俺はお前ら凡人なんかとは違うのだ!
無粋だということは分かっている。
『人付き合い』に難度をぶっかけるなんて。
「それでも付き合うのがラクなひと」というのがいるじゃないすか。「こいつダルい…」っていうこと、あるじゃないすか。
ミュージシャン、というか漫画家もイラストレーターも脚本家もそうなのだが、クリエイターは基本ラクだ。モノを作る人種は圧倒的にラクなのだ。
多くのクリエイターは「自分が頭おかしいこと」を自認しているからだ。中二にひいた風邪が完治していない彼らはとても付き合いやすい。
肺炎クラスにこじらせた者に至っては
「おかしい俺って特別でカッコいい。まるでカート・コバーン、シェイクスピア、手塚治虫みたいじゃないか、俺はお前ら凡人なんかとは違うのだ」
という領域にまでフェーズが進んでいる。
承認欲求が爆発して、脳細胞が狂い、本当に「おかしなこと」をしでかすやつもいる。
宝物のギターを燃やしたり、イテテテ!と泣きながらフグ刺しぐらいうすーく手首を切ったり、視力2.0なのに眼帯しちゃったり、マリファナは犯罪だから脱法ハーブを吸って「嗚呼、青色が黄緑に見えるぜ…」などと晴れ渡る快晴の下、ほざいたりしている。
これら「おかしな連中」を見ると腹がよじれてしまう。もうこちらがイテテテ!と目を背けてしまう。まったくあんなこと言うんじゃなかった。
そんな愛らしい馬鹿たちをめんどくさそうに感じるだろうか。
しかし本当にめんどくさいのは「俺正常」という野郎ではないだろうか。
【俺は普通、俺はマトモ、俺は正常、俺は正しい】
この思考回路が正直一番めんどくさい。彼らは「共感できるもの」にしか笑顔を向けない性質がある。
本を読んでも「共感できた」
歌を聴いても「共感できた」
ダチと話しても「分かる分かる」
もちろんこの感想が悪いのではなくて、これ以外を排除する姿勢がめんどくさい。
犯罪者やカルト、異文化を「共感できない」という理由で焼却してしまうひとがいる。そのバックグラウンドを検証して、知らない世界を知ろうとする意気込みがゼロなのだ。
そんな「俺、正常」くんからすると、僕は排他の対象だった。
家庭、部活、教室、社会という海では「俺、正常」くんが圧倒的多数になる。
群れの動物である人間は、周りと呼吸を合わせる本能がある。だからこそ数の暴力というものは身悶えするほど怖い。
しかし【家庭、部活、教室、社会】は自分で選んで属したわけではない。生まれた場所、年齢、地域に準ずるカタチになる。これらば自らの裁量でコントロールできないから、日陰者が一定数生まれるのは当然だ。
反対に、オンラインサロンやバンドメンバー、同好会、起業なんかは自分の色にカスタマイズしたり、合ったところに飛び込むことができる。
子どもの頃とは違い、『自分に合った海』に僕たちはある日たどり着けるようになる。「選択の権利」は大人になる最大のメリットの一つだ。
そうして、たどり着いた海の水質、塩分は非常に肌に合う。ネバーランドにて、みんないつまでも楽しく暮らしましたとさ。
とはならない。
面白いことが起きる。
「気の合うメンツ」なはずなのに、ここでもまた排他が発生するのだ。ほんのわずかな、些細も些細な「違い」を見つけて、誰かしらを削り、燃やし、流す。
いじめや仲間ハズレを作ることは抗えない欲求なのかもしれない。ハズレ者がハズレ者を弾くという馬鹿みたいなストーリーが展開されていく。
むかし排他的なやつらに唾を吐いたのに、自分がそいつらになっていることがある。こうなると自分に唾を吐きかけたいが、天に吐くしかない。
結局、何をしても汚れてしまうし、どこにいてもいつかは陰鬱になる。
だけど、永遠に続くものほど退屈なものはない。
すべてが諸行無常なのは種への救済なのかもしれない。
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