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生徒の反応を解釈する

英語科教育法Iの授業ログ。

模擬授業の概要

模擬授業はTaylor SwiftのWe Are Never Ever Getting Back Togetherを使ったリスニングと歌詞解釈。

「grammar・writing・speakingが前の模擬授業で行ったので、listening・readingを軸とした、ペアワークも取り入れた授業にしよう」ということで、洋楽を聞き取るだけではなく、その後重要な文法を復習し、歌詞の意味理解をするという流れを構想した。

「楽しい」からの脱却

英語科教育法Iはまだ英語教育について何の経験も知識もない段階の学生に毎週一人ずつ「テーマも学年も自由」という無茶振りで模擬授業を担当してもらっている。
その結果、当然ながら最初のうちは授業が授業として成立せず生徒役の学生達も「何をしたらいいかわからない」とか「退屈だった」とかそういう感想が重なることが多かった。
ただ、模擬授業経験を重ねてきたことと、毎回対話型模擬授業検討会で振り返っていることが相まって、徐々に生徒側に「楽しい」という感情を生み出せるようになってきた。
指導技術や指導上の知識はこれからなのだから「とりあえず、生徒に英語学習を強いるのではなくて、英語の授業楽しいなって思えるような授業を考えよう」というスタンスでやってきた。そういう意味では少しずつその目標は達成されつつあるような流れがここ数回の模擬授業ではあった。

ただ、今回模擬授業を担当した学生は「毎回の模擬授業での検討会の際に、生徒側のfeelが「楽しい」だけなのがものすごく気になった」ため、「メリハリがある授業」を行うことに決めたそうだ。

もう少し彼女の振り返りレポートの冒頭部分から引用。

最初の私の思いとしては、授業が楽しい!と思えば、おのずと英語が楽しい!につながるのではないかと思っていました。しかし、毎回の授業で授業は楽しい!ですが、その後の学習につながるような授業にはなっていないし、メリハリがない授業だと思いました。授業をしている間も、休み時間の延長戦のような授業だと感じていました。

自分自身や他の学生のこれまでの模擬授業を批判的に振り返り、そこで見えてきた課題を乗り越えようとしたことを心から喜ばしく思った。
私のイメージでは今期は「楽しさ」に全振りして、来期以降に「あの楽しさをきちんと学びに繋げるにはどうしようね」という話をしたいなと思っていたのだが、彼女はそこに自分の力で気付いた。日頃から学校教育や授業のことを彼女なりにモヤモヤと考えていたり、明らかに読書量も増えていたり、成長著しい。
こういうグングン伸びていく学生に刺激されて教師教育者である私も成長させてもらえるのだと実感した。

つまらないから静かになったんだ…

曲を何度か聞いてリスニングをした後、重要な文法事項を解説して歌詞の意味理解に繋げようとしたのだが、文法解説に入った途端それまでザワザワしていた生徒達が無言になった。そこで彼女は「文法の解説の時間がつまらないから静かになったのだ」と感じ、文法の解説を中途半端に切り上げたと検討会で話した。
一方、生徒側からは「歌詞の意味を知りたかった」という声が複数聞かれ、文法説明が中途半端に終わってしまったことにむしろ不満足感があったことが明らかになった。

この「勘違い」(学生の振り返りレポートより借用)は、私もすごく理解できる。というか、授業者を経験したことのある人なら誰もが味わったことのある感覚だろう。それも一度や二度じゃない。
教材を準備している段階でこちらがワクワクすればするほど、勝手に生徒の活発に活動する姿や深く頷きながら学習に取り組む姿を想像してしまう。しかし、実際には学習者というのは意外なほど表面的には静かに振る舞うものだ。
私も授業で洋楽を聞かせたり意味を解説したりするとき、「え、めっちゃ面白いのに、みんな全然笑ってない!」「すごい冷静な目でこっち見てる!」「すごい顔下がってる!つまんない!?まじ!?」と内心ビクビクしていることは多い。
だが、後から聞いてみると「授業で聴いた洋楽ダウンロードしてる」と言っていたり、授業の日の夜にInstagramのストーリーに授業で使った曲をあげていたり、「なんだ楽しかったんじゃん」と安心したりする。

私は基本的におしゃべりなので研究室でも学生と談笑していることが多いのだが、時々集中して仕事していると学生から「先生、元気ないですか?」とか聞かれる。集中している顔はテンション低い顔と紙一重なのだ。(学生時代には真面目に卒論を書いているだけで「怒ってる」と言われた極めて苦い思い出もあるので、その辺には結構敏感)

目の輝きも大事だけど

「目の輝き」というのは、先生が授業の善し悪しを評価するときに依拠する非科学的な指標の代表例として、しばしば揶揄する意図を持って使われる言葉だ。
一方で私は教師には生徒の「目の輝き」を見取る力も必要だと思っている節もあるが、ここではあまり踏み込まない。

それよりも私が教師として大切にしていることは生徒の「手元」を見に行くことだ。上述のように表情からだけではなかなか生徒の状態を正確に窺い知ることはできない。
一方で手元には、(少なくとも表情よりも)多くの情報が詰まっている。

プリントに何をメモしているか/していないか。
どこに線を引いているか。
歌詞をペン先で追っているか。

そして手元まで見に行こうと思って生徒達の近くをうろついてみると、目の輝きは見えなくとも、肩のリズミカルな揺れに気付けたりもする。「あ、なんだ音楽に乗ってるじゃん」となる。マスクのせいで気付けなかったけど小さな声で口ずさんでいる声が聞こえることもある。

黒板を背にして教室前方から生徒に向き合っているだけではなかなか生徒の情報を掴むことはできない。
生徒の反応を解釈するのは少し教壇を降りて、黒板から離れて教室をうろついてからでも遅くない。

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