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ナウシカの苦悩と成長を僕らのものにするために〜ジブリの犯した過ちを克服する〜

僕が書く小説は、ジブリに似ているらしい

僕が書く小説は、ジブリみたいだと彼女に言われた。

確かに、コアにある考えや哲学は、
ジブリと似通うところがあるから、
そう感じるのも当然と言えば当然かもしれない。

でも、小説を書く上では、
ジブリに関しては今のところ、
全く参考にしていない。

もっとも、ナウシカを漫画で読んだ僕としては、
あそこに描かれた思想哲学には、
一度取り組んでみる必要があると思っている。

現に今、コツコツと執筆している長編については
それを少しなりともかじっていると思う。

ただ、「書く」ということに関して言えば、
僕はジブリを参考にしてはいけないと思っている。

というのは、ジブリは、
商業的には成功したのかもしれないが、
その思想哲学を伝えるということにおいては、
大きな間違いを犯したと僕は感じているからだ。

 

本当に影響を受けているのは、ミヒャエル・エンデ

今、僕が小説を書く上で参考にしているのは、
ドイツ人作家のミヒャエル・エンデだ。

有名な作品でいえば、『モモ』や
『はてしない物語』がある。

僕がなぜ、このファンタジー作家を参考に
小説を書いているかといえば、
その文章に、読む人の感覚に対して
大きな影響を及ぼす力があると感じたからだ。

最もわかりやすいのは『はてしない物語』。

ある少年が一冊の本を読み、
だんだんとその世界に入っていってしまう
という物語は、
現実世界についての記述と本の記述の
行ったり来たりを繰り返して
この『はてしない物語』を読む人まで、
物語に出てくる本の世界の中に
連れ込んでしまうのではないかと錯覚させる。

また別のところでは、『自由の牢獄』に
所収されている『ボロメオ・コルミの通廊』。

ここでは通廊をはじめとした情景の巧みな記述で
この物語の中で起こったことが
果たして現実なのか、空想なのか、
わからなくなっていく。

いずれも、読む人の感覚や感性に
現実と空想の境目の崩壊を体験させるようなもので、
これらを読んだ経験が、
今、僕が小説によって読む人の感性および生き方を
劇的に発展させることができるのではないかと
考えるようになったきっかけになっている。

 

ジブリが犯した過ち〜漫画やアニメは見る人を傍観者にする〜

とはいえ、作品を鑑賞する人の
感性および生き方に劇的な影響を与えるためには、
その作品が見る人、読む人にとって、
徹底的に自分事でなければならない。

つまり、言い換えれば、小説であれば、
それは読者がいて初めて完成する作品、
読者こそが小説の主人公である作品になるように
しておかなければならないということだ。

その点、ジブリをはじめとした
漫画、アニメは、少なくとも現在のところは
小説よりも可能性が小さいように思われる。

というのは、主人公をはじめ登場人物などが
既に絵として示されている状態では、
鑑賞者は能動者として
積極的に物語に関わっていく余地は少なく、
むしろ徹底的に第三者的、傍観者的立ち位置に
固定されたままでいるからだ。

だからこそ、これだけ漫画やアニメが流行っており、
しかもその中で問われていることや、
描かれていることにについて、多くの人が感動し、
時に社会現象と呼ばれるまでに
発展するようなことがあったとしても、
漫画やアニメを見ている瞬間に、
それが我々の人生に人類的な進化をもたらすことは
この国にはついになかったのである。

とはいえ、映像や画像を見ることにおいては、
感覚的な刺激を与える可能性が全くないわけではない。

例えばセザンヌの
『キューピッドの石膏像のある静物』を見てみよう。

これは、見る人がいて初めて完成する絵画と言える。

空間的には明らかにありえないような構図だが、
セザンヌがこれを描けたということは、
目にした光景がこれに近いような形で現れていた可能性が
とても大きいように思う。

そして、自分が目にした光景を、絵によって、
誰かに共有しようとした結果できたのが
このような歪んだ空間の絵だったのだろう。

そういうふうに取れば、この絵は、
見る人がセザンヌの認識を追体験できる絵なのである。

キューピッド

セザンヌ、キューピッドの石膏のある静物、1894年頃、70.6×50.3cm

 

小説は、読む人と物語の主人公を一体化させられる

絵を持つ漫画やアニメが見る人を
傍観者の立場のままにしてしまう一方で、
小説は言葉のみで全てを伝えなければならない点、
読む人に能動的になることを強いる。

しかも、小説の場合、その能動的行動に
「読む」以外にももう一つ、
「想像する」という行為を加える。

この「想像する」という行為が持つ影響力は
時に信じられないほどの威力を発揮する。

例えば、寝坊した、という夢を見ることも、
ある意味では自分の頭の想像力が為せる技である。

だが、たとえ夢であっても、
その世界で起きたことが
現実の僕たちの生活に及ぼす影響は
とてつもなく大きい。

これは、文章によって誘導された想像でも同じで、
例えば広告文を書くコピーライターなどは
売り上げを最大限に上げることができるよう、
読んだだけで宣伝している商品を使っている感覚が
容易に想像できるように文章を書いている。

こうした想像は、
実際に感覚にも大きな影響を及ぼす。

手前味噌ながら、先日僕が書いた
小説の一部を抜粋して、体験してもらおう。

この場面、「わたし」は裸足で
割れたガラスの飛び散った床の上にいる。

 (ガラスのかけらが刺さった)左足を前に出すと、再びピシッとした痛みが走った。もういくつか、ガラスの破片を踏んでしまったようだ。足の裏は今や広い範囲でじんじんする。わたしは顔を歪めて、左隣の本棚に身体をもたれかけた。
『永遠の図書館』より)

いかがだろうか?

いくらかでも左足に嫌な感覚が走ったとしたら、
僕の目論見は成功している。

こうした感覚は、読者が主人公に
なりきればなりきるほど、強くなっていく。

そしてそれは、読者自身が小説の世界に
どっぷりと入り込むことだけでなく、
小説を書く人自身が、
いかに主人公の感性を事細かに丁寧に
伝えることができるかにかかっている。

 

ナウシカの苦悩と成長を僕らのものにするために

このように、文章で書かれた小説は、
読む人に主人公の感覚をはじめとした経験を
追体験できる可能性を大きく秘めている。

そしてこれは、小説においては
主人公の精神的成長を
読者がそのまま追体験できる可能性を
秘めていることを示していると僕は考えている。

つまり、『ナウシカ』においては
ナウシカの苦悩と成長は
ナウシカのものでしかなかったものが、
小説においては読者のものになり得るということだ。

今、僕は、自分が書くあらゆる小説で、
その可能性を探っている。

その意味では、僕は小説を超えた小説を
書こうとしているのだ。

 

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(テイラード小説)

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もちろん、読んだ小説が気に入らなければ、
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