ピンポン・ジェネレーション
何気なく本棚から手に取って読み返してみたところ、ハッとした寺山修司のエッセイがあった。本題にあるピンポン・ジェネレーションというのは、僕が高校生の頃に読んだ『書を捨てよ、町へ出よう』に収められた「青年よ、大尻を抱け」という一節からの抜粋である。
「最近はピンポン玉のように金玉が小さい男ばかりだ」と、酒場に居合わせた女がぼやく場面からこのエッセイが始まる。玉は大きい方がいいのだから、卓球よりは野球、野球よりはサッカーの方が男性的である。
高校生時代はパンクにしか興味がない自分ではあったが、中学一年生から高校一年生までラグビーをやっていたことに、なんとなく安堵したのは言うまでもない。”ボール(=球=玉)が大きくてフィールドが広いスポーツの方が男性的でかっこいい”と言う自分なりのポリシーはすでにこの頃に確立されていたのだ(笑)。もちろん、卓球など自分からやりたいと思ったことは一度もない。
それはさておき、今でも青春文学の金字塔として語られることの多い本作の初版は、昭和50年、すなわち1975年である。ということは今から40年以上も前に、今風に言えば草食男子についての考察がなされていたことに改めて気付かされたのだ。
その後も本書では、まだ20代半ばの男が、彼女を40代の上司に寝取られたとのエピソードが続き、有り余る若者のエネルギーを持ってしても、金に不自由せず女の扱いに勝る中年男には勝てないというエピソードが続く。若さの特権など、所詮は自由な時間と持て余す体力でしかないという言葉をどこかで聞いたことがあるが、今40代となったしまった自分も同意せざるを得ない。
ちょっと前までは、女遊びは芸の肥やしと言われていた歌舞伎役者や噺家や芸人ですら、今や不倫をすれば大いに叩かれる。そもそも反社会的存在の代表格であったロックミュージシャンが、違法薬物をやっていたくらいで大騒ぎをしている。しかも、やりすぎではないかと心配してしまうくらいに、社会的制裁なるものを下そうとする。
今まで特に熱心なファンでもなかった人に限って、それ見たことか!とばかりにバッシングする。ジャニーズタレントがAV女優と懇意にしていたという類のスキャンダルにも辟易する。血気盛んに挑戦し続ける若い男たちに、パートナーと呼べる女性もおらず、風俗に行くわけでもないのであれば、それくらいのことは笑って済ませるのが、分別ある大人の対応であろう。
男女平等である現代において、ポリティカル・コレクトネスが優先される訳である。破天荒で、性に対して放逸である男性像は時代遅れということなのだ。それが芸人であっても一般人であろうとも、品行方正で社会通念上いつも正しいことだけを為す男の方が重宝される。何とも窮屈で、PTAのおばちゃんみたいな正論がまかり通る時代がやってきた訳だ。
でもいつも僕は思う。歳を重ねれば男であろうが女であろうが、叩けば埃が出るものである。どれだけの人が、聖人君子であり続けたのであろうか? 放っておけば、ほとんどの人間は怠惰になり、打算的な生き方を選ぶ。自分自身にもそれが当てはまるから、それが悪だと断罪する資格など毛頭ない。そんな小人(器の小さな人間)ばかり跋扈しているのが現在であり、それは40年前も同じなのかと思った次第である。
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