【2022年】本当にやってよかったことリスト

こんにちはノリハラです。

久しぶりに記事の更新をしています。一頃あったブログ熱もいい感じに冷めてきて、落ち着いて文章を書くことができて、とてもよいです。2年ぐらい前には一日ファミレスにこもってブログを更新したりもしていました。

昔そんなふうに書いた記事も現在ではあまり読まれていません。ほとんどと言うか全く読まれていないと言ってもいいかもしれません(まあ、読まれていた時期がバブルだっただけかもしれませんが)。例えばアニメの感想の記事なんかも結構読まれていたのですが、今では全く読まれていません。大手のメディアサイトがgoogle検索を埋め尽くすようになったからだろうと個人的には思っています。やや寂しいことですが、そういうわけで個人の力の限界などを感じてブログからは身を引いていました。(もともと大してアクセス数があったわけではないのですが)

今年は色々と変化の大きい時期でした。ちょうど人生の振り返りにふさわしい時期だった、と言い換えることもできるかもしれません。例えば、身内に病気や死などがあり、人の死というものを強く意識するようになりました。それは、自分の死と他の人の死を強く意識するようになった、ということです。死の問題は宗教観の問題になりますし、ひいては社会とのつながりの問題になります。そんなことを考えて、大切な人に伝えるために文章を書いたりもしました(この文章は現在では非公開になっています)

他に、人生で初めての彼女ができました。私は20代後半から30代前半の男性ですが、これまで彼女というものができたことはおろか、女性と話すというイベントさえまともにありませんでした。それどころか女性と目を合わせた回数さえ数えるほどしかありません。家族以外に女性と呼べる人種は私の人生にはありませんでした。ただ、彼女を作るという体験はおもったよりも手放しでハッピーというわけではありませんでした。

さて、前置きが長くなりましたが、本題のリストにはいっていこうと思います。(なんというか、こういうリストを作ったり、結婚や彼女や人とのつながりをすべてハッピーなものに捉えるSNS的な空気に疲れているところはあります。そんな人間が作ったリストです。お気に召すかどうか…)

バーに通うようになった

恋愛や人生のことで悩むようになり、また心の何処かで出会いを求める気持ちもあり、バーに通うようになりました。私が住んでいるところは田舎ですので、ものすごい有名なお店であったりとか、ものすごい高級なお店というわけではありません。結構長く居たなーと思っても5000円いかない程度のお店です。しかし雰囲気が高級感があって、落ち着いて好きなのでよく通うようになりました。

もともとカフェに行くのが好きだったのですが「カフェってどれも似てるなあ」と思って、飽きていたところだったのもあります。しかしバーではマスターであったりお客さんであったりと触れ合うことができて、そういう社交が面白い、ということがよくわかりました。流行っているバーと流行っていないバーがあってその違いを考えるのも面白かったです。

何より勝手に描いていた「バーってなんだかおしゃれなところなんでしょ?」というイメージが「バーってこういう場所だよね」に変わったのが良かったです。憧れの一つを消化したような心地でした。

実家に帰った

先述した通り、身内でちょっと問題が発生したため、実家に帰ることが多くなりました。人によって価値観は異なりますが私は割りと家族を大切にしたいと思う人間です。ですが、だからこそ、家族には強くあたってしまうところがありました。

例えばこういうことです。両親はスマホやパソコンの使い方を全く理解しようとしません。それをすぐに私達子供に聞いてきます。それにたまらない反発心を覚えました。別に私は万能の神ではなく、わからないことがあったらその都度考え、時には調べて、回答をしているに過ぎません。ということは私は父や母の代わりの労働をしているだけです。それ自体はいいのですが、私が居ないとき、自分の思い通りに行動ができないのが両親にとっても不自由な(つまり不幸な)ことだと考えました。これはすべてのことについて言えました。彼らはテレビの録画ですらできないのです。自分でテレビを見れたほうが絶対に楽しいと考えたのです。

こういうやり取りをこれまで電話でしていたのですが、今回実家に帰り、ともに過ごし、なんで両親がこんな考え方なのか、それがよくわかりました。私は学生のうちに一人暮らしを始めてしまったので、分からなかったのです。それは、具体的に言うとものすごく長くなるのですが、端的に言えば「両親がおもったよりも遥かに愚か」だったからということです。

小さい頃すごかく見えた両親がおもったよりも愚かであるということに気がついたということです。そんなことをいう私自身も愚かなのかもしれませんが、しかし毎日テレビをぼーっと眺めて、何をするにも面倒くさそうにして、何も改善しない両親の姿に私は絶望し、時には怒りを覚えました。勉強しないことを誇るのではなく、勉強すればよいのに、と思っていたのです。しかしながら、それはどうしようもないことでした。若者に年寄りのような落ち着いた行動が無理なように、年寄に新しいことを学ばせるのは難しいのです。そして、新しいことを学ばない人を、特に両親に関しては私は愚かだと思いました。しかし、それでいいと思いました。

なぜなら、というと、一人暮らしをしている私にとって、もっとも近くでいる「人間」はネット上の人間でした。とくにyoutuberやインスタの中の人でした。彼らは賢く正しく明るくきらびやかで皆に注目をされています。勤勉でありなんでも知っているようです。私が「もっとこうすればいいのに……」と思うことは当然のように取り入れています。そんな彼らと見比べて、私の両親はなんと愚かなんだろうと、絶望に打ちひしがれました。

重要なことは自分の身近にいる人、愛する人、大切な人がどんな人間なのかを知る、ということです。なぜ重要なのか、というのは自分でもよくわかりません。しかし自分の人生にとってあまり重要ではないインフルエンサーと呼ばれる人々の動画を何時間を見るよりも(それが無意味だと思いませんが)大切な家族と過ごすお茶の時間の方が比較にならないぐらい大切だと思ったのです。

それが、実家に帰ってよかった理由です。両親がいかに愚かであるかを知るということ、それでもこの人達が好きだと思えたこと、それに気がつけたこと。自分がとても狭い尺度で生きていたという気づき、それらはきっと、私の人生の一つの指針を形作る一つのものになるだろうと予感させてくれました。

恋愛というものに本気で向き合った

恋愛関係では、一年で2つの変化がありました。それは先述したように、恋人ができたということです。そしてもう一つはとてもとてもとても大好きだった初恋の人が結婚したということです。それは僕にとってかなりの衝撃でした。

インスタで結婚報告の投稿を見たとき、頭に衝撃が走ったのを覚えています。まるでひとつの世代が終わったような心地を受けました。愚かな私にとっては彼女が世界のすべてでした。本当に愛していました。どんなアイドルもどんな女優もアイドルも彼女には叶いませんでした。その人と結婚することが(勝手なことに)人生の目的でした。

愚かなことであるというのはよくわかっています。自分でも馬鹿だし痛いやつだとは思います。それほど愛していたにもかかわらず、具体的な行動は何もしていませんでした。何もせずダラダラと暮らしていただけだったのです。嫌われるのも怖かったので、本当になにもできませんでした。

端的に言えば、本当に好きな人が居て数十年好きなままで、そしてそれを失恋したのです。今まで他に一度も恋愛をしたことがない人間が。

恋愛なんて興味がない、という人間が多くの人が過ごす高校生時代や大学生時代の青春時代を無駄に過ごして、ついに恋愛というものに向き合ったのです。ああ、これが恋愛というものか、と失恋というものか、と今更ながらわかりました。すべての人間が先輩に見えました。

そして本当にやってよかったことはいくつかありました。恋愛であれ、仕事であれ、健康であれ、結局のところすべて具体的に一つ一つ行動をしていくしかありません。恋愛関係では全くの初心者ですが、とりあえずマッチングアプリをやっておけば良いのではないかと思いました。あと、バーに行ったりして相談相手を作っておくのは重要だと思いました。

続きます。

すべてをぶちまけた

これまでの私はイメチェンをしたことがありませんでした。ずっと同じ髪型、同じような洋服でした。どちらかといえば少しダサいぐらいが心地よいぐらいでした。そうしていれば目立たないし、変に滑ることもありません。少しおしゃれをしたぐらいでダサく見えるのが一番かっこ悪く思えました。空振りをするぐらいならバットを振らないほうが良いということです。

それから私は友人に恋バナというものをしたことがありませんでした。自分の弱さを告白することは弱点をオープンにすることで、まるで家の鍵を開けたまま外に出かけるような恐怖がありました。イメチェンも恋バナもどちらにしても自分の弱さを公開することが怖いというところに帰着します。何よりも怖かったのです。

しかし、悩みが臨界点を超えたとき、私は友人やバーのマスター、隣の人に自分の弱さを公開するようになりました。全部をぶちまけるようになったのです。悩んでいることも目指していることも楽しくないこと、自分が犯してきてた罪もすべて話すようにしました。そうすると相手(もちろん相手によりますが)は自分の話をおもったよりもしっかりと聞いてくれます。聞いてくれない人もいますが、もしそれがバーのマスターであれば他のバーに行けばいいし、友人であれば他の友人に話せばいい、ということです。

友人が居たのは本当に幸運なことでした。それは完全に偶然的なことだったからです。本音をしっかりと受け止めてくれたのは具体的には会社で志望したところから飛ばされた先の部の同僚でした。

イメチェンも恋バナもよく相談に付き合ってくれました。そしてこれは思わぬことだったのですが、話をすることで、相手のことがより分かるようになったのです。それは(それが悪いことではありませんが)毎日ただ同じようなことを話してばかりでは得られない経験でした。

面白いことを探す・試す→悩む・傷つく→相談する→アドバイスをくれる・笑ってくれる→また新しいことを探すというサイクルがとても良く出来上がっていました。

Nreal Airを買った

(はっきり言ってアフィリエイトです。ここでがっかりする人もいるだろうなあ、と思いつつ)
Nreal Airというデバイスを買いました。簡単にうと画面が映るサングラスです。これは私が本当に欲しいデバイスでした。Nreal Airが欲しいというわけではなくて、こんなデバイスが欲しかったのです。寸分違わずこれが欲しかったのです。それがついに発売されました。

これさえあれば、こちらの記事にあるように寝ながら快適にパソコンができます。映画や漫画も大画面で見放題です。(画面の奥のキーボードが見れるのが文字を書くのが趣味な自分には地味にありがたいです)

良かったのはしっかりと文字が見えるということです。文字が見えるということは、もちろん映像も見れます。外でもツイッターが見れますし、文字がかけますし、しかもそれが他の人からはほとんど見えません。イヤホンによって音楽は人それぞれで楽しめるようになりましたが映像は難しいものがありました。それがNreal Airでいつでもどこでも個別のパーソナル空間を得られるようになったのです。

それにディスプレイがなくなったのも大きいです。これさえあればタブレットとキーボードがあればノートパソコンのほとんど機能を手ぶらで持ち歩けるようになりました。年末に買ったのですが、もっと早く買えばよかったと後悔するばかりです。

他に欲しい物がない中で、これだけは生活を変えるレベルの物品でした。(いらない人にとってはいらないものだと思いますが…)。新しいものに興味がない人や節約を重要視したい人や誰かと同じ画面で映画を見たい人にはあまりおすすめできないですが、そうでなければ、買ってみてみてもよろしいと思います。

仕事が楽しくなってきた

そもそもこの記事を書いたきっかけは、以下の記事にいいねが来ていたことがきっかけです。

上の記事は「仕事って辛い。だって仕事って苦行のことだもん」という内容をつらつらと述べていました。

しかし最近(ほんの少し)マインドに変化があったので、それをお伝えしたいと思いました。

変化とは、最近「仕事が楽しい」ということです。仕事に対してやりがいというものを感じるようになってきました。もちろんやりがいが全てであるとは思いませんが、今(それも……ここ2週間程度のことですが笑)は仕事がとても楽しいです。もともと、私は以下の本を読んでいました。それが「仕事」=苦行と考えた原因でした。それはもちろん正しいことだと思います。ですが、ちょっと、ほんの少し、ウイスキーのストレートぐらいの分量で「仕事って楽しいかも?」と思えるようになりました。

それはとても偶然なことでした。一つは上司がとても良い人だということです。私の言うことをよく聞いてくれ、私のやりたいことをよく受け入れてくれました。それから私のやっている仕事が機械学習関連の仕事で私が今までやってみたいことでした。

機械学習関連の勉強を私はしたいとずっと考えていました。それがまさに新しいものを生み出す「仕事」であると考えていたからです。しかしそれはなかなか叶わず、自分に取って不得意なことをやる日々でした。そこではひたすら鍛えられました(=これはネガティブなことの言い換えでもあります笑)結果、転勤になりましたが転勤先では、転勤元で学んだ社会人としての基礎的な素養を発揮させて頂いきました。そして、必要なタイミングがあったので機械学習関連の開発をはじめることになったのです。

そして、初めて見ると、その仕事と勉強がとても楽しいものであることに気が付きました。ずっとこんな状態で仕事ができれば良いなあと思えました。勉強する意味がようやくわかったような心地でした。もちろん、機械学習分野は発展が凄まじく、私の仕事もいずれはなくなるような仕事だと思います。それでも「自分ができること」が増えることの喜びを知ることができました。それが今の時代を生きる上で必要な素養であるように思えました。

機械学習の基本的な内容は以下の本から学びました。

それから、大学の同期におすすめされたのは以下の本でした。普遍的な良書ということなのだと思います。

最後に

先述したように、本来、特に今年一年を振り返るつもりはありませんでした。もともとのモチベーションはそれとは全く違うところにありました。

それでも今年一年、2022年は終わってしまいました。とても寂しい思いがします。また一年、寿命が縮んてしまったということですから。果たしてこの一年は、私の一年という時間の価値に見合ったものだったのでしょうか、と考えても、いずれにしてもこれが僕の時間であり、人生でした。

そんなときに思い出すのは「大きなのっぽの古時計」です。いつか終わる人生は、なんの意味があるのか、よくわかりません。ああ、そうそう、以下の本も読みました。この本は、ざっくりいうと「死って怖いよね」ということをつらつらと書かれていて、ものすごい共感になりました。あとレビューがみんな思い思い「死」について書かれていて、面白いです。

今後も一度きりの人生を生きていこうと思います。可能であれば、今よりよりよい人生を。「よい」の意味を考えつつ、探しつつ。


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