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暴かれたその先の話
今日も変わらず、暴かれている。吊るされている。そして謝らせている。
あしたもちゃんとやってくるし、地球はグルグル回っている。
また何回か回ったら、誰かが悪さをして、それを暴いて吊るす。
「暴き」にニーズがある以上、このループは止まらない。
暴かれしひとは「やり直し」の可否を問われる。「取り返しのつかないこと」なのか「そうでもないこと」なのかが裁断される。
「人生は何度でもやり直せるか!?」と問われたら、どうだろうか。
やり直せるのかなぁ。「取り返しのつかないこと」を取り返すのはどれぐらいの難度なのだろうか。
かと言って「何度でもやり直せるさ!」と耳当たりのいい言葉を吐く人はしんどいし、センスも無いしポジティブの押し売りもキツイ。ていうかそもそも「やり直す」以前に、そやつはどうせ底へ落ちた経験が無い。
僕の人生はどうだったのかな。何回かやり直したことを思い出す。
そういえば、アレもアレもアレもコレも「取り返しのつかないこと」だったんじゃないかなぁと思う。
たとえば「解散」もひとつの「取り返しのつかないこと」だ。
溢れた水は二度と皿には戻せないし、取り返そうと思っても不可能なのだから、あがいても意味がない。
ということは、どうやら僕も「取り返しのつかないこと」を取り返そうとしているひとりだ。
僕の半生には「取り返しのつかないこと」が他にも勢揃いだ。
顔向けできないひとがいるし、顔向けできないこともしてきた。
顔向けできない場所もあるし、顔向けできない仕事もしてきた。
たぶん「これまで迷惑かけた人間リスト」を作ったら、落ち込んでしばらく立ち上がれない。ちょっとリアルタイムで胃が痛くなった。
だけど、それでも、僕は大人になった。
おめおめと、厚顔よろしく僕はでかくなってそれなりに生きている。
ということはどうやら「やり直せる」らしい。
ためしに「取り返しのつかないこと」の先に僕は来てみたけれど、死んでいないし、とりあえずあしたも明後日も予定はある。
ひとまずなんとかやっている現状がある。
「何度でも」とは言わないが、きっと「何度かは」やり直せるのだ。
肌感として「何度でも」とはちょっと言えないのが本音だ。たぶんしんどい。ていうかたぶん「やり直す」必要なんてないと思う。
やり直せなかったとしたら、どこかへ行けばいい。リスタートではなく真新しい場所でゼロから走り出せばいい。
「何度でもやり直せる」はウソだが、「何度かはやり直せる」し、「行こうと思えばどこにだって行ける」はホントだ。
きっと新しい場所やそこで出会う新しい人々は、「こんなキツイ過去があってね」という話をコクとして飲んでくれる。味わってくれる。気が利いていれば笑い話にしてくれる。
大体が死ぬ直前には面白かった話になって、ちゃんと成仏する。
それでも「反省」が日本人は大好きだし、処罰に何かを見出している。
だけど申し訳なさそうにするよりも、次々と目の前のひとを豊かにしていく方が大事なんじゃないだろうか。
ミスった誰かの何かを吊るし上げて、「反省していない!」と言うひとがいるけれど、「そもそも反省とかいらなくないか?」と僕は思う。
いるだろうか、反省って。
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