自由の手に入れ方!

ずっと自分の人生を単純にするために、自由にするために心を砕いてきた。

思うに「可能性」というものはいくつになっても重要である。「可能性」の無いバンドはやりたくないし、「可能性」の無い文章も書きたくない。

「可能性」が何を生み出すのかといえば、まさに「自由」そのものである。可能性をモリモリ持っていれば、そこには選択の自由が生まれるからだ。

ホモ・サピエンスの子どもは果てしなく自由が無い。すべてが親の都合で決まり、その親は選べない。暮らし方、哲学、食事に選択権も無い。
そして幼児性を保ったままだと大人になっても、三十路になっても、自由が無かったりする。「不自由なおっさん」というのはとにかく幼稚だ。

僕は幼い頃から自由が欲しくて仕方なかった。とにかくひとに指図されたり、束縛されるのが、嫌で仕方なかった。もはや多動性だったのだろう。
それだけを求めて、もがき続けてきた日々だった。ある意味では「自由を手に入れるための覚悟」が確立された子どもだった。自由になるためなら死んでもいいとさえ思っていた。

とにかく道を広げないと自由は手に入らないことを知った。道が一つ以下のときには可能性は皆無だ。もはや選択も自由もない囚人と同じである。

それにしても自由というのは何だろうか。


「好き勝手すること!」とはどうしても思わない。
そんなことしても楽しくもなんともないし、むしろ何かに囚われている。それに「気に入らないやつは殺す!いい女はレイプ!」が自由ならば、ソマリアは自由大国になってしまう。あそこに行きたくなどもない。

自由とはおそらく「自分が考えた通りに行動し、想定した通りの結果を得ること」なのだ。これが可能性を下地にした自由だ。

もちろん可能性だけで自由は掴めない。しかし、可能性が無いと何も始まらない。まずは自分で道を切り開くために考えないと話にすらならないのだ。考えることは「行動」とは呼べないが、考えないと可能性は生まれない。

これは突飛ではないと思っているのだが、「考えない人には自由はない」と年々感じる。僕も自由になったり、ならなかったりを繰り返して生きてきた。そして自由の手前にはいつだって、「思考する」というアクションがあった。
自戒を込めて書いているが結論、「考えないやつ」というのは常日頃ハードモードなのだ。

「別に自由とかいらないし!」と思っているのならば、それでいいのかもしれないが、「『自分が考えた通りに行動し、想定した通りの結果を得ること』などいらない!」と言えるなんて相当悟っている。

「こんな抽象的なことを毎日よくも書けるのう」と呆れる方もいるだろう。

ではどういうときにこんな抽象的思考ができるのかと言うと、目的地まで運転していたり、「誰かにこれを指示しなきゃ」といった極めて具体的な作業の合間に発想されることが多い。

では僕は考えるためにそれらをするのかというと、そんな打算があるわけでもなく、ただ振り返ると結果的にそうなっているというだけだ。「連想力」のような力が付けば付くほどこれまた自由は近づくのではなかろうか。

頭の中が自由なのも大切だ。しかし「なんつーかこういう感じ!」だけで思考を処理していると、不自由だ。すると言葉がいるし知識がいる。言葉や知識は言うなれば「道具」にあたるものだ。

道具というのは 「道」の文字が示すように 、それを手にすれば、あたかも目的に向かって道が開けるような、自分に新しい能力がプラスされたような、そんな気持ちにさせてくれる。

もちろん実際にはそれほど簡単ではない。たしかに「便利」にはなる。しかし道具があるからといって不可能が可能になる、という例はまず無い。いいギターを買ったからといって、いいギタリストになれるわけでもない。

単に時間が節約できるだけ、程度の効果がせいぜいである。新しい道具を持つとたしかに「やる気」は湧く。この「やる気」は金銭で手に入れにくいので貴重かもしれない。でも「やる気だけで物事が解決する」と思ったら大間違いだ。

モチベーション至上主義のひとが多いが、やる気なんてなくても「やれ」ばいいのだ。やる気が有ろうが無かろうが、やったら何かしら進む。クオリティの最大化が得られなくても、達成には十分だったりすることが多い。

「やる気が無い」というのは、あまりやらない理由にならない。そんなことで「可能性」をゼロにするとますます自由が遠のいてしまう。

「やるかやらないかだ」なんてよく言われるが、まさしくその通りだ。これまた自戒を込めてだが、やる気に左右されているなんて状態は、やる気により不自由にされているとも言える。

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