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小さき私達の言葉(文)

昔、昔、ネットの世界にはBBSっていう掲示板があって、文字ベースで好きなことについて語り合える世界があった。

小さき言葉たちが、確かな言葉ではあるが、集まって小声で囁いてるような牧歌的な世界。

それが徐々に大きくなり2chみたいなものが生まれ、小さき言葉が集まるとそこそこに大きな塊になり、暴力的になることを私達は知った。

そしてSNS時代に突入して、文字、画像、動画を使い、双方向のコミュニケーションを取りやすくなり、より言葉がダイレクトになり、平和的なことや社会的意義のある成果が沢山出現した。

ポジティブなことも多くなったが、炎上という言葉が頻繁に聞かれるようになった。心なき言葉(文)に、自ら命をたってしまう人たちも現れ始めた。

不謹慎、反対、〜するべきだ、〜に違いない。どんどん強さをます言葉に麻痺した感覚が、さらに強い言葉を被せる。短い文章で、感情や意見の"隙間"を表現するにはテクニックが必要だから難しい。

そして文明が高度化するにつれて、ルールが増えて行くのは歴史を見ればわかる。

ルールは監視機能を持ち、安心安全と引き換えに、私たちはある一定の自由を差し出すことになる。それは息苦しさになり、息苦しさは不満や攻撃性に変化し、攻撃しやすい場所に出現する。

それがDVやイジメ問題、会社や組織、集団内のハラスメント、インターネットを使った炎上、執拗な集団文字リンチなどに繋がってるのは当然の話。

そしてコロナが来た。

コロナはとても閉塞的な世界を出現させた。私たちは外に出ることを推奨されず、歓迎もされず、仲間と対面で語り合うこともできず、電話やネット越しでコミュニケーションを取ることになった。それに比例し、ネットの文字、Lineなどの文字がさらに沢山打たれるようになり、文字が持つ言葉の強さはさらに大きくなってくる。

息苦しさはさらに増え、マスメディアを筆頭に監視を煽り(人々が潜在的にそれを求めてるのが原因だが)、超不寛容社会が出現した。

東日本大震災の時の東京に感じた以上の、さらに数倍の暗い雲を感じる。

私は東日本大震災の時まで、Twitterが面白くて一生懸命使ってたが、震災以来、あまり呟くことも読むこともできなくなった。理由は、短い文章のもつ断定的な危うさを、自分が扱えきれないことを恐れ、億劫になったからだ。

不寛容さって必ず自身に返ってくる。

今日のあいつは、明日の自分だと考えた方がよい。

私も含めて、小さき言葉はSNS等のおかげで、ムーブメントにさえなれば大きな場所も届きやすくなったし、オリンピックや数々の炎上案件を含めて、その言葉が届いた結果だろう。

政治家の人達が、のらりくらり質問に答えないのも、彼らは小さき言葉の大きさとその交わし方をある程度に理解して来ているからだろう。SNS上での、やや不毛な政治的論争を眺めてたら、それはある一定の効果を上げてると思われる。

そんな時代だからこそ、小さき言葉をささやく側も、声の使い方、質を意識して、責任を持って行かないといけないと思う。

誠実に言葉を選んで話さない者に、ちゃんとした言葉を返す人はお人好しだ。

例えば、全方位に真っ白の人間なんて本当に存在するんだろうか。

人間っていうのは多かれ少なかれ、白からグレーのグラデーションの揺らぎの中、なんとか折り合いを付けて漂うように、踏ん張って生活していて、居場所を探しているのではないか。

居場所が明確化できない、情報過多で情報を浴びすぎて、アイデンティティに確信を持てない人が多くなり、人間のグラデーションを自身でも認識してるのに、他者や社会に対して完璧な白を要求し、要求することに救いを求めて不寛容になっていくのではないか。

私は、私の友人Hくんが自分の仲間にする”見立て”が、今の社会では大切なことだなと考えてるので少し書いてみる。

彼は自分の会社だけでなく、その会社も含めて周りに色んな職業の人や価値観を持つ人が参加できる、職場というか生きる場所作りに使命を燃やしている人だ。使命を燃やせるのは、彼自身が自分のグラデーションをちゃんと認識してるからだろう。

人はそれぞれの気分もあるし、良いところも悪いところもある。どうしようもなく悪気なく漂うものであって、揺らぐものだ。要するに誰もがいつまでも不完全であって、仕上がってる訳ではないし、年齢は関係なく仕上がる訳でもない。

そうした上に、近くで付き合うことで、彼は見立てを、現代用語ではプロデュースとも編集とも言えるだろう、そういう力を発揮して、自分の仲間たちの力に変化させていく。いつの間にか、思いがけず誰かが誰かの役に立ってしまっているという風に。もしかしたら役に立つという概念がすでに古く、やる意味が見えたから自然とやると言った方がしっくりくるかもだが。

きっと近い将来、彼だけでなく、そこに参加している様々な人たちが、それぞれ、個々どうしで見立てを行うことになると思う。そういう場作りの思想だと、私は勝手に心の中で思ってる。(正解かどうかは、また後日質問してみようと思う)

見立てというのは、本来は別の用途のものに別の役割を持たせて、想像して使うこと。例えば茶道ではお茶の道具でないものを茶道に取り入れて、流用し、その違った趣向を取り込み、さらに道を発展させる。日本のアートでは大切な視点で、日本文化の入り口とも言える考え方だ。

今の日本社会にはこの柔軟で寛容な視点が大事になってきてるのではないかな。

不寛容の前例をどんどん出現させていく日本社会。

因果応報という言葉通りなら、私たちは徐々にその影響を受けていくことになる。

私たちが少しだけ言葉の使い方を大切にしてポジティブにするだけで、変わるものは大きくあるはずなんだけど。

私たちは自分たちの小さき言葉の質の変化に、もっと敏感に、自覚的にならないといけない時代に突入してるのだなと思っている。

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