営みの建設

薄暮 -成-

快然たる新春の空気を、気の済むままに思いっきり吸い込めたらどれだけ最高だろう。
六歳頃から花粉症の僕は、五月に入るまでフゴフゴと悶えることしか出来ずにいる。
黄緑の瑞々しい新芽たちが日の光に向かって伸びるのを見ると、ああそれはどれだけ気持ちが良いだろうね、と羨ましさで震える。

この前ニュースになっていたけれど、花粉症患者はそうでない人たちに比べてガンの罹患率が半分ほどだとかいう研究結果が出たらしい。僕は過去に八年間ほどタバコを毎日二箱吸っていたことを加味した場合、プラスマイナス勘定で言えば一体どっちなんだ。

紙に書き出して計算でもと思ったが、酒もタバコもやらず、家系にガンで亡くなった者すらいない祖母がガンになってしまった事が呼び起こされ、途端にばかばかしくなった。

この祖母は、僕にとって存命している最後の祖母である。

彼女の夫、つまり僕の祖父は生前難病を患っていて、僕が産まれる二週間ほど前に亡くなってしまった。
祖父は小さな町工場を経営しており、彼の亡き後、代役として祖母が全国を営業で回り歩いたと聞いた事がある。
それ故なのか、気が恐ろしく強い。小さい時に何度か怒られた事があるが、キッと鋭い視線で刺された時は生唾が喉を通る音がはっきりと聞こえた。

祖母は孫たちの中で不思議と僕の誕生日だけを覚えている。亡き祖父の生まれ変わりだと信じていると聞いた事もある。

しかしながら、僕には会社を経営しながら大学に通って学位を取得した祖父の勤勉さや忍耐力はないし、葬式に五百人以上も参列したという人望もない。

強いて言えば顔つきが孫たちの中で最も似ているくらいで、祖父と比べられちゃ何一つ取り柄がない。

とは言いつつ、祖母からの重圧が苦しかったことは一度もなく、期待すらされた事はなかったように思う。

一般社会的に優秀な部類に入る親戚一同と、そのコントラストに自分で書いていてもおかしくなってしまうくらい絵に描いたような落ちこぼれの僕を祖母は決して比べたりせず、ただ襟を正すようにと諭すばかりだった。

決して優しい言葉を並べたりはしないけれど、ぶっきらぼうでも無条件の肯定がそこにあるだけで救われた日が少なからずあったように記憶している。

今年の頭に一世紀以上ご愛顧いただいた会社を閉業するまで、祖母はほぼ毎日出社していた。
家族経営というのは実際にその渦中にいると、陰湿でどろどろした人間ドラマの連続だから、その恩恵を自覚しにくいものだったりする。祖母を毛嫌いする親族も当然いたし、夕食時には母から嫌というほど愚痴を聞かされた。

ただ僕には、祖母は祖父が残した唯一の忘形見である会社をがむしゃらに守り続けているように見えた。いや、祖父が亡くなった後で、時が止まってしまっただけのことかもしれないが。そこには誰も見たことのない、悲しい背中だってあったに違いない。

祖母がまだ近くに住んでいた時の、どうしようもなく散乱しきった部屋の様子を忘れられない。
前を進むためにその他多くを諦めてきたのだと今なら分かる。

「諦め」と聞くとどうしても否定的な文脈で捉えがちだが、諦めたことで身の振り方を改めたり、反対に諦めたくない事に対しての覚悟が定まったりもするよな、と思う。決して敗北宣言なんかじゃないぞ、と。

諦めきれず手放せないものが多すぎると、いつかは許容量を超え、重荷となって自分の首が締まっていく。

幸福になることだけが目的なら、いっそ手放すものが多ければ多いほど容易いとすら思うが、人間は飽きっぽく、しかも欲深い。
同じ状態が続くと、例えそれが満ち足りた状態であったとしても今度は訳もわからないまま正反対の状況に傾いてみたくなったりすることだってある。

父方の故郷に住んでいた最愛の祖父母が2020年〜2021年にかけてパタパタと急逝し、初めて経験した身内の死に、意外と重たい悲しみに包まれもせずゆっくりと捲るように新しいページが開かれたような感覚を覚えた。

その体験は、刻一刻と自分が死に向かっていること。
そしてその事に悲観しているわけでもなく、全貌の分からない「死」についての受容が始まっていることを示唆していたのではないか。

僕とそう年齢が変わらずして、いつ死んでも満足だと迷わずに言い切る人達が稀にいる。
こういう人たちというのは頭の中で諦めることと諦めないことの線引きが若い頃から出来ているのではないか。
自分が全力で走りたい方向を早い段階で決め、あるいは決められて、そこに全てを掛けてきた。良くも悪くもその結果に満足しているからこそ、例え今死んだとしても悔いはない、と。

こういう潔さに多くの人は惹かれるし、自分よりも実りある人生を送ったのだろうと安易に比較しがちだが、結局は無い物ねだりに過ぎない。道草を食うことに全力だった人生でも、それは必ず誰かにとっての青い芝生なのだし、指をくわえて羨ましそうに眺めている人らが対岸にいる。

僕は諦めずにもがいてもがいてぐちゃぐちゃになって、それでも報われなかった物語の主人公たちを愛していて、僕自身そういうルートを歩んでいる気がするから、どっちが良いかという問題では決してない。

ただ、小さくなりつつある祖母の背中を見て、そろそろ背負った荷物の整理をしなければならないなと思った。

祖母に手を引かれながら会社の屋上まで登り、一緒に見た富士山は、祖母の胸にまだ残っているのだろうか。


夜半 -玉-

「新しいアトリエに越しました」と連絡が来たのは、人びとが花見を催しては雨に憚られてを繰り返し、気がつけば桜が散り始めた頃だった。

連絡をよこしたオサさんは服を作っているひとで、一度仕事で会ってからというものの、物事への眼差しや、人柄の温度感が心地よくて、何度か連絡を取っていた仲である。会おう会おうと言いながら叶わないでいた彼の新天地は、これがまた僕の近所だったもので、まだ寒かったけれど薄手のジャケットを羽織って家を出た。

よろよろグーグルマップを見ながら進み、突然のチャリンコベルに驚いて振り返ると、この一帯を根城とする子ども暴走族が、まるで僕など風景であるかのように通り過ぎて行った。ここが住宅街であることを思い出して少しだけ頰がゆるむ。それでまた前方を向き直すと、もうそこが家の垣根だった。門から覗くだけでも分かる、大きな庭を有する一軒家だ。

それは、母方の祖父母の家によく似ていた。門から玄関まで続く不恰好な飛び石や、草葉の陰に隠れてきらめく蛇口、その淵からぽつぽつと落ちてゆく水滴、それを受けて波紋が広がる使い古した水瓶まで、幼少期に過ごした祖父母の家にそっくりで、暫くのあいだ見惚れてしまった。

ようこそ、と縁側から身を乗り出したオサさんは、そのままサンダルを履いて庭に出てきた。この植物に囲まれた家に越してから、今までにないほど植物や虫に興味が湧き始めたようで、庭の景色を構成している木々、一本一本の名を教えてくれた。

得意げな表情をしている彼の、手元のスマートフォンに目をやると、木を捉えた画像の上から、手書き機能で「サルスベリ」とか書いてある。どうやら、庭師が来たときに一本一本教えてもらいながらメモしたらしい。植物よりも画面に踊るメモの丸みが可愛くって、また頬をゆるませていると、オサさんが何かの木の根元に咲き乱れた薄紫の花を指差した。

「小さな花までは教えてくれなかったから、これから名前を考えるんだよね」

そのときに感じた、心に吹く風のようなもの。その正体を知りたくて顔をしかめる僕をよそに、向こうのスペースは畑にするつもりなんだよね、と彼は無邪気に笑った。

オサさんに会った数日後、「カナルタ」という映画を見た。 エクアドル南部の熱帯雨林に住むシュアール族は、スペインによって植民地化された後も武力征服されたことがない民族として知られている。この映画は、セバスティアンとパストーラという夫婦が暮らす集落を訪ねた日本人監督が、彼らと自然との生活をカメラに収めたものである。

映画は、イモに似た植物を咀嚼したパストーラが、それを「ブー!」と霧吹きの要領で鍋に吐き出し、その唾液によって酒を醸成するという衝撃のカットから始まる。衝撃とは言っても一瞬の生理反応でしかなく、口噛み酒の文化も知識としては持っていたものの、チチャと呼ばれるその酒をセバスティアンが大きなバケツで吞み下すところまで見せられると、僕も生唾を飲み込まずにはいられなかった。

その後も文化的・視覚的に新鮮な映像が続くなか、また心に風が吹くような瞬間があった。それは、集落の人びとを呼び集めて、草刈りをしているシーンだったと思う。

チチャを回し飲みしながら、雑談に耽るシュアール族の面々のうち、ある男性が酔った勢いでセバスティアンに冗談を飛ばした。それは確か、「お前は父親の魂も食っちまったんだ!」というような発言で、僕の笑いの琴線に触れるものではなかったが、あろうことかこの冗談で一族に爆笑の渦が巻き起こり、それから体感1分以上も笑い続けていたのである。

途中からラフ・チェーン見てるのかなってくらい不可思議な時間で、味をしめて何度も繰り返される「食っちまったんだ!」という言葉に、僕も終盤はつられて笑ってしまっていた。何しろこの世界観が、昔、親族が集まって酒を飲んでいるときの、何だか分からないことで盛り上がる大人たちの姿にそっくりだったからである。

当時も、母の実家に行っては「将来はじいちゃんを見習って大工か!」と言われ、父の実家に行っては「将来はじいちゃんを見習って先生か!」と言われ、まだ将来の夢など定まりもしない僕は、大笑いしている親族を見上げながら、みんなが笑っているのが嬉しくて笑った。

祖母の乳首をレーズンと間違えて思い切り引っ張った夜も、悲鳴を聞いて駆けつけた母が笑い出すと、祖母もつられて笑い出し、最後には僕も意味の分からないまま笑い出した。

これは、家族の笑いだと思った。先鋭化した言語の笑いではなく、何か非常にシンプルな冗談によって、笑い合えるという、実は僕もほとんど手放してしまった種類の笑いに思えた。

祖父母がまだ生きていた時代、子どもの僕は、いつも家族の笑いの渦中にいて、おそらく祖父母が子どもの頃も同じような笑いの中にいただろう。僕も、子どもの世代に、同じような環境が用意できるだろうか。そんなことを考えながらスクリーンを見渡す座席に座りなおす。

1分間ものあいだ映画館に鳴り響いたシュメール族の笑い声は、目を閉じて聞けばあの頃の親族の笑い声と何も違わなかった。

映画の終盤、森を歩き進むセバスティアンが、新たな薬草を発見する。その葉を大事そうに1枚だけ摘み取ると、手ですり潰したり口に含んだりして、効能があると判断したのち、こう呟く。

「なんと名付けようか」

あ、オサさんだ、と思った。

言語は世界を把握する上できわめて有用かつ重要なツールである。しかし、セバスティアンやオサさんは、自然に対する眼差しがそのまま言語の用い方に個性を与えている。知識としてではなく、家族として名前を知り、或いは名前を付けているのではないかと思う程である。

そして思えば、母方の祖父母はともに、地元の島に植生する植物ほとんど全ての名前を把握していた。もっと言えば、そのうち幾つかは島言葉によって記憶されていた。彼らも、畑と共に生き、森と共に生きた人たちである。

真っ青な空の下。夏の日差しが照りつける森に囲まれた大きな畑で、軽トラの荷台に乗っかって、僕が小さな手で頭上の繁り葉を指差すと、祖母が名前を教えてくれる。あの幹は、あの根っこは、と色んな植物に目が移っては指を差すたび、また祖母が名前を教えてくれる。

なんで分かるの、と驚く僕を見て祖父が笑う。それにつられて祖母も笑う。しばらくすると、なぜか僕も笑っている。

そのとき吹いた、風だった。


東雲 -流-

保守と聞くと、今の日本では自民党や右翼が連想されるだろうか。

実はその連想は保守主義の源流であるエドマンドバークの思想とはかけ離れている。

急に政治を語りだしたと思われるかもしれないが、個人やビジネスにも係わる「変革」や「変えるべきものと変えるべきではないもの」についての、ちょっとした思考の種のつもりで書いている。

保守の考え方は、VUCA時代(変動性・不確実性・複雑性・曖昧性の四つの英単語の頭文字から作られた)とよばれる現代で、ひとつの判断材料になると思ったからだ。

ただし、誤解されている思想の観点をあらめて整理するための言語化であって、保守主義のすすめではない。

では、エドマンドバークの思想とは何だったのか。

彼の思想の根底にあったのは、人間はみな不完全な生き物だという歴史観だった。

そこを出発点に考えるとき、特定の個人や集団が作る社会構造や革命のような急進的、抜本的な社会変革は大きな危険をはらむ。なぜなら、不完全な生き物が作るものは不完全である可能性が高いからだ。

そして不完全な変革は急であればあるほど、大きければ大きいほど、その影にある破壊や歪みもそれらに比例し、取り返しがつかない場合もあると彼は考えた。そこでバークが行き着いたのが、時の試練に耐えた伝統や慣習だった。

つまり、一時的に力を持った、あるいは持とうとしている特定の人間の知性や理性による変革をよしとせず、無数の人々の長い歴史の営みの中で形成された伝統と慣習こそ拠って立つべきものであるとバークは考えたのだった。

ただし、バークは王政の圧政や腐敗を容認したわけでも変化を拒んだのでもない。

過去を美化し新しいものを拒む懐古主義や、他を認めない原理主義と混同されることもあるが、彼の考えはそれらとは異なる。

むしろバークのとった保守主義の立場は、本当に大事なものを失くしてしまわぬために変えるべきものは変えようというものだった。その過程で歴史や伝統や慣習を参照しながら、時代の変化にあわせて柔軟に少しずつ変わっていく慎重さ、謙虚さを大事にしたのだった。

また、自分も含めてみな不完全であるという前提にたっていた彼が重要視したのが異論を含めた熟議でもあった。

さて、エコノミーの語源でもあり、人々が時代を超えて引用してき言葉にギリシャ語で家を意味する「オイコス」という言葉がある。

単に住まいとしての家を表すだけではなく、家族に代表される自然に形成された利害関係をこえる繋がりや関係性、その間に存在する精神性や共通認識といった概念さえもこの言葉は内包している。

古代ギリシャの人々はそのような目に見えにくい概念を総称してオイコスと呼び、深い人間関係の中で生まれる富とは別の資本を身近な家という物質的なものに関連させて名付けることで大事に守り、強く生きたのだった。

だからこそ論理や理屈の範囲外にあり、それゆえに人間が人間らしく生きるための重要な概念として多数の哲学者や思想家がこの「オイコス」というギリシャ語を時代をこえて引用してきたのだろう。

そしてあらゆるボーダーが取り払われる前の世界でそういった関係性や精神性、共通認識が形として顕著に現れるものに伝統や慣習、言葉があった。

なぜバークが伝統や慣習に行き着いたのか、その答えが少し見えてくる気がしないだろうか。

自由を愛したはずのバークが自由・平等・友愛を目指したフランス革命に懐疑的だったのは、その革命の抽象的で立派な理念の陰でフランスで長年培われてきたであろう人々の精神性や共通感覚、またはそれらの結晶である伝統や慣習が永遠に失われてしまうことに思いを巡らせたからである。

歴史上、合理的という点では初めて分かりやすく人間を凌駕するものが現れた現代において、それをものともしない意思や直感、関係性の重要性が増すことは必然であり、なんらかの示唆に思える。

冒頭に書いたように僕は保守主義者ではない。

しかし、守るべきものは何かを深く考えたうえで、大事なものを失わないために変わっていくこと。その過程の中で人間は間違いの多い生き物だという前提を常にもち、意見が異なる人たちと熟議しながら少しずつ進んでいく姿勢に共感が湧くことは確かだ。

VUCA時代。複雑性こそ増してはいるが、はじめからこの世に確実なものなどあっただろうか。万物流転、諸行無常である。

いっさいの既得権益の破壊、イノベーション、構造改革、技術革新、Fireなどの文字が踊っているが、立ち止まって目を瞑るとき、物語の先に浮かぶ顔はだれだろう。

外側に悪を探す旅はとうの昔に終わっている。その手その心で守るべきものは何か。それを曇りなきまなこで見定める旅をはじめたい。

ギリシャ、ローマ、ヨーロッパを越えて吹いてきた風を掴まえて、昇華して、また次世代に向かって吹かせられたらと思う。


この記事が参加している募集

多様性を考える

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?