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視る、とは? ①光あれ

今、目の前に「赤いリンゴ」があるとする。そして僕らの眼で「赤いリンゴ」を視ているとしよう。ここでひとつの疑問が浮かぶ。

「なぜ僕らは赤いリンゴを視ることができるのか?」

「そんなの当たり前やろ、目の前にリンゴがあるからに決まっとろーが。アホな質問したらいかんバイ、拓也君」

地元の先輩から説教を喰らうかもしれないけど、質問するのはアホの特権である。では、いってみよう。


・赤いリンゴがあるから。
うん、それはそうだ。赤いリンゴが無いのに赤いリンゴが見えていたら、それは脳内の記憶を呼び起こしている、ということになる。ただ厄介なことに、僕らの脳は現実に起きたことと、想像したことを区別できない。たとえば見知らぬ女性に「あの男の人がイヤらしい目で私の身体をジロジロ見るんです」と完全に勘違いされても、それを言い張られてしまったら、「言い切った者勝ち」の冷たい世界に生きている。恒温動物なのに寒い。

ごめん、話が大幅に逸れてしまった。物体がそこにあるから視える、無ければ視えない。


・視機能があるから。
うん、これもそうだ。眼や視神経、脳といった視覚に関わる器官が無ければ、あるいはきちんと機能していなければ、赤いリンゴを視覚で捉えることはできないし、脳がそれを認識することもできない。ここを深堀りしてしまうと、解剖学、組織学、生理学、脳神経学などの領域に突入してしまうので、その話題はまたの機会に。


・光があるから
もし光が存在しなければ、僕たちの視覚が受け取るのは真っ暗で真っ黒な世界だ。どんなにそこに何かがあっても、何かを視覚的に捉えることができない。光があるから視える。これは間違いない科学的事実だ。

 ちなみに旧約聖書では「はじめに神は天と地とを創造された」とあり、「光あれ」の号令はそのあとだが、「神様はよく光なしで創造できたなぁ」と感心しつつも、「天と地」を創造しなければ「太陽光」も「星の光」も「ホテルの光(蛍だ。わざとだ。)」も存在しなかっただろうから、きちんと考え出すとここら辺は実にややこしい。

で、この光とは何か?
ニュートンからアインシュタインまで、様々な学者たちが研究に研究を、実験に実験を、失敗に失敗を重ねた結果、現代物理学では、光は「波」であり、同時に「粒」であるということがわかっている。

非常にシンプルにまとめると、光の正体は「電磁波の性質と粒子の性質両方をもった光子」ということになる。

光子は物体にぶつかると「吸収」「透過」「反射」「散乱」など、いろんな反応を起こす。光子がたくさん集まれば白に、減っていけば黒に近づく。地面に映る影が黒いのは、地面に光子が到達していないから。

「真っ赤な太陽」と言われるくらい、太陽は赤やオレンジ、黄色のイメージがあるけれど、それらは「あくまでも地球から見た朝日や夕日の状態の話」であって、太陽の本当の色は無数の波長の光が集まった白である。

『ふうせん宇宙撮影』 より

リンゴは発光体ではない。眼で見える「赤いリンゴ」とは

A)人間には赤として認識される波長の波を反射し、
B)それ以外の可視的な波長を吸収する物体

ということになる。
僕たちの眼に飛び込んでくるのは「赤いリンゴそのもの」ではなく「赤いリンゴが反射した光」なのだ。

つまり僕らは「光を視ている」ということになる。
これって、よく考えたらすごいことだ。

視る、においては、この世は「光」か「闇」でしかないのだから。

普段、当たり前に考えがちな「視る」という行為。
しかし『人間の標準装備』について、改めて医科学を含めた『人類の集合知』から見つめ直すとたくさんの発見がある。そんな話もnoteに書いていきたいと思う。

PS. お待たせしました、Amazonの在庫がようやく復活しました。


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