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「ありきたり」な活動

英語科教育法I,第15回(最終回)の振り返り。
第2週から14回に渡ってやってきた模擬授業もこの日で最後。

模擬授業の概要

There構文をターゲット文法に指定し,福笑いのゲームを通してThere構文を楽しく使うことを目指した。

5人ずつのグループに分かれ,1人が目隠しをする。
それ以外の4人が英語で指示を出し,目隠しをしている生徒が紙に顔の絵を描いていく。

その過程で「〜に〇〇がある」という意味で,There構文を使わせたいという授業構想だった。

授業者本人も自覚していることなので,あえて結論から言ってしまうと,この活動自体はThere構文の学習のための言語活動としてはそこまで上手くいかなかった。
教師役の学生は,There構文を使って「何が存在するのか」(顔のどのパーツか)と「どこに存在するのか」(顔のどの位置か)を話すことを期待した。「どこに存在するのか」を提示するための典型的な言語表現は"in …" "next to …"などの場所を表す句であり,これを有効に使うためには参照点になる場所が話し手と聞き手で共有されている必要がある。つまり「郵便局は池の向かいだよ」と教えてあげる時,「池」の場所は聞き手にも分かっている必要がある。(だからこそ,There構文と一緒に使われる場所句の中の名詞には大抵定冠詞が冠されている。)
今回の福笑いでは絵を描く生徒が目隠しをしていたため,どこまで描いても話し手と聞き手に共有された参照点は生まれず,結局指示側は描き手の手の位置を見ながら"Right, right! Up, up!"という感じに。(この活動も何か工夫を加えれば楽しく学びのあるものになりそうだが,そこはここでは置いておく。)

誰にとっての「ありきたり」か

では,今回の教師役の学生は何を考えてこの活動を選んだのだろうか。
授業後には「There構文を学ぶ活動として『道案内』はありきたり」だと思い,福笑いを選択したことを話してくれた。

すごく,分かる。その気持ち。

別に日本中の英語の授業を見たわけでもないのに,なぜか「There構文と言えば道案内」という伝統めいたものが世代を超えて共有されている。恐らく,教科書に用意されたコミュニケーション活動が道案内だったことに加え,文法ドリル等の例文の多くが道案内的なものだったことが影響しているのだろう。もしくは(誰が誰に何のために伝えているのか分からない)部屋のレイアウトぐらいか。
少なくとも,物語の始まり,つまり状況設定を伝えるためのThere構文なんてものはほとんど出会ったことがない。

それが「道案内さえやっておけば大丈夫!安心のド定番!」みたいな活動であれば,(特に若手は)まずそれをやってみればいいと思う。
しかし,学習者として道案内をしてきた彼女の実感としては,道案内はそういうものになっていない。「退屈で予定調和的でやらされ感の強い活動」というのは学生ではなく私自身の思いだが,まぁ近い感覚だろう。

そこで,「場所を伝える」という目的を持った,より楽しい活動を模索した結果辿り着いたのが「福笑い」だった。

しかし,ここで「ありきたり」という理由で道案内の活動を捨てたという授業構想時点での判断に注目してみたい。その判断自体の良し悪し自体はここでは論じることはできないが,「ありきたり」ということについてはもう少し考えてみたい。(これは大いに自戒を込めている。)

There構文を学ぶための道案内という活動は,確かに我々英語教師や英語教師になることを目指す学生からすると「ありきたり」かもしれない。
しかし,この授業のターゲットとして想定される中学生たちは,(塾や英会話教室での経験を除けば)初めてThere構文を習い,初めて道案内をするはずだ。道案内の活動が楽しいかどうか/学びになるかどうかは別として,教師から見て「ありきたり」という理由だけで別の活動を考えるのはやや早計と言える。

検討会後に私が「先生にとってはありきたりでも,子どもにとっては初めての経験」「ありきたりということは,裏を返せば定番ということ」みたいなことを言ったためか,学生の省察レポートには「今まで私たちが授業で行ってきた内容は、理にかなっている内容だったのだな」と書かれていたが,それもまた違うと思う。(だって,それが楽しくなかったんでしょ?)

私が考えるべきだと思うのは,なぜ「安心のド定番!」ではなく「ありきたり」と感じられているのか,これまで経験してきた道案内の活動の問題点は何なのか,別の活動にすればその問題点は解決されるのか,その問題点を乗り越える(「道案内2.0」みたいな)活動はできないか,といったあたりだ。
(尚,学習指導要領によると小学校の外国語活動・外国語で「特有の表現がよく使われる場面」を設定した言語活動の例として「道案内」が挙げられているのだが,小学校外国語(活動)はその内容・質の実態があまりに不明瞭であるため,無闇に「小学校でやっているはず」という想定はしないことを推奨している)

挑戦する姿勢

この回をもって2022年度の英語科教育法Iは終わりとなったのだが,当初は検討会で「つまらなかった」「退屈だった」という率直なFEELをぶつけられたりして,「あいつの模擬授業の時に困らせてやろう」みたいな微妙な空気になりかけた時期もあったが、最後は(そこまで意識していたか分からないが)授業者にとって出来るだけ学びが多い検討会が出来るように授業中の振る舞いをコントロールできるようになった。
率直な思いを伝えられるというプレッシャーと,みんなで成長していくような良い空気感が,学生に挑戦する勇気を与えたと思う。

特に今回福笑いの授業をしたこの学生は,今回の模擬授業での「ありきたり」からの脱却に限らず,4回の模擬授業全てにおいて自分の考える良い英語の授業に向けて挑戦してくれた。

第1回の模擬授業では,新しい文法事項の指導でも安易に「カンタン」にせず,むしろ「まだまだ分かってないことがあるな」と思わせるような授業を展開した。

第2回の模擬授業では中学1年生の自己紹介の活動ながら,その中で自分の「推し」について語るという要素を組み込んだ。これもまた,ただの自己紹介だと「言いたい」という気持ち(WANT)が生み出せないと考えたことが根幹にある。

第3回では英語科教育法I全体で意識していた「楽しい授業」に対して,「それだけで良いのか」という問題意識を持ち,それに基づいて楽しさと学びのメリハリをつけた授業を構想して実践した。

全ての模擬授業において彼女自身には様々な課題が残ったし,授業の楽しさよりも難しさや苦しさの方が強く残ったかもしれないが,それでもそこに挑戦する姿勢を失わずに半期を走り抜けたことに敬意を表したい。

というわけで,(夏休みに入ってだいぶ時間が空いてしまったが)無事に,2022年度前期の英語科教育法I及びIII,全15回ずつのログを記し切った。
結構しんどいところもあるが,後期も引き続き継続予定。


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