歩めなかった人生
春の風物詩は「新しい人々」が溢れかえることだという記事を先日書いた。
五月も半ばになってくると、彼らがどんどん生き生きしてくる。
新社会人に新入生に新学年。先月まで別の肩書き、所属だったひとたちが新しい人間として馴染んでくるのだ。
学年が上がったり、昇進の方々もそわそわしてるが、その中でも新社会人と新入生の放つオーラは特別だ。
彼らの「新しさ」はやはり突出したものがある。
僕は学生街に住んでいるせいで、新入生の「新しさ」を毎年目の当たりにしてきた。
大学一年生と二年生は年もあまり変わらないのに、天地ほどの差がある。これは雰囲気の話だ。
わかりやすく言うとパッと見ただけでも、一年生かそれ以外かが分かる。僕だけだろうか。
新しくなりたての、まだ環境に適応できていない生物独特の「違和感」みたいなものを感じるのだ。
もちろんそれが不愉快なわけでもない。ただ感じるというだけだ。
朝の時間帯に、新入生たちと道を歩くことがある。
道を歩いているだけだ。しかしそれだけで気が穏やかになるようだった。
色彩や風景の装飾がもたらす影響力を感じながら、僕は歩いていた。
ふと「この街で新入生だったら、自分の人生はどうなっていただろう」ということを考えた。
人格形成はどうなっただろうか。
進路はどうだっただろうか。
どんな友達といたのだろうか。
どんな価値観を持ったのだろうか。
パラレルワールドっぽい話だけど、僕たちには「失った過ごし方」と「手に入れた過ごし方」がある。
高校を出た後、僕は大阪へ行った。
その時間軸で「大阪に行った僕」がいる以上、「東京に行く僕」は失われたことになる。
僕はもう「あの時間軸で東京に行く」という人生を送ることは絶対にできないし、その場合に手に入れたものを手にすることも100%できない。完璧に失われているのだ。
そんな基本的な喪失に気づかないまま、僕たちは「今の過ごし方」を手に入れまくっている。現在のルートで手に入れてきたものは、もう100%揺るがない。
ただ間違いなく、大阪ルートじゃない限り、僕はバンドをやってはきていない。
そして「どちらが良いか」という話に意味は無いし、必要もない。
大切なのは僕自身が「バンドをやっていてよかった」と思うこと、僕がバンドをやっていることを、誰かに喜んでもらえるように生きていくこと、バンドをやってきたことで形成してきた能力を別のところで生かしていくことだ。
僕が生きれなかった人生を歩いているダチと二人で飲んでいると、そんな話にばかりなってしまう。意味も無い話だが。
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