあげると、あの高校の時にもらったコーチからのメッセージが目に飛び込んできた。

お前は素晴らしいものを持っている。だから自信を持って歩んでいって欲しい。

その言葉が心を揺らした。そのあとも感動する映画や、大学の時の彼女の結婚報告に心を揺らした。

そしてやっと

やっと

やっと自分の問題の本質と向き合った。

伸二には夢などなかった。それなのに、いつの間にか良い大学に入って、良い会社に入って、それなりの人生を歩むことが目標になっていた。

だけど悔しいが仕事は全くできなかった。

仕事ができずに鬱になっただけなのに、それを人のせいにした。

弱い。

弱い。そしてクズだ。

浮気がカッコいいだなんて考えているクズだ。

自分が弱っている時は平気で周りを傷つける。

クズだ。

そんな弱い自分を認めずに、夢などを盾にして逃げ惑うようなクズだ。


初めて自分の弱さと真剣に向き合った。

これまで流したことのないくらいの量の涙が流れてきた。

伸二はこの時自殺した。それまでの上っ面だけの、見栄だけの、ねじ曲がった価値観の自分自身を殺したのだ。




そこから少しずつだが伸二は変わった。

変わったではないな。変えてもらった。

2人の女性の心を殺してしまって以来、伸二は誰かを愛することも愛される資格も無いと考えていた。

そんな考えを台湾からきた彼女が変えてくれた。伸二にもう一度本気で恋をすることの大切さを教えてくれた。

とんでもなく大きな愛情にも気づけた。実家に帰って三年間、母は何も言わずに、ただ伸二のために朝も昼も夜もご飯を作ってくれた。

後に嫁になるミグが会食している時に母に尋ねた。

「三食も毎日ご飯作るの大変だったでしょ。」


母は微笑しながら、

「大変だったけど、

私が伸二にしてやれることはそれしかなかったから。」

と述べた。

言いたいこと、聞きたいことも沢山あったろうに、そんなことを押し隠して、ただ伸二の回復を願って献身的に支えてくれていたのだ。思えばいつだってそうだった。母は伸二に何をしろと言ったことはない。ただ信じて、見守り続けてくれたのだ。

こんなに大きな愛情が近くにあったのだ。

伸二は今でこそ、優しい、天使だとまで言われるくらいの人になった。だがそれは母から受けた愛情を、皆に与えているだけなのだ。

父親にも触れておこう。大変な時に単身赴任していた父親だが、父親のことも尊敬している。どんなに忙しくても週末は帰ってきていた。受験などで人生の岐路に立った時には真剣に話を聞いてくれた。そして何より母親とずっと仲良しでいてくれた。しかも年を追うごとに益々仲良くなっていった。その姿を見せてくれた。その姿を見て、夫婦とはいいものなんだということを、伸二に教えてくれたのだ。

そして伸二には今、最愛の妻がいる。ミグだ。マッチングアプリで知り合った。(ここで海外に行っていたことも役立った。海外ではマッチングアプリを使うのが当たり前になっていたから、伸二もなんの抵抗もなくアプリを使うことができたのだ。)

マッチングアプリで出会ってよかったと思っている。上手く言えないが、内の人間関係ではなく、外の人間関係からやってきたミグだからこそ、新しい風を伸二にも伸二の家族にも吹かせてくれているからだ。(母親の愛情に気づけたのもミグのおかげだ。)

ミグの魅力は素直なところだ。それなのに自分の意思も持ち合わせているところだ。素直だから、伸二の愛情も真っ直ぐに受け止めてくれる。自分の意思も持ち合わせているから、伸二の誤った考えも訂正してくれる。

愛の素晴らしさを日々教えてくれているのだ。

伸二はまだまだ欠落している部分も沢山ある。

妹の結婚式で心の底から祝福できず、むしろ金目当ての神ぶった神父に怒りさえ感じてしまう程、ねじ曲がった感情に支配された。(その後ホテルの浴室で、まだ自分にはこんなにも欠落している部分があったんだと号泣した)

noteをし始めても、固く決めていたはずのルールを破り邪に染まった。(このルールとはネガティブな記事を自ら読みに行かないこと。テラスハウスの木村花さんの死に自らも加担してしまったから作ったルールだ。花さんのことを悪く言っているツイートなどを進んで読もうとしていた。そんな悪意にまみれた醜悪な文字を読んで、いいね!する奴がいるから、またどこぞの誰かが、花さんのことを悪く言う。その悪循環のサイクルに加担してしまい、人を死に追いやったのだ。だからネガティブな記事を自ら読みに行かないと決めたのに、また読んでしまっていた。)

そして犯した罪は決して消えない。その人達には直接謝罪もできない。

だけど、だから、だからこそ、伸二は生きている。

罪を償うために、受けた愛情を返すために、

心が欠落してようが、邪悪に染まろうが

伸二はこれからも生きていく。

そして誰かの想いの意思を受け継いでいく。

そうそう、パンドラの匣の逸話には続きがあった。

パンドラの匣を開けこの世の災いが全て解き放たれた後に匣に残っていたのは「希望」だったらしい。

この「希望」。自ら死にたいと思っていた当時の伸二にとっては、残酷なまでに眩い光であった。

「希望」があるから、死にたくても死ねなかった。

だけど「希望」があったから、死なずにすんだ。

今、死にたいと思っている人にとって、この「希望」は本当に残酷なものだろう。

だか「希望」は決してあなたの敵では無い。

その事に気がついてもらえるような、文を、言霊を、伸二はこれから、書き、叫び続けていくと決意している。


※登場人物の名前は架空です。物語の大筋はたまごまるが経験してきた事だが、多分に着色しております。


あとがき

この小説は太宰治さんの人間失格を元に自分のこれまでの人生を書き示したものである。人間失格の一番の功績は、こういう人がいても良いのではないか。ということを世間に問うたことだと思う。太宰治さんが生きた時代は今よりもっともっと、人と違うことが罪だったはずだ。だからこそ人間失格になるくらい、人と違う人間もいるということを示すことが、当時、自分はなんだか周りと違っていて苦しい、と思っていた人々の「希望」になったのではなかろうか。

僕もその想いで書いている。僕もかつては人間失格の烙印を押されても仕方ないくらい迷走していたし、今も欠落している部分が沢山ある。

それでも生きている。だからあなたも生きてほしい。

そして僕が言えなかった、最近仕事全然うまくできなくてさあ、とかの類の弱音も吐いてほしい。

僕は僕にできる範囲の愛情を与えていきたい。


あとがきのあとがき

noteの長期休暇に入るころにはこんな長編小説を書こうとなど思ってもいなかった。ただ邪に染まった心を正常に戻したかった。休む宣言をした後に、何人もの人が「希望」の光を僕に届けてくれた。その中の1人に走れメロスを元に僕へのエールを送ってくださった方がいた。それがピスタチオさんだ。その記事に感動したのと同時に、走れメロスに関心を持った。そして走れメロスをいつぶりかに読むと、今度は太宰治氏のことが気になった。そしてそういえば人間失格という小説好きだったな、今読んだらどんな感情になるのだろうと読み始めた。読み始めると今の僕の心情、これまでの人生が人間失格と重なり、僕も同じような手法で書いてみたいと思った。

絶対的にピスタチオさんのあの記事がなければこのタイミングで人間失格を読むことなどなかっただろう。

本当に不思議である。

人間に疲れて休んでいたはずなのに、人間の行動によって癒された。

行動のきっかけになるのは、いつもどこかの人間の行動だ。

太宰治氏も沢山の罪を重ねてその償いの答えを探していた。罪の対義語は何かを探すことによって。

では人間失格の対義語は何か。

それは人間合格だ。

では人間を合格するとは何なのか。浮気をしないことか。罪を犯さないことか。酒や薬に溺れてしまわないことか。自殺しないことか。

どれも違う気がしてならない。

人間、浮気してしまう、罪を犯してしまう、酒や薬に溺れてしまう、自殺してしまう。

人間は皆、人間失格の烙印を一度は押されている。その烙印があるからこそ、人間は人間に寄り添えるのではなかろうか。


終わり





















ここまで読んでいただきありがとうございます。